Ⅷ‐ ②


 その日の帰り道、俺の足は自宅の方へは向かわず、なにを求めてか、気付けばマシバの家の前に立っていた。


 ひっそりと静まり返った住宅街の中で、やつの家にも他の家同様、玄関先には煌々と明かりが灯っている。しかし、はたしてこの家の中は……そう思うと、チャイムに伸ばした指先が虚空に歪な線を描く。

 幾度かの逡巡の末に、俺はその場を立ち去ることに決めた。くるりと身体の向きを変え――とその時、遠くからこっちに向かって歩いて来る一人の女の子の姿に目が留まった。


 塾の帰りらしい、マシバの妹だった。


 マシバの三つ年下の妹。本名、真柴尚香。

 尚香と書いて「ナオカ」と読む。案の定、その名を付けたのはマシバの父親だった。まったく、どこまでも三国志フリークなバカオヤジだ。しかも、こいつも兄であるマシバ同様、名前負けしない「弓腰姫」さながらのわんぱくおてんば少女だった。


「おい、ナオカ!」


 俺はナオカならばマシバのことについてなにか知っているのではないかと思い、遠目から声を掛けた。ナオカは俺と目が合うや否や、俺の方へ向かって愛らしく駆け寄って――助走を付けてドロップキックを放って来た。

 俺はいつものようにそれをひょいとかわし、逃げるように玄関へと走るナオカの腕を掴んだ。


「ナオカ、ちょっと待てって! 話を聞けよ!」

「うるさい! 黙れ!」


 ナオカは空いた左手で俺の肩をグーで殴ってきた。いつもならば即刻取り押さえてやるところだが、ナオカが目にいっぱい涙を溜め、真剣に拳を繰り出してくるので、俺はしばらくナオカの好きにやらせていた。

 ナオカは兄であるマシバのことを誰よりも慕っていた。愛してさえいたかも知れない。ガキの頃はよく俺とマシバが遊んでいるところへ割って入って来たりなんかして、マシバの手を引いて俺から引き離そうとした。俺がそれを追い掛けて行くと、ナオカは俺に向かって砂を掛けてくるのだった。俺は心の中で、ナオカのことを「リトル砂掛けババア」と呼んでいた。

 マシバに彼女ができるようになると、ナオカはマシバと彼女がデートに行くのを後からこっそりつけて行くなどのストーカー行為に手を染めるようになっていった。

 ある時、そんなストーカー・ナオカをたまたま街で目撃してしまった俺は「よお、ナオカ。なにやってんだ、こんなとこで?」と、警戒心ゼロのまま声を掛けた。

 ナオカは真っ青な顔をして振り返り、目の前にいたのが俺であることを確認すると、無言のまま俺の股間を蹴り上げてきやがった。その後のことは、残念ながらよく覚えていない。


 どうやら、ナオカは俺のことを「お兄ちゃんを悪の道に走らせようとする悪いやつ」かなにかのように思っているらしく、事ある毎に俺の前に立ち塞がっては戦いを挑んできた。が、女子の中でもさらに小柄な方のナオカの力は弱く、股間さえガードしていれば他はどこを蹴られようが殴られようが大したダメージにはならなかった。

 ナオカは大分勢いの落ちた拳で、まだ俺のことを殴っていた。


「おまえが! おまえのせいで、お兄ちゃんは出て行ったんだ!」

「……おい、今なんて言った!?」


 出て行った――どういう意味だ、それは?


