スリー・シスターズ(2/7)

「電話で恭子と二人で親の悪口でも言ってるんでしょ?」

ぷいっと背中を向けてむくれるさまは、冗談なのか本気なのか。帽子のシルエットをうっすら浮かべた窓ガラスが、初夏の黄色い陽をシルクのカーテンみたいに透過させている。

夫を八年前に亡くし、姉が結婚し、わたしも日本を離れてひとりぼっちになった親母は、年を重ねるごとに頑固になっていく。それにしても、なぜ、シドニーに来ようと思ったのか。海外旅行経験も少ないのに……。バスの小刻みな振動に揺られながら、疑問の風船がわたしの中で膨らみ続ける。

「ねぇ……どうして、オーストラリアに来たの? わたしに会うため? 姉さん夫婦とケンカでもしたの?」

親母はもそもそと体を動かして、まじまじとわたしを見つめた。

「……あんたに会うのは旅行のついで。一度、ホンモノのカンガルーを観てみたかったのよ。で、この国に『寺崎ゼロ子』さんがたまたま住んでいたから、最終確認」

「最終確認?」

乗客全員が耳をすますようにシンとしている。イヤな空気だ。

「あんた、今年でいくつ?」

「……三十一よ」

「もう結婚はあきらめたんでしょ? ファイナルアンサーをちょうだいよ」

「ファイナルアンサー?」

「そう、ファイナルアンサー」

帽子のつばを上げて、親母はふうっと息を吐いた。

――さて、あと三十分ほどで最初の目的地ワイルドライフパークに到着しまーす。これからぁ、園内の案内図を配りますぅ。

絶好のタイミングで、車内アナウンスがわたしたちに割って入った。ガイドはマイクを置くと、左右に揺れる通路を歩き、カタログを配り始めた。後方のわたしたちは会話を止めて、おとなしく待つことにする。

バスは二車線の道を曲がり、フロントガラスの端にひょろ長い建物を映し出した。平坦な地面から突然現れたそれは、まるで宇宙人の創造物のよう。

「動物園なんか行きたくないわ」

飴を口に含んで、親母がつぶやく。いちいち応えてもしょうがないので、こっちは聞こえないフリ。

バスの減速に体を支配されたガイドが、ちょうどわたしたちの真横でよろめいた。

――寺崎さんはお二人ですね?

前席の背もたれに手を添えて尋ねてきた顔は、爬虫類っぽく、おでこが微妙にテカっている。

「はい」と答えて二人分のカタログを受け取ったわたしに、「なくしちゃうからあんたが持ってて」と、親母があくびがてら命じた。

「そんなに機嫌が悪いなら、このバスツアーに申し込まなきゃよかったわ」

後ろに移動したガイドに聞こえないよう、親母の耳もとで本音を囁く。

何の相談もなく、JTBのパッケージ旅行に申し込み、シドニーの一流ホテルに泊まり、思い出したみたいに急に連絡してきて……ひとつひとつの行動が娘のわたしをバカにしている。

「日本を出る前に今回の旅行の計画を教えてほしかったわ。電話かメールで済むのに」

感情の噴火を抑えて続けた。

「シドニーではどうしてたの? 文句ばっかりで……自分で選んだツアーでしょ?」

反論の余地はないはず。今日のブルーマウンテンズ観光も親母自身が選んだものだ。

「……ゼロ子を驚かせようと思ったのよ。旅行を決めたのも急だったし、ひとりで飛行機に乗るって知ったら心配するでしょ?」

流れ出たわたしのマグマに気後れしたのか、声のトーンを下げて、親母はしどろもどろに答えた。

「飛行機とホテルだって、個人でネット予約すれば、安く済んだのに……だいたい、普通は、着いたその日に連絡してくるものよ」

「ひとりで買い物したり、のんびりしたかったからねぇ。ゼロ子と一緒にいると、いつも怒られるんだもん。昔からあんたは怒りんぼうだから」

おきまりのヘラヘラ顔。身内の甘さで「ヘラヘラ顔」を許してきたけど、今日は厳しくしよう。わたしは言葉を返さず、動物園のカタログに視線を落とした。表紙の真ん中でコアラを抱いたカップルが満面の笑みを浮かべている。

――さぁ、まもなく、ワイルドライフパークに到着しますぅ。その前にぃ、その後のブルーマウンテンズでの注意事項を申し上げますぅ。重要なことですから、記憶に自信のない方はぁ、メモをお願いします。

定位置に戻ったガイドが説明を再び始めた。わたしは足元のリュックから慌てて筆記具を取り出す。この国に長く住んでいながら、ブルーマウンテンズを訪れるのは初めてだった。仕事に忙殺される毎日。あっという間の二年間。ツアー客としてのわたしは紛れもないビギナーだ。

――ブルーマウンテンズにはぁ、三つの乗り物がございますぅ。ロープウェイとゴンドラとトロッコでございますぅ。それらへの乗車の段取りを私の言うとおりにしていただきたく……メモの用意はいいですかぁ?


(3/7へ続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る