第5話 鍵はいつでもすぐに失くした
「こーらー!いい加減起きなさい!」
聞き覚えのある声に、目を開く。
「…え」
「ったく、休みの日だからって、いつまでも寝ててもいいと思ったら大間違いだからね」
屋根を叩く雨の音。
顎の位置で切りそろえられた真っ直ぐな黒髪。夕陽を映したみたいな橙の瞳が、呆れたような色を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「姉ちゃん」
声が掠れる。
「…何よ、姉ちゃん、って、幼児退行?どうしたの」
「えっ、だってあれ、軍で」
「は?軍?…なに寝ぼけてんの?ほらさっさと下おりて。ご飯食べなさい」
姉は、そう言って部屋を出て行った。
辺りを見回す。ノートが開きっぱなしになった机の上、青いカーテン、床に積まれた本。
まごうことなき自分の部屋である。
安堵の溜息をつく。
「…それでさ、姉貴達が死んじゃうんだよ」
食卓。朝食…というよりはもう昼食と言った方がいいかもしれない、というくらいの時間だが。向かい側でコーヒーのカップに口をつけた姉が、盛大に吹き出した。
「うっわきたねえ」
「げほっ…いやだって、ねえ?私が死ぬなんて」
彼女は、横に座る夫と顔を見合わせる。
「ニーナが死ぬってのもそうだけど、しかしまた物騒だねえ、軍隊とか戦争とか火事とか」
彼はタオルを姉に差し出しながら笑った。
ほんとうに、我ながら物騒な夢だ。
「まあ安心しなさいよ、セロ。あんたを遺して死んだりしないからさ」
コーヒーを淹れなおしながら姉は笑う。うん、と相槌を打ちながら、俺は食べ物を口に運んだ。
雨音が聞こえる。家の中がやけに静かだ。
「…あれ?姉貴、リオは?寝てるならそろそろ起こせよ」
「リオ?誰それ」
姉は何を言っているのかわからない、という顔で俺を見た。
「…子供、いなかったっけ」
「いないわよ」
即答する様子からして嘘ではなさそうだ。
「…まだ寝ぼけてるの?寝すぎなのよあんたは」
まことにその通りである。返す言葉もない。
「でもいい名前だね、もし子供が生まれたら名前はリオにしようか」
俺と姉の会話をききながら、義兄は微笑んだ。
「リオ・オルセンってこと?字が重なっちゃうでしょ」
姉は少し不満げである。リオ・オルセン。姉の言うように、音が重なっている、そのせいだろうか、どうもしっくりこない。
「あー、子供が生まれたら流石に俺は出て行くかな」
冷静に考えて、義兄にとって今の状況がなかなか異常であることには気付いていた。妻の、ついこの間成人したばかりの実弟と同居する。こちらからしたってそうだ、この歳で姉夫婦と同居なんて。まあ、術師の家に婿入りするようなひとだから、義兄自身はおそらく気にしてはいないのだと思うけれど。
「あんたがそうしたいならそうしたっていいけど。子供生まれたら面倒は見てもらうよ?」
姉はニヤニヤと笑いながら返した。肩をすくめる。まあそうだろう、予想はしていた。無料の労働力を、この姉が使わない方がおかしい。それにしてもこいつ、俺が簡単に手伝いに来られないような場所に住むことを想定していないらしい。本当に困った姉だ。
この数年間ずっと、そして最低でも、学校を卒業するまでの残り二年の間。きっとこの生活が変わることはないのだろう。
「あ。セロ。今日母さんと父さんのお墓参りね。夕方」
俺たちは、いまやこの世にたった二人の姉弟なのだから。…それを言い訳にして、歪な暮らしに甘んじて、寄りかかってしまっている自分がいる。
いつかは離れなければならないことを、分かってはいるつもりなのだけれど。
食器を洗って、自室に上がる。今日は雨だから庭の整備に駆り出されることもない。本棚から適当な本を一冊取り出したけれど、雨音がやけに煩くて集中できなかった。溜息をついて本を閉じる。
この雨が開けたら、きっとまた暑くなるだろう。