「おまえが悪いんだ!」


 つい油断したところ、ナオカの膝が俺の股間にダイレクトヒットした。

 俺は俺にしか聞こえない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。

 そんな俺を置き捨て、ナオカは荒々しく家のドアを開け、そのまま姿を消した。


 俺は満身創痍のまま家路を急いだ。やはりナオカはなにかを知っている。だが、それを知るには俺の力ではどうにもできない。そこで俺は、気が進まないながらも一つの伝手を頼ることにした。

 ナオカには兄であるマシバの他にもう一人、心を開くことのできる相手がいた。それは俺もよく知っているやつだった。そして、そいつは俺の家にいた。

 俺の弟だ。


 俺の弟はナオカとは一つ違いで、小さい頃からよく面倒を見てやっていた。

 弟は必要以上にナオカに干渉するようなことはしなかったが、おてんばなナオカが度を越えた無茶をしようとする度に、必ず止めに入っていた。そのため、ナオカはあわや大惨事という状況を幾度となく俺の弟によって救われていた。

 そんなこともあって、ナオカは俺とは対照的に弟の言うことにはよく従っていた。マシバもそんな俺の弟を信頼し、ナオカのことは弟に任せ、安心して俺たちとのバカに明け暮れた。


 一方、俺はこのよくできた弟のことがあまり好きではなかった。


 弟は俺と違っておとなしく、落ち着きがあり、なによりも、正しかった。

 弟は世間一般で言うところの「いいお子さん」を地で行くようなやつで、その道から外れるような間違ったことは決してしなかった。大人の目にはそれが大層魅力的に見えたのかも知れないが、子供の俺から言わせてもらえば、弟は実に面白みのない、一緒にいてもただ退屈なだけのつまらんやつでしかなかった。

 しかも、弟は前述のようにナオカのことは助けても、俺のことは助けてくれなかった。


 ガキの頃、俺がナオカにちょっかいを出し、怒ったナオカが俺を追い掛けて来たことがあった。

 俺は近所の用水路に架かる幅十五センチほどの梁の上まで逃げ、「来れるもんなら来てみろ」とナオカを挑発した。おっかなびっくり梁を渡ろうとするナオカのことを、俺の弟が制止した。

 俺は急に面白くなくなり、梁の反対側まで一人で歩いて渡った。と、その途中、俺は足を滑らせて用水路に落ちた。用水路の水かさはそれほど深くなく、目立った怪我もしなかったが、俺はずぶ濡れになって少しドロ臭い異臭も漂わせながら、道行く人の奇異の目に耐えつつ家まで帰った。

 家に帰ると、弟とナオカがリビングで呑気にアニメを見ていた。俺は風呂場でシャワーを浴びながら、心の中で悔し泣きした。


 そんな、どうにもいけ好かない弟に、俺はマシバのことをナオカに尋ねてくれるよう頼んだ。弟は怪訝そうな顔をしながらも「わかった」と承諾してくれた。


「……シン。ナオカの兄貴になにがあった?」


 ナオカとの電話の内容を話し終えた弟は、いつものように俺を呼び捨てにして言った。


「おまえには関係ねえよ」

「関係なくても、聞く権利くらいあるだろう? シンの頼みは聞いたんだ。俺にもなにがあったかくらい聞かせろよ」


 こいつが俺になにかを尋ねてくるというのも珍しいことだった。


「いつもならスリーコール以内に俺の電話を取るナオカが、今日はセブンコールも掛かった。これは異常だ」


 相変わらず面倒くせえやつだなあと思いながらも、普段とは違う弟の険しい表情を見て取って、俺も弟に事の次第を話すことにした。


「……そうか。それは大変だな」


 俺の話を聞くと、弟はそれだけ言って自分の部屋に篭ってしまった。

 薄情なやつだ、とは思うものの、やはりこれはあいつには関係のないことだし、ナオカからマシバのことを聞き出してくれただけでも感謝せねばなるまい。


 弟がナオカから聞き出した情報によると、昨日、明らかにおかしな様子で学校から帰って来たマシバを心配したナオカは、夜も寝ずにマシバの様子を窺っていたと言う。

 そして、今日の明け方早くに玄関へ向かうマシバをナオカが呼び止めた。マシバは一言、「心配するな」とだけ言ってナオカの頭を撫で、そして、家を出た。

 それっきり、マシバは今日家に帰って来ていないらしい……。


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