クレオメのせい
~ 八月十八日(土) 数学、化学、保健、英語、公民 ~
クレオメの花言葉 秘密のひととき
クーラーの効いた日帰り合宿所。
夏の勉強に最適な、おしゃれな新築一戸建て。
……ではなく。
「すいませんね、おばさん。一人じゃ何かあった時こわくて」
「構わないわよ。それより、この時期はそれなりいそがしいんだから。しっかり手伝いなさいな」
「はいはい」
ここはわが家のお隣りさん。
つまり、穂咲の家でして。
クーラーは、お花のためだけに。
そんな、徹底した節約を貫く綺麗なおばさんと共に。
お店の仕事と、ひかりちゃんのお相手をこなしていると。
「さて、道久君」
「なんでしょう?」
レジの乗った、小さなカウンターに立って。
何日もため込んでいた伝票を整理していた俺に。
おばさんが。
相変わらずの、無茶なことを言い出しました。
「終わらないじゃない、ほっちゃんの宿題」
「俺のせいじゃないです」
もちろん、これは言い訳でも責任逃れでもなく。
穂咲の宿題が終わらないのは穂咲のせいなのであって。
俺のせいにされても大変困ります。
でも、おばさんにはそんな当たり前のことが理解できないらしく。
やれやれと頭を振りながら。
エプロンのポケットから四つに折られた紙を取り出しました。
「宿題が間に合わなかったら、ちゃんと責任を取りなさい」
「意味が分かりません。責任ってなんです?」
眉根を寄せた俺の目の前。
カウンターに、さっきの紙がぺんと叩きつけられます。
「……婚姻届けって、結婚できる年齢になってない人が書いていいのでしょうか」
「さあ? 法的には却下されるんじゃない?」
そう言いながらペンを渡してきますけど。
「まだ五日ありますので書きません。…………舌打ちされても書きません」
まったく。
この人には困ったものなのです。
「そもそも、俺のせいではなく穂咲のせいですし。罰ゲームではなく、ご褒美でもなければやりませんよ?」
俺が悪魔の契約書を元通りに折っておばさんのポケットへ突っ込むと。
この人、心底いやそうな顔をしながら。
「……じゃあ。上手くできたら北海道一人旅をプレゼント」
同じポケットから。
今度は、ツアーの申込書を取り出してきたのです。
「こんなの準備してくれてたんですか? それに、一人旅なんて嬉しいです!」
飛行機と宿と食事。
全部付いてるじゃない。
ツアー名も一人旅ツアー。
申込者の記入欄も一つ。
何の不安もない。
「それでは早速……」
「ちょっと! まだ名前書かないでよ!」
「最悪、不正をしてでも間に合わせますのでこれは俺のもの……? おや?」
よく見れば。
二枚目にも、同じ申込書があるのですが。
「ねえおばさん。二枚目に穂咲の名前書いてあるんですが。……いや、舌打ちされましても。あと、四枚目に隠してあった婚姻届けって、三枚目のカーボン紙の転写じゃ許可通らないですよね?」
「まったく! ハネムーンに使わないなら返しなさい!」
「いやいや。そうとう怒られますよ? 一人旅ツアーに新婚さんが来たら」
ぷりぷりと怒りながら。
地獄への片道切符をポケットに突っ込んでいますけど。
いやはやこの人は。
俺の中の、好きか嫌いかに揺れる天秤を。
『逃げなきゃ危ない』の側に傾ける名人なのです。
――本日。
穂咲は公民の宿題を終わらせるべく。
朝から、地元の秋祭りの打ち合わせに参加しています。
公民からは。
地域活動を知り、参加するという、まるで小学生の宿題のようなものが出されたのですが。
高校生にもなると。
なかなかこの手のものに参加するのは抵抗があるのです。
でも、穂咲にそのような抵抗感は全くないようで。
実行委員でもなんでもないのに会議の席に座って。
それを、参加したことにしてしまう気でいるようです。
地域活動に参加すれば課題はクリアー。
確かにその通りなのですけれど。
君の『参加』の解釈。
公民の先生を怒らせるレベルで間違っていると思います。
……俺が伝票整理の続きを始めると。
おばさんは、じょうろに水を張って。
今日何度目かの打ち水をしようと店先へ出るなり。
通りすがりの方へ声をかけているようなのですが。
「あら、久しぶりね。帰郷中?」
「やだ久しぶり! 五年ぶりくらい? あんた全然変わんないわね!」
時期が時期。
その方は、帰郷中だった昔の顔なじみのようで。
なんとなく見覚えのあるお客様が。
店の前で、延々と近況報告を始めたのです。
こうなると女性は止まらない。
暑い店先だというのに。
平気でお話を続けています。
そんなおばさんトークのすぐそばで。
大人しくしていたひかりちゃん。
しゃがみ込んで。
長い雄しべと雌しべが特徴的な、クレオメのお花を見つめています。
蝶々が舞っているような、美しいフォルムのクレオメを。
おもむろに片手で掴んだかと思うと。
急に走り出して。
慌てた俺の視線の先で。
お客様の足に体当たりすると。
お花を道にぶちまけてしまったのです。
「え!? 穂咲ちゃん!?」
「違うわよ。この子はひかり。姪っ子よ」
「びっくりしたわよ! そっくり!」
「そう?」
「だって、いっつもこうしてぶつかってくるから、散らばったお花を買ってあげてたじゃない!」
「ああ、そっちね。
あははと二人で笑いながら。
お客様が、慣れた手つきでひかりちゃんを立たせている間に。
おばさんが花を拾い集めて。
そして二人でお店の中に入ってくると。
お客様が俺に気付いて目を丸くさせました。
「あら若旦那さん? 穂咲ちゃんの旦那様? ちょっとあんた、お店譲ったの?」
「いいわよ~、楽隠居!」
「ウソ言わないで下さいよ。違います」
「え? じゃあこの女の子、まさかお孫さん!?」
「そうなの! いいわよ~、おばあちゃん!」
「ウソ言わないでくださいよ。さっき自分で姪っ子って言ってたでしょうが」
俺が何と言おうとも。
ことごとく却下されまして。
おば様二人できゃーきゃーと盛り上がっておりますが。
そんな大きな笑い声にひかりちゃんが驚いて。
一目散に俺の足へ逃げ出して激突すると。
そのままぎゅうっとしがみついてしまいました。
「あらあら! やっぱりパパが良いの?」
大きな声のお客さんに話しかけられたひかりちゃん。
びくっとしながら、指をくわえて、こくりと頷いてますけど
「ちょっと。ひかりちゃんまでボケるとツッコミ一人じゃ厳しいのです」
「あらあら! でも、ママの方が良いわよねえ? 穂咲ちゃん、出かけてるの? お買い物?」
「この子のママは穂咲ではないので、そんな聞き方するとひかりちゃんが混乱してしまうのです」
「え? そうなの?」
おお。
お客様へ、ようやく俺の言葉が届きました。
「あらやだ勘違い? じゃあ、ママはどなた?」
どうやら、相当苦手なのでしょう。
大きな声のおばさんが近づいてきたので。
ひかりちゃんは慌てて逃げて。
そして、お花をラッピングをしていたおばさんの足にしがみつくと。
その顔を見上げながら。
大きな声で助けを求めました。
「ママ!」
…………ええと。
大ごとになりました。
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