第4話 どうしようもなく続くのだ
昨夜は星があんなに綺麗だったのに、今朝は一転、土砂降りだ。
私は時間を確認する。午前五時。起床時間には少し早いが、雨音が煩くてまた眠れる気はしない。もういっそ起きてしまおう、と立ち上がる。
この降り方だと、最低でも昼頃までは続くだろう、そう考えて憂鬱な気分になった。雨が降っていると思うように作業が進まないし、単純にこの季節の雨はまだ冷たくて、長時間それにさらされているのはきついものがあるのだ。
とにかく、今日も一日が始まる。手早く髪をまとめて、シャツに袖を通した。
…うん。がんばろう。
外に出る。案の定土砂降りだ。レインコートのフードを深くかぶる。思っていたよりも風が強かった。これでは傘はきっと意味をなさないだろうな、とぼんやり考えながら、とりあえず周囲の見回りをすることにする。
火薬庫から比較的近かったこの区画では、おおかたの家屋が燃えてしまっている。木造ではない施設のなかには燃え残ったものもあるにはあるけれど、窓ガラスが全滅していたりと凡そもう使い物にはならないだろう、というレベルだ。
住民の大多数はもう少し東の、火災の被害が小さかった区画やほかの街へ避難しているのだが、土地への愛着があるのだろう、どうしてもここから離れたくないと主張する老人たちがいて、作業を手伝ってくれている男性住民たちとともに、軍の仮設テントのうちのひとつで暮らしているのだった。
瓦礫の片付けは依然として進んでいない。この風で瓦礫が飛んで、住民が怪我をするような事態になったらことなので、念には念を入れよう、というわけだ。
しばらく歩いていくと、軍支給のレインコートを着た背中が目に入った。瓦礫の山の中で作業をしている。顔がよく見えない。風で飛びそうな小さいものをまとめて、上に重りを載せる。こんなに朝早くからひとりでご苦労なことだ。
「おはようございます」
声をかける。彼は顔を上げた。フードがずれる。黒い髪に、夕焼けみたいなオレンジ色の瞳。
「…って、セロじゃない。早起きだね」
「サラ。そっちこそ珍しい」
友人は、フードの位置を戻しつつ笑った。
「ひとりじゃキツくない?手伝おうか」
「いや、見回りしてたんだろ?こっちはもうそろそろおわるからさ。そっちを続けてくれた方がいい。爺ちゃん婆ちゃん早起きだからなあ。散歩でもしだすかも」
昨夜、早くここを元通りにしたい、と言って微笑んだ彼の顔を思い出す。
「分かった。とりあえず一周してくる」
「おう。風強くなってきたから気をつけて」
頷いて、私はまた歩いていく。
セロ・オルセンは、私の予備訓練校時代からの同期だ。もうひとり、シン・エイベルを含めた三人でよくつるんでいたのを思い出す。
入学試験の時、私が筆入れを忘れてしまって、両脇に座っていたふたりがそれぞれこっそり消し具と鉛筆を貸してくれたのだった。
当時から、周囲のセロへの視線が少し違っているのには気付いていた。その理由が、彼の家柄にあることも。けれど話してみれば彼はごく普通の男の子でしかなくて、大人たちが言うような
、術師の家系であることによる特異性は少しもなかったのだ。
彼が士官学校に進まない、と言った時は驚いた。なぜなら西部分校で、最も成績のいい生徒のうちのひとりが彼だったからである。…今ならわかるが、士官学校を出たところで彼にそれ以上、昇進の可能性などほとんどなかったのだろう。
早く実地に出て、戦闘に慣れて、姉とその家族を守りたいのだ、理由をきいたときに、彼はそう言って笑ったのだ。
思い出して、胸が痛くなる。彼が失ったものはきっと、私が想像しているよりも、もっと、ずっと大きいものなのだ。私がもしセロの立場だったならと、考えただけで目の前が暗くなるような。
それでも、日常はどうしようもなく続いていく。世界は回ることをやめない。
だからきっと私たちは、今ここで生きている私たちは、進むしかないのだ。
立ち止まっていたら、世界に取り残される。
風がまた強くなる。老人がひとり、雨の中を歩いているのが目に入る。セロの言った通りだ。思わずもれる笑みを押し殺して、声をかけた。
「あの!すみません!危ないので外に出ないで…」
老人は反応を示さない。耳が遠いのか、風の音に紛れて聞こえなかったのか、それとも無視しているのか。
