ブロワリアのせい


 ~ 八月二十一日(火) 数学、化学、保健、英語、歴史 ~


   ブロワリアの花言葉 貴方は魅力に富んでいる



 クーラーの効いた日帰り合宿所。

 夏の勉強に最適な、おしゃれな新築一戸建て。


 そんな完全無欠の勉強場所で。

 完全無欠にサボり続けるのは藍川あいかわ穂咲ほさき



 そろそろ、テコを入れないと終わりそうもないので。

 数学だけでも手を貸そうと。

 俺は久しぶりに、教科書の問題を目玉焼き語に変換してみました。


 穂咲の後ろに立って、このOHPシートを教科書に乗せるとあら不思議。

 文章が、すべて目玉焼きに関する問題に早変わり。


 穂咲もタレ目を見開いて。

 徹夜でこんな手の込んだものを作った俺を称えてくれます。


 これで最大の難関も、今日中に片がつぎゃん!


「穂咲ちゃんにくっ付き過ぎじゃ!」


 見事な一本背負いを食らって。

 あっという間に世界の天と地が入れ替わり。


 星がちかちかと瞬く世界で、額に青筋を立てながら俺を見下ろしているのは。


「いらっしゃいませおじいちゃん」


 この家を自分のわがままひとつで建ててしまった。

 穂咲のおじいちゃんなのです。


「みちのぶ君といったか! なぜここにおるのじゃ!」

「道久です」

「道久君なの」

「そんなことは聞いておらん」


 いつも通りのリアクションをしたおじいちゃん。

 俺の身柄を、後からやって来た執事さんにゆだねると。


「穂咲ちゃん!」

「おじいちゃん!」


 穂咲と、ひしと抱きしめ合っておりますが。

 まあ、それは良いとして。


 俺はいつになったら。

 床に押さえ付けられた状態から解放してもらえるのでしょうか。


 新堂さんと言いましたっけ。

 おじいちゃんの執事さん。


 落ち着きある佇まいなのに。

 いつもやんちゃな攻撃を俺に仕掛けてくるのですが。

 格闘技もできるのですね。


 腕を背中に曲げられて、腰の上に座られているだけなのに。

 俺、ピクリとも動けないのです。


「あ! 丁度いいのおじいちゃん!」


 俺が置かれた、数奇な状況も目に入っていないようで。

 穂咲は、なにやらおじいちゃんにせがみ始めているのですが。


「なんじゃ、欲しい物でもあるのか? よいよい! コーチでは子供っぽ過ぎるからな! ヴィトンが良いじゃろう!」

「コーチもマネージャーもいらなくてね? おじいちゃん、大きな会社の偉い人でしょ?」

「そうじゃぞ? なんじゃ遠回しに言いおって! エルメスのスカーフが欲しいなら最初からそう言えばいいのじゃ! 買うてやる買うてやる!」

「歴史の宿題にちょうどいいの。偉人のレポートを書きたいから、おじいちゃんの武勇伝を聞きたいの」


 欲しいものについては大外れでしたが。

 穂咲に、偉人などと呼ばれたおじいちゃんは。


 面白いほどあうあう言い出して。

 そして、手をもじもじとさせ始めたのです。


 ……が。


「いだだだだ! おじいちゃん! もじもじするなら自分の手でやって! 俺の手首をねじ上げないでほしいのです!」


 床に突っ伏したまま腕を持ち上げられて。

 そして手首をもじもじと極められてはいたたたた!


