スリー・シスターズ(4/7)
「伝説よ、伝説。並んだ三つの岩を見て、誰かが考えたのよ。作り話に決まってるじゃない」
わたしは親母を冷たく突き放した。どういう思考回路で「ほんとのことかしら?」なんて感想が出てくるのだろう。
「ねぇ、ゼロ子。作り話という証拠もないでしょ。あんたはその時代に生きてないんだから。世の中には信じてみた方がいいこともあるのよ」
あんたはいつまでも子供ねという表情だけど、まったくどっちが子供だか。
それから十五分ほどで、バスは広大な駐車場に着いて、雲ひとつない青空の下、わたしたちはガイドブックに書かれた観光地に導かれた。
色とりどりの大型バスが集い、正面の古びた建物を目指して、さまざまな国の人が歩いている。
ガイドの旗を先頭にして、わたしたち一団も入り口に向かった。何人かが立ち止まってカメラのシャッターを押すのを見て、わたしも肩にかけたリュックからカメラを取り出す。
眼下の街をジオラマ模型に変えるほどの高地なのに、ジャンパーに照りつける陽射しが汗をにじませた。親母はレゲエカラーのセーターを脱ぐと、マントでもはおるかんじで、それを背中にかけた。わたしよりも背が低くて華奢な体だけど、立ち居振舞いが堂々としている。
――ここが乗り物の発着点になりますぅ。集合時間はいまからちょうど一時間後。先ほどの注意事項を守り、それぞれの乗り物を楽しんで、時間に遅れないように集合してくださいねぇ。
建物の入り口で、ガイドがプラスチックのメガホンを使って発した。「時間に遅れないように」のところで、親母に視線を投げたものの、彼女はそっぽを向いたまま。
日本人向けのツアーだけど、白人の老夫婦も一組いて、日本語を学び取る姿勢で真剣に向き合っていた。斜め前では、乗り物を待ち切れない男の子がママの手を引っ張っている。
太陽と反対の方角から吹いてくる風は、シドニーと違って質量が軽い気がした。
親母は喫煙所に座り、もう一秒もガマンできないといった表情で、タバコに火をつける。付き人状態のわたしの近くで、別の誰かの煙りが宙に融けていく。
「最初は何に乗ればいいの?……吸い終わったら行動するわよ。それでいいでしょ?」
親母がしわがれた声で言い、タバコケースをポケットに大事そうにしまってから、またヘラヘラ顔を見せる。
最初の乗り物はゴンドラだった。長い列に尻込みしたものの、稼働率が良く、すぐに順番が回ってきた。
斜めに切り崩した岩の上をわたしたちのゴンドラは急勾配で進み、あっという間に谷底まで下りた。ガイドの説明どおり、終着点が遊歩道につながっていて、わたしは親母から離れないように集団の後方を行く。
「そう言えば、祥子ちゃんに子供が産まれるのよ」
歩きながら、親母が切り出した。わたしは初耳を装って、次の言葉を待った。「祥子」は親母の姉の一人娘で、わたしより二つ年上だ。小さい頃から何かと比較される従姉妹で、いまはカナダのバンクーバーで家庭を持ち、今年になって子供ができたらしい。そのことを、わたしは姉から聞いていた。若い時から体の弱かった叔母はすい臓ガンで他界し、従姉妹にも長く会っていない。
「祥子ちゃんはたいしたもんよ。姉さんが生きてたら孫の誕生を喜んだのにねぇ。外国から引き取って、あたしが孫の面倒をみようかしら……」
「はっきり言って、祥子さんは親母のことをあまりよく思っていないわよ。中学のときにそう言ってたもん」
会話を閉ざそうと、わたしが昔話を誇張すると、親母はこちらの目を一瞬だけ見て、言葉を押し殺すように口をつぐんだ。
しばらく歩くと、行く手に滝水が迸っていた。生い茂る緑が陽射しを遮り、観光客はちょっとしたアドベンチャー気分になった。緑の樹々の合間を行く親母の黒い帽子だけが妙に浮いている。
やがて、視界が開けると、むき出しになった岩肌の背後に、標高千メートルの山の連なりが青く光って見えた。青というより薄紫のカーテンに包まれたかんじ。それは、陽光とユーカリの葉が放つオイルの反射で作り出される霞みの色だという。あまりにも幻想的で、この世のものとは思えない色彩のマジック。空気の匂いもどこかしら甘ったるい。
足を止めた親母の背中が、以前より小さくなった気がして、ふと、わたしは後ろから抱きしめたい思いに囚われた。
「ゼロ子、ここはオーストラリアのどの辺なの?」
「出発したシドニーのホテルから西に百キロくらいのとこね。ここは国立公園なの。オーストラリアのグランドキャニオン」
インターネットで知った情報を正確に引き出す。
「グランドキャニオン?」
親母はわたしの横顔を見て首を傾げた。日本からほとんど出たことのない彼女にとって、アメリカの観光地も見知らぬ存在だった。
「こんなに晴れたのは運がいいわ。霧がかかると、スリー・シスターズどころか、何も見えないっていうから」
「普段の行いがいいからね。神様はそういうとこをちゃんと見てるのよ」
蛇行する遊歩道を行くと、トロッコ列車のステーションに着いた。ステーションと言っても、イスも案内板もなく、簡素なプラットフォームがあるだけで、観光客が鉄柵にもたれて記念写真を撮っている。そこはちょっとしたビューポイントで、わたしたちを見下ろすかたちで、スリー・シスターズが屹立していた。
(5/7へ続く)
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