「あの!」
近寄っていく。老人は鬱陶しいとでも言うようにこちらを振り向いた。
「多少風が強かろうがここは儂の庭みたいなもんだ。散歩くらい大目に見てくれ」
「でも、瓦礫が飛んできたりして危ないので」
「ほう?飛んでくる。軍人さんがちゃんと管理しとるんじゃないのか?」
「でもそのう……」
なかなかに頑固である。どうすれば納得してくれるだろうか。
そのとき。
「ソーレのじいちゃん!」
声とともに、駆けてくる人影。セロだ。
ソーレ、というのはこの老人の名前だろうか。
顔を確認して、老人は目を見開いた。
「…オルセンの。生きてたのか」
「お陰様で!」
彼は老人に向かって微笑みかけて続ける。
「じいちゃん、管理はしてますよ、もちろん。でも万が一ってことがあるからさ。こんな天気の日に無理して出かけてケガなんかしたらばあちゃん悲しむんじゃない?濡れて風邪ひいたりしても大変ですし。ね、中に入ろう」
「まったく…術師の子供が偉そうに」
目をそらし、ぶつくさ言いながらも彼はセロの言葉に従い、テントの方へと引き返していく。
「風邪を引く、か。それを言うならお前もだろう。…隈ができとる」
老人は目の下を示して、小さく呟く。それを聞いて、セロは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「俺は仕事なんです。もしかして心配してくれた?なんだかんだ優しいんだから」
「違うわ阿呆。儂の夢見が悪いだろうが」
「へえー、いや、まあそういうことにしておいてもいいですけど。ほら、入った入った」
彼はなおも緩んだ顔のまま、入り口の布を降ろした。
「ぶっきらぼうで頑固だけどさ、優しいんだよ。亡くなった奥さんの墓まで、毎朝散歩するのが習慣なんだ」
向き直って、自分が降ろした入り口の布を見つめる。
「このテントは大丈夫かな」
「これ以上風が強くならなければね。固定はちゃんとしてあるから。もしもっと天気が荒れるなら、やっぱり東の避難所か…」
「ひとまず様子見だな」
溜息をついて、伸びをすると、彼は私の肩を叩いた。
「見回り。続き俺がやっとくから、お前は一回中戻ってろ。もしまたどっかのじいちゃんばあちゃんが歩き回ってるなら、俺の方が顔がきく。警戒心強いんだよ、ここらへんの老人は。残ってるのなんか特に頑固な人らばっかだろうし」
な、と私に笑いかける。
「私も一緒に行くよ」
「いやだって、風強くて危ないだろ。寒いし。戻ってろって」
「それはセロだって同じでしょ」
セロの顔を見上げる。疲れの色は消えきっていない。昨日の今日なのだ。彼は目を逸らす。
「俺は大丈夫だって」
もう一度私の方を見て、彼は困ったような顔で笑った。昔から時々彼はこんな顔をする。どうも私はこの顔に弱いのだ。
無理をしているのは分かっている。けれど私には、進もうとする彼を、止められない。
「…わかった、けど。気をつけてよ。無理しないで」
「大丈夫大丈夫、イケメンは死なない」
「…」
うん。やっぱり心配した私がバカだったかもしれない。
いや、別の意味で心配になる発言ではあるけれど。
結局風はその日の昼頃には大分弱まって、住民達を避難所に運ぶことにはならずに済み、私は胸をなでおろしたのだった。
数日前まで降り続いていた雨も嘘のように、今日の空はよく晴れている。長い雨があけた後は一気に気温が上がるのだ。日向なら、半袖シャツ一枚で丁度いい。やはり天気がいいのは嬉しいもので、なんとなく元気が出る。
「あ、サラちゃん。セロ知らねえか」
近づいて来たのはミチダ少尉だ。
「…あのですね。ちゃん付けやめてくださいっていつも言ってますよね、私」
「いいじゃんべつに。セロもセロだしシンもシンなんだから、サラちゃんはサラちゃんで」
「だーかーら、なんで私だけちゃん付けなんですか」
「なんとなく?」
彼は咥えていた煙草の火を消しつつ、軽く笑った。これ以上反論しようが状況は変わらないだろうな、と私は気づかれない程度に小さくため息をつく。訓練校に指導に来ていた頃からちっとも変わっていない。少し安心しないこともないけれど、この呼び方はあまり歓迎はできなかった。いつまでも子供のようだ。
「セロならあっちの区画の手伝いに行くって言ってましたけど」
