アンモビウムのせい


 ~ 八月十四日(火) 数学、化学 ~


   アンモビウムの花言葉 永遠の悲しみ



 クーラーの効いた日帰り合宿所。

 夏の勉強に最適な、おしゃれな新築一戸建て。


 そんな素晴らしい環境で。

 素晴らしくないふくれ面をしているのは藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪を、つむじの辺りにお団子にして。

 そこにアンモビウムを一輪だけ活けています。


 ぱっと見、白い菊に見えるアンモビウム。

 光沢のある綺麗な花びらが規則的に並んで。

 まるでフグのお造りのよう。


 あるいは。


「魚の鱗みたいですね」

「何がなの?」

「そのお花のことなのです」

「……それ、採用なの。お昼ご飯は焼き魚にするの」


 ダメですよ。

 そんな面倒な料理をする暇があったら化学の宿題を片付けてください。


 と、言いたいところですが。

 君から料理を取り上げたら。

 まるで勉強しなくなりますので。

 ここは我慢です。


「あ、大変。ピーラーが無いの」

「そうね。君、あれが無いと鱗を一枚ずつ抜き始めますからね」


 この人、包丁で鱗を剥がして飛び散るのがいやで。

 いつも一枚一枚地味に抜いていたのですけど。


 それもイヤになって、思い付きでピーラーを当ててみると。

 飛び散ることなく、あっという間に鱗が取れることに気付いたのです。


 穂咲は、たまに天才なのです。


「じゃあ、お買い物行って、お家からピーラー取って来て……」

「その前に、せめてあと二つくらい進めなさいよ、元素の説明レポート」


 そんな天才は。

 俺への返事を、再びふくれ面になることで済ませました。



 ……化学の宿題は。

 一つの元素について。

 三行ほどの説明を書くだけの簡単なもので。


 ネットの情報丸写しで、俺は二時間ほどで終わらせたのですけれど。


 開始から三時間経ったというのに。

 君のノート。

 まだベリリウム。


「うう、ただ書き写すだけなんてイヤなの。こういうのやってると、なんでこんなことしなくちゃいけないのかってことばかり考えちゃうの」


 せみ時雨に紛れて。

 穂咲がぶつぶつとつぶやきます。


「いいから無心で挑むのです。早くそれ終わらせて、昨日全然進まなかった数学に取り掛かって下さい」

「だって、煩悩の数と同じだけ書くなんて大変なの」

「百十八個ですよ。いつから煩悩の数が増えたのです?」

「ネオ・ボンノーなの。百九個目の煩悩は、今すぐ料理を作りたい煩悩なの」


 そう言いながら、膝に抱いていたひかりちゃんを俺に押し付けると。

 止める間もなく、逃げるように外に飛び出して。


 ……そして、一分とかからずに帰ってきました。


「どうしました?」

「暑くて買い物に行きたくなくなったの」


 呆れた。

 百十個目のネオ・ボンノーです。


「一瞬で汗びっしょりなの。アップルジュースを飲むの」


 百十一個目のネオ・ボンノーです。


 冷蔵庫のボトルから、直接ジュースをぐびぐびと飲んだ穂咲は。

 テーブルにも戻らず、サッシのそばに寝そべります。


「煩悩の数があっという間に周期表からはみ出しますよ。料理をしないなら宿題しなさいな」

「ちょっとくらくらするの」

「え? 熱射病? ほんとに?」

「ぐう」

「……そんな返事がありますか」


 あっという間に寝てしまいましたけど。

 ほんとに熱射病?


 逃げるための方便なのか。

 本当に具合が悪いのか分かりませんが。


 一応、熱射病の応急処置はしておきますか。


 携帯で調べると。

 まず書いてあったのが。


 『風通しのよい木陰に寝かせます』


 なるほど。


 微風にした扇風機を穂咲に向けて。

 部屋の照明を落として。


 えっと次は。


 『十分に水分を与えます』


 これは、さっきジュース飲んでたから良し。


 それで?


 『ベルトを緩めます』



 ………………………ん?



 『ベルトを緩めます』



 うん。



 みーんみーんのリズムに合わせて。

 浮いたり沈んだりする穂咲のお腹。


 ハーフパンツには。

 確かに白いベルトが巻かれていますが。



 いやいや、まさか。

 なにをバカな。

 改めて携帯の画面を見返すと。



 『ベルトを緩めま』



「むりむりむりむり!」


 そんなことしたら。

 応急手当という言い訳では通用しないでしょう。


 でも、このままと言う訳にはいきませんし。

 どうしましょうか?


 そんな、頭を抱える俺の背に。

 うんしょとよじ登る救世主。


 ……できるかな?


「ひかりちゃん、穂咲のベルト、外せる?」

「べると?」

「これ」


 俺が指を差すと。

 ひかりちゃん、ベルトの先を両手で掴んで。


「ちがうちがう。そっちに引っ張ったら、穂咲がぼんきゅっぼーんになっちゃう」

「どっち?」

「えっと……、それじゃ、そのまま持っててね?」


 俺が、ベルトを持ったままのひかりちゃんを持ち上げると。

 ベルトホールから、見事に金具が抜けたのですが。


 その瞬間。



 ぴろりん♪



 軽やかな音に、顔を上げてみれば。

 てっきり出かけていたと思っていたダリアさんが。

 携帯を構えていたのです。


「ええと。……今の音は?」

「ミチヒサ君のネオ・ボンノー。激写」


 うそ。

 その単語を知っているということは。


「出かけてたんじゃなかったのですか? まさか、ずっと部屋に?」

「ソファーで横になってた。まさか、こんなアマズッパイことの証拠隠滅にぴかりんちゃんの指紋を利用するとは。策士」

「ちちち、違いますよ!?」


 慌てて伸ばした手から、ひょいと携帯を逃がしたダリアさんが。

 画面を見ながら満足そうに頷いているのですけど。


「け、消してください!」

「そんなマサカ。永遠に使える便利なアイテムを消すなんてとんでもない」

「永遠? どういうことです?」

「お昼ご飯はサカナを食べたい。買って来ること」

「……この暑い中? 嫌ですよ」


 そう答えた俺に。

 ダリアさんが携帯の画面を向けるのですが。


 ……そこに写った、鼻の下を延ばした男子に見覚えがあるせいで。

 不思議と、百九個目のネオ・ボンノーが沸き上がりました。


「……今すぐ、料理を作りたいです」

「いってらっしゃい」



 その三十分後。

 今度は俺が、暑さのせいで床に寝ころぶことになりました。


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