 そんな俺のありさまを。

 穂咲は写真に撮りつつ、ノートになにやら書き込んでいるのですが。


 ……これは、武勇伝では無いですし。

 おじいちゃんは歴史上の偉人ではありません。


「宿題、一つ片付きそうなの。他には無いの? 会社のピンチを救ったとか」

「そんなの山ほどあるからのう。……ああそうじゃ。武勇伝とは違うが、ひとつ面白い話があるぞ? わしの強運の話じゃ!」

「それより、不運な俺にかけた二人がかりの関節技を外してください」

「うるさい! 穂咲ちゃんに貸してあげている家に入り込むなど言語道断じゃぞ、みちざね君!」

「俺はいやなのに、こいつが宿題につき合わせているのです。あと、道久です」

「そんなことは聞いておらん。……おい! ひかりちゃん! ちょっとおじいちゃんとこに来るのじゃ!」


 今日は、比較的きかんぼうだったひかりちゃんが。

 おじいちゃんの言う事には素直に従って。

 押さえ付けられたままの、俺の前にしゃがみ込んだのですが。


「よし! それではこの不法侵入者の髪を引っ張って遊んでいるのじゃ!」

「なんてこと言い出しだだだだっ! い、意外と力持ちですねひかりちゃん!」


 ほんと。

 このおじいちゃんに関わると、こんな事ばっかりなのです。


「ふむ、それでは話してやろう。穂咲ちゃん、帳面の準備はよいか?」

「ばっちりなの。でも、ゆっくり話すの」

「もちろんじゃとも。わしが四十の頃、傾きかけた子会社の一つを立て直すために顧問として出向しておった時の話じゃ」


 髪を引っ張られ、両腕を捻じりあげられ。

 酷い状態ではありますが。


 面白そうなお話が始まりました。


「わしは意識改革から始めてな。準備を怠るな! いついかなる時も、物を、心を、時間を、金を準備しておくこと! そんなスローガンを掲げてな、自ら手本となったのじゃ」

「いいことなの。誰かにお願いする時は、自分がそれをできないといけないの」


 ……これは、おじさんが俺と穂咲に教えてくれたことでして。

 ということはきっと。

 おじさんも、おじいちゃんから教わったのでしょう。


 穂咲の言葉に、おじいちゃんは嬉しそうにはっはっはと笑うと。

 然り然りと頷きながら、続きを話してくれました。


「じゃが、わしはその戒めを破ってしまったのじゃ。取引先で、急なにわか雨に会うたのじゃが、その日の朝、書類が重くて、鞄からこうもりを出してしまったのじゃ」

「だめなの。みんなにちゃんと準備するように言っておいて、面目丸つぶれなの」

「うむ。一緒にいた連中は、皆、わしの言葉に従ってこうもりを準備しておったのじゃがな。……じゃがの、ここからがわしの強運じゃ。南無三とばかりに鞄を開けたら、なんとこうもりが入っておったのじゃ!」


 え?

 それは凄い。

 無意識のうちに書類の隙間に突っ込んでいたって事?


「出したと思っておったのに、勝手に入ってきよる! それこそ、真の意味で心の準備が出来ているという事なのじゃ!」

「すごいの。ほんとに強運なの」


 むふんと胸を反らすおじいちゃんへ。

 穂咲が惜しみない拍手を送っていると。


 玄関が開いて。

 落ち着きのある声が、廊下をしずしずとこちらへ進んできます。



「旦那様、こちらでしたか」

「おお! 穂咲ちゃんに昔話をしてあげておったのじゃ!」


 部屋に入って来たのは。

 予想通り、穂咲のおばあちゃん。


 おじいちゃんの姿を見るなり、溜息を漏らしていらっしゃいます。


「……芳香よしかさんのところでいつまで待ってみてもいらっしゃらないので、まさかと思って来てみれば」

「うむ! そうじゃった! 仕事の合間と言うに、待たせるのは失礼じゃな!」


 なるほど、今日はおばさんの所へ挨拶にいらして下さったのですね。

 どうりで。


 おばさん、今朝は緊張しながら。

 そのくせ、にやけ切った顔で店先を掃除してたわけなのです。


 藍川家と、和解と言いますか、そんな関係になってから。

 おばさんは、心なしか体調もよくなった気がします。


 ……そんな幸せを感じていたというのに。

 外は一瞬で暗くなると。

 タライをひっくり返したような大雨が降りだしました。


「うむ! にわか雨とは参ったのじゃ! 新堂に命じて、今日は土産物ばかり持たせたからの。こうもりを持たせるのを忘れてしまった!」

「ダメなの、おじいちゃん。せっかくのお話に、ひどいオチがついたの」


 まったくじゃと笑うおじいちゃんの隣で。

 恐縮そうに、首を垂れる新堂さん。


 あなたのせいじゃないでしょう。

 おじいちゃんの命令なのですから、悪いのはおじいちゃんなのです。


 しかし、こんな雨の中、傘もささずに外へ出ることなどできません。

 俺も穂咲も、傘なんて持って来ていませんし。


 どうしたものか、唯一自由に動く首を傾げて考えていた俺の耳に。

 おばあちゃんの涼しい声が届きました。


「新堂でしたら、荷物の中に折り畳みを入れておりましたよ?」


 ……皆がきょとんとする中で。

 おばあちゃんが、部屋の入口に置かれた旅行鞄を開くと。

 中から三本の折り畳み傘が現れたのです。


「旦那様がいつも仰る準備。新堂が怠るなどありえないでしょう。では、まいりましょうか旦那様」



 俺は、豪快に笑いながら新堂さんを称えて、その背中をバシバシと叩くおじいちゃんの三歩後ろに。

 真の偉人の姿を見たのでした。



 ……歴史の宿題、おばあちゃんの事に書き直そうかしら?


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る