「それがさ。あっちの奴らにきいたらもうここに戻ったって言うんだよ」
セロはここ数日あちこちの区画を飛び回っていた。単純にリードベルグの出身者で、地形をある程度把握しているから重用されているところがあるのは分かっているのだけれど、どうも彼自身も進んで仕事を請け負っているよう に見えるのだ。
数日前、雨の早朝に、瓦礫の中に立っていた背中を思い出す。
「ったく、捕まんねえな、なかなか」
少尉は肩を竦める。
「何か用事でも?見かけたら伝言しましょうか」
「あーいや、あいつの分の弁当届けようと思っただけ。あいつもバカだからなあ、食うもん食わねえと効率だって下がるっつーのに…危なっかしいから、出来るだけ目を離したくないんだが」
ひとりごちる。同感だ。無言で頷く。
「あー、まあ他の奴にもきいてみるわ。そんでサラちゃん、あいつのことは俺に任せてサラちゃんは自分の仕事に集中しろよ。怪我すんぞ」
…つい先ほど、木材の端で切ってしまった指を後ろ手にまわしつつ、こたえる。
「…だからちゃん付けは、やめてくださいってば」
おもわず俯いた私を見て、彼は心底愉快そうに笑った。
「お疲れさん」
「…お疲れ様です」
少尉の背を見送る。面倒見のいいひと、ではあるだろう。悪趣味だけれど。悪趣味だけれど。
ちゃんとセロを見つけてくれるといい。
そういえば彼は、珍しく最初からセロへの偏見を持たなかった。少尉自身も今の軍内では充分に異端者だから、親近感でもわくのかもしれない。
…ただ生きて帰ること。それがかの
人物を総統に据えた今の国家軍で、なんの功績にもなり得ないことは、まだ新米の私も肌で感じている。
少尉の正義は、この国の…いや、あの方の正義とは少しズレているのだろう。
必ず生きて帰ること。共倒れになってでも、敵を倒すこと。何が正しくて、何が間違っているんだろう。
「サラ!ご飯食べよう」
友人からかかった声に、我にかえる。柄にもないことを考えてしまった。正義なんて人の数だけあるのだ。いちいち考えていたら気が狂ってしまう。とにかく前に進む、私はそう決めたじゃないか。
今行く、と返事をして、私は友人の方へ駆け出した。
*
今日みたいに、空がやけに赤かったことを覚えている。
この手が初めて、人に向けて引鉄を引いた日のことだ。
夕焼け空を見上げて思い出すこととしては、随分殺伐としているじゃないか、と少し自嘲気味な笑みがもれる。
ここ数日考え事ばかりだ。考えなくていいように、何も思い出すことのないように働いて、働いて働いて、俺は大丈夫だと言い聞かせて、夢を見るのが怖くて、目を覚ます。それでもこの頭は何かにつけて記憶を持ち出すのだから、本当に困ってしまう。
辺りを見回す。リードベルグ第三区画。焼けてしまって面影もないが、俺が生まれた家があったところだ。小さい頃、すぐそこにあった火薬庫に忍び込もうとしてひどく怒られたことを思い出す。夕焼けに赤く染め上げられた建物の残骸が、目に焼き付いた。そうだ、あの日の記憶には続きがあったのだ。
あの日、神様を見た。
…いや、神様と言い切ってしまうのは、少し違う気もする。
あの日俺が見たのは、ひとりの少女だ。俺が撃った人間の…女だったか男だったかもいまとなっては定かではないのだけれど…その陰から出てきて、蒼い瞳に一瞬俺の姿を映して、彼女は立ち竦む俺の前を駆けていった。銀色の髪を揺らしながら。
本来なら、追わねばならなかったのだけれど、足は動かなかった。俺はその銀色の髪が、森の中に消えていくのをただ眺めていた。…あまりにも、綺麗だった。その服は血と砂埃に塗れていたけれど、それでも少女は清く美しくて。
そう、まるで、この国に伝わる神様、この国の王の…不死の王の姿を模したようだと思ったのだ。
空を見上げていた頭を下ろして、首を振る。一瞬目眩がした。…そういえば昼の弁当を取りに行くのを忘れていたんだった、とぼんやり思う。
仕事を終えて、本部に戻る前に、一度自分の家の辺りを確認しておこうと思ってここまで来た。
ひとつ、大きく息を吐く。
踏み出した足がブロック塀の残骸に当たる。そう、確かこの角を曲がれば。
そこは懐かしき我が家ー
の、はずだった。
「ああ」
思わず声が漏れる。予想はしていた。古い、木でできた家だった。
ひとたび火事が起これば、跡形もなく燃えてしまうような。
灰