短篇小説「スリー・シスターズ」
トオルKOTAK
スリー・シスターズ(1/7)
結婚をあきらめたわけじゃない。ここに来てからだって、ボーイフレンド以上フィアンセ未満のオトコもいる。
窓の景色が動き出したとたん、「あんたは結婚しないわけね」ってヘラヘラ顔で言う親母(おやはは)にカチンときて、わたしは貝になった。
見晴らしのいい道路でバスがスピードを安定させ、スケジュール説明を終えたガイドがマイクのスイッチを切る。
「ねぇ、こっちのバスガイドはみんな男なの? 色気がないわねぇ」
親母はヴィトンのバッグからレモン味の飴をわたしに差し出してきたけど、ノーサンキュー。
「舐めなさいよ。酔っちゃうわよ。こんなにバスに揺られたら」
わたしの左手に飴をむりやり握らせた親母は、口紅とファンデーションが昔より明らかに濃くなっている。ブランド好きで、おせっかいでおしゃべりで、ブルガリの腕時計はまだ日本時間のまま。まったく、とんだ天然記念物だ。
――みなさーん、この道路がどこかお分かりになる方、いますかぁ?
にわかにバーコード頭のガイドがまくしたて、言葉の最後でマイクがピィーっと悲鳴をあげた。
――気づいた方ぁ、いませんかぁ?
隣り席のカップルが窓の外を一緒に覗き込むものの、建物ひとつない田園が右から左に流れるだけで、親母はアナウンスを無視して「地球の歩き方」に集中している。
――はい。だあれも分からない。残念でしたぁ。ここは、シドニー・オリンピックでぇ、高橋尚子選手が走ったコース、そう感動の金メダルのコースなのでしたぁ。マラソンに最適な一本道が続いていますから、どうぞいま一度ご覧ください。
多国籍な乗客が景色を追いかけるさまが通路側のわたしから見える。
澄み渡ったブルーの空と平らな緑色の田んぼ……日本の農村に似た風景画がアスリートの登場でいっぱしの名画に様変わりした気がした。と同時に、シドニー在住のわたしも平凡なツーリストになって、今日一日の出来事にちょっとだけ胸を踊らせる。これから始まるのは、オーストラリアの人気スポット・ブルーマウンテンズ観光ツアーだ。
「ねぇ、あのガイドのしゃべり方、なんとかしてほしいわ。いちいち、『かしら、かしらぁ?』って、気持ち悪い……」
親母が舌打ちして、小声でそう切り出した。
ガイドは外国生活の長い日本人のようで、確かに不快な話し方だけど、いまのわたしには親母の愚痴の方が煩わしい。
「タバコもなかなか吸えないし……ったく、こっちに来てから不自由ばかり。あんた、よくこんな土地に住んでられるわね」
つばの大きな帽子をかぶり直して、親母が早口で続ける。長距離バスでは帽子を脱いだ方が過ごしやすいのに、自分のスタイルを頑(かたく)なに譲らない。昔からそういう性格。人に耳を貸さず、いつでもどこでもゴーイングマイウェイ。愛想が尽きたわたしは、適齢期に家を出て、この国での仕事を見つけたのだった。
信号のない道を、バスは走っていく。
「ゼロ子はいいわよねぇ、独り者で、自分の好きな生き方で……他人(ひと)の結婚の手伝いって仕事は、あたしにはまるで理解できないけど」
沈黙に耐えられないかんじで、親母が毒舌を繰り返す。低くしわがれた声だけど、前後の乗客にしっかり聞こえる声。わたしは、そのビー玉みたいな無機質な目をちょっとだけにらみつけてやった。
「あ、ごめんなさい。言い過ぎたかしら。そう言えば、ゼロ子って呼び方も懐かしいわね」
毎度のヘラヘラ顔。雷が落ちてもヘコたれないタイプだ。
「あっ、あと、はっきり言うけど、あんた、そのヘアスタイル似合ってないわよ!」
親母は底意地の悪い魔法使いみたいな笑い方で体を丸め、目尻のひび割れたファンデーションを帽子のつばでチラチラさせた。
「……ねぇ、普通、二年ぶりに親子が再会したら、もっと感動的なこと言うもんじゃない? 感動がなくても……お金に困ってない?とか仕事の調子は?とか」
「じゃ、お体の調子はどう?……って、あんた、とっても元気そうね!」
ゼロ子って呼ばれたことで、わたしは日本での記憶を蘇らせた。
「令子」のレイから、「ゼロ」ってあだなを中学の友達がつけ、それをおもしろがった親母が「子」を加えて「ゼロ子」になった。親子なのに妙な友達感覚。で、反抗期だったわたしも「ママ」を止めて「親母」というオリジナルの呼び方を生み出したわけ。「お母さん」より、「オヤハハ」という音が大人っぽくて心地良かった。友達もわたしを真似て、自分の母親をそう呼ぶようになったけど、未だに続けているのはわたしだけだろう。
「ま……結婚すればいいってもんでもないわね。恭子だって幸せじゃないし。旦那がロクでもない奴だから。ギャンブル好きで」
「ギャンブルって……競馬程度でしょ。やさしい旦那さんよ。電話でも感じがいいわ。姉さんは堅実だから、どんな相手とでもやっていけるし。いい夫婦よ」
周りに聞こえないよう、声を潜めて反駁を試みた。いや、「反駁」なんて大げさなものじゃなく、聞き分けのない子供を説き伏せる口調だ。
(2/7へ続く)
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