西部は雨の少ない土地なのだという。俺は生まれてこのかたこの土地から出たことがないのでよくわからないのだが、南部や東部はここよりずっと雨の日が多いらしい。
雨は、少し怖い。
目を閉じて雨音を聴いていると、足先から水に浸っていって、いつか息ができなくなるような、そんな錯覚に襲われるのだ。
そういえば終わっていない課題がいくつかあった。やらなければならないことはわかっているが、どうもやる気が出ない。
なにもかもこんな雨のせいだ。
電話のベルが鳴る。応答する姉の声。
「セロー、あんたに電話」
誰だろうか。今行く、と返事をして立ち上がる。
「あ、セロ?課題終わった?」
少し低めの、女の声。
「えーっと。どちら様ですか」
俺の答えをうけて、受話器越しのその声に、少し呆れたような色が浮かんだ。
「真面目に聞いてってば。課題終わった?終わってないならいい資料見つけたから取りにおいでよ。図書館にいるからさ」
「あー、うん、了解」
適当に話を合わせて受話器を置く。置いて、ようやく声の主に思い当たった。サラだ。電話越しだとどうも声の印象が違う。軍の回線を使ってきたのか、と考えて、そんなはずはないと思い直す。彼女は俺の同級生で、ごく普通の学生だ。そもそも今図書館にいる、と言っただろうが。
やはり寝坊は良くないな、と頬を叩く。勤勉な彼女のことだ、真面目に課題を片付けようと、休日を図書館で過ごしているのだろう。
「ちょっと出て来る」
「ちゃんと傘持っていきなさいよ」
適当に返事をして、ドアを開ける。雨足はかなり強い。この雨で傘を忘れるほどバカじゃない。ズボンの裾はすぐに一段濃い色に変わってしまう。
図書館には、あまり人がいなかった。友人の姿を探す。金髪の少女が、こちらに手を振っていた。
「雨、すごいね」
周りに気を使っているのか、いつもより小さな声で彼女は言う。
「傘さしてきたのにこうだもんな」
濡れた布が肌に張り付いて気分が悪い。せめてもの慰みに、ズボンの裾を捲り上げる。
「あっそうだ、資料ね、コピー取っておいたから。持ってっていいよ」
サラは机の上に広がった紙を束にまとめて、俺に差し出した。
「わざわざどーも。で、そっちは進捗どう?レポート」
「さっぱり。どうも集中できなくて。このへんの理論もよくわかんないし」
彼女は肩を竦めて、俺の方を見遣る。
「お前にわかんなかったら俺にもわかんないよ」
俺は溜息をついた。
そうだ、彼女にも話してみようか。
「ところで今朝見た夢の話なんだけどさ。ききたい?」
「何よいきなり。…まあ息抜きに聞いてあげてもいいけど」
サラは本をまとめて立ち上がる。場所を変えようということらしい。たしかにここは話し込むべき場所ではない。
ロビーのソファに座る。紙コップのコーヒーを差し出した。
湯気を立てるそれを受け取り、一口飲んで、彼女はこちらを見る。
「で、どんな夢だったの?」
…猫舌じゃなかったっけ、と口に出しそうになったけれど、思い留まる。そんなことはどうでもいいことだ。
「あれ、お前ら何してんの」
正面玄関の方から声がかかる。傘をたたみつつこちらを見遣る青年と目が合った。くすんだ金色の髪は、雨で少し湿っている。
「何?デート?」
冗談交じりに笑いながら、友人は俺のとなりに腰を下ろした。
「私はレポート。セロは資料を取りにきて、流れでちょっと休憩してるとこ」
サラが答える。
「ちょうどいい、シンも聞いてけよ、俺の今朝の夢の話」
なんでだよ、と多少呆れた顔をしつつ、結局彼は頷いた。
「…つまり、俺とサラとお前が軍人になってると」
「それでリードベルグが燃えて、セロのお姉さんたちが死んじゃうの?」
話の内容を反芻するふたりに、俺は頷いて答える。
「なんていうかその、ストレスでもたまってんのか?」
シンはいかにも心配しているとでもいうふうに俺を見た。…つまりはちっとも心配などしていないのだ。長い前髪の下、金色の瞳がのぞく。
「…や、特にない…と思うんだけど」
