スリー・シスターズ(3/7)

絶妙なタイミングで、前方の乗客がくしゃみして笑いを誘う。

小刻みな揺れがおさまり、バスは見晴らしのいい直線道路を進んでいく。

――いいですかぁ? 最初にゴンドラ、次に、シーニック・レイルウェイというトロッコ列車、そして最後にロープウェイです。ロープウェイはスカイウェイという名前です。もう一回だけ言いますよぉ。

メモの合間に親母を見ると、眉間に皺を寄せて目をつむっていた。

――最初にゴンドラ、次にトロッコ。おしまいにロープウェイでございますぅ。最初にゴンドラで谷を降ります。降りた場所には遊歩道がございましてぇ、そこを歩くと、トロッコ列車のステーションがございますぅ。帰りはそれに乗って谷を上がるわけです。ご存じのようにぃ、ブルーマウンテンズにはスリー・シスターズと呼ばれる三つの大きな岩がございますぅ。最後のロープウェイの往復で、この岩に近づくことができます。シャッターチャンスを逃さないようお気をつけください。三つの乗り物を楽しむ所用時間は約三十分。時間に遅れずにお戻りくださいねぇ。

「……ったく、面倒くさいわねぇ。あたし、乗り物なんかに乗りたくないわ」

目を閉じたまま、親母が語気を荒げた。わたしは彼女の脇腹をボールペンでつつく。わがままにもほどがある。「スリー・シスターズを見たい」と言ったのは親母の方だ。

「ゼロ子だけ乗ってきなさいよ。わたしは伝説の岩を遠くから見るだけでいいから」

――実はぁ、このトロッコ列車はギネスブックに載っております。何の記録かはぁ、いまは教えません。乗りたくないと思ってらっしゃる方も、世界記録の体感はいい思い出になるはずですぅ。

保険会社の事務職を三年で止めて、わたしは南新宿の美容室に見習いで入った。OL生活の途中でやりたいことがはっきりして、誰にも相談せずに行動した。当時長くつき合っていた男にフラれたことも大きかったかもしれない。そうして、夢中で手に職をつけ、やっと一人前の仕事ができるようになり、この場所を……南半球でのブライダル・ウェディングの仕事をみつけた。もちろん、恋人や家庭も大切だけど、いまは仕事がいちばん楽しい。それが偽りのない本音だ。

「自分が結婚していないのに、他人のウェディングの仕事して楽しいの?」「海外で式を挙げるカップルなんてロクなもんじゃない」「シドニーは食べ物がダメ。オペラハウスもつまらなかった」

動物園でも親母はそんな憎まれ口を続けたけど、わたしは適当なあいづちを打つだけ。そのことが余計におもしろくないようで、お目当てのカンガルーにも喜ばず、勝手なトイレタイムで集合時間に遅れてひんしゅくを買った。

「あんなガイドの言うことなんてききたくないわ……ったく、頭にきちゃう」

エンジンをかけたバスで、親母は短くカットした髪を携帯ブラシで乱暴にとかし始めた。

「みんなは気分よく観光してるんだから、おとなしくしてよ」

声を押し殺して諌めると、「こっちはおとなしいわよ。ガイドがうるさいだけ!」と目を吊り上げた。

口論してもしかたない。でも、「ファイナルアンサーは?」って、また聞かれたら、「結婚する気はサラサラない」って答えてやる。

時間がしばらく経って、バスは山道を登り始めた。

ガラス窓に拡がるモスグリーンの起伏が陽射しのシャワーを浴びて、ところどころにちぎれ雲の影を貼り付けている。そのコマーシャルみたいな映像が、親母との諍いを心の隅に押し退けて、今朝までの街の喧騒を異世界に変えた。

――それでは、ブルーマウンテンズにございます、スリー・シスターズという三つの岩の伝説を紹介しますぅ。これは、アボリジニー、つまり、オーストラリアの原住民の伝説なのです。横に仲良く並んだ三つの岩はぁ、左から順に、長女・次女・三女となっておりますぅ。

爬虫類顔のガイドは無表情のまま、いままで以上に奇妙なイントネーションでしゃべり始めた。

「そうそう、それが聞きたかったのよ!」

革製のタバコケースを指で撫でて、親母が言った。意外な反応に驚いたものの、わたしは言葉を返さず、ガイドの説明に耳を傾ける。

ある村の三人姉妹の物語ーー魔王に結婚を言い寄られた彼女たちが、祈祷師の助けを借りて岩に変身し、一時は身を隠して逃げることができたものの、やがて魔王の怒りに触れて、二度と人間の姿に戻れなくなってしまった――

写真で見る三つの岩は、血縁めいた繋がりを確かに連想させたけど、とても姉妹の変身した姿には見えなかった。アボリジニーのたくましい想像の産物だ。

「すごい話ねぇ。ほんとのことかしら?」

山道の走行で体を揺らしながら親母がつぶやいた。


(4/7へ続く)

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