あまり自信はない。
「しかしよく覚えてるねえ、そんな事細かに」
何か感心したかのようにサラは呟く。
「普通夢って起きてから時間が経つと忘れちゃうじゃない?私なんか夢を見たことすら覚えてないよ」
そう、あの夢はいやに鮮明に記憶に残っていた。それだけ衝撃が強かったということなのかもしれないが、珍しい。
「あー、そういえば。あったよな、夢と現の境界が分からなくなる、みたいな話」
シンは俺越しにサラの方を見る。
「あれだよね?人間である自分が蝶になる夢を見ているのか、蝶が人間になる夢を見ているのか、みたいな」
「…その話は、今関係ないだろ」
思ったよりも低い声が出て、自分でも驚く。
「セロ?」
友人らはもっと驚いただろう。顔色を伺うようなサラの声。
「…ごめん、やっぱ寝不足だわ。帰る」
中身が残ったままの紙コップをゴミ箱に投げ入れる。コーヒーの雫がシャツの袖口に撥ねて、染みを作った。
…昼まで寝ておいて寝不足とは、我ながらなんて酷い言い訳だろうか。
背後でどちらかが溜息を吐いた。そりゃそうだ、勝手に話を始めて、勝手にキレて。非常識なのは俺の方だ。
人が蝶の夢を見たのか、蝶が人の夢を見たのか。
胸がざわついた。
来た時より更に激しくなった雨に、傘をさすことを諦めて、歩きだす。
爪先から冷えていく。嫌な天気だ。
「ただいま」
声をかける。居間から顔を出した姉は、ずぶ濡れの俺の姿に目を見開いた。
「ちょっとなんでそんな濡れてんの、傘持って行ったんじゃなかったの?」
「雨に打たれたい気分というか…」
「はあ?もー、あんたはいつまで経ってもバカがなおらないんだから」
姉は頭を抱えた。タオル持ってくるから濡れた服全部脱ぎなさい、と告げて、風呂場の方へ向かっていく、その後ろ姿をぼんやりと眺める。
ああ、そういえば資料を図書館に置いてきてしまった。…折角コピーまでとってくれたのに。
雨音がうるさい。
頭上からタオルを被せられる。
「ほら、拭いて。着替えたら墓参り行こう。これ以上雨が酷くなる前にね」
姉の声に頷く。懐かしい匂いがした。
この地区の共同墓地は、我が家から車を数十分ほど走らせた、丘の上にある。
雨は多少小降りになった。丘の上、区画のいちばん奥が、両親の墓だ。
辺りにはちらほらと墓参りに来る人の姿が見える。何か謂れがあるわけでもないのだが、昔から長雨のこの時期、墓地には人が集まるのだ。
花を供えて手を合わせる姉の横顔。義兄は黙って傘をさしかけている。
墓石になんとなく目をやる。名前と生没年。シンプルに、それだけが刻まれた、白い石。
刻まれている年号は、三年前のものだ。
たった、三年前の。
両親は婿養子を探していた。跡継ぎは俺がいるからいいじゃないか、と言ったけれど、彼らは力の強い姉の方にオルセンの名を継いで欲しかったらしい。
その申し出を、二つ返事で引き受けたのが義兄なのだった。
曰く、「ニーナと居られればそれでいいよ」ということらしい。茶色い癖っ毛に、赤いセルフレームの眼鏡。こちらの視線に気付いて微笑む。俺は慌てて目を逸らした。
「帰ろうか」
姉は立ち上がる。雨はあがっていた。沈む夕日に、雲が赤く染まっていく。
明日はきっといい天気になるね、と誰にともなく義兄は呟いた。
後部座席に乗り込んでドアを閉める。窓越しに真っ赤な空を見上げて、目を閉じた。
昼頃に叩き起こされて。
居間のテーブルで、家族と向かい合って食事をして。
課題に追われて、友人と集まって話をして。
雨に濡れて帰って来れば、姉がタオルを差し出してくれて。
亡くなった両親の墓参りをして。
今日という日は何事もなく終わっていく。だからそう、このままずっと、続けばいい。
どうでもいい幸せが、俺たちの上に等しく降ればいい。
瞼の裏に透ける赤に、そんなことを、考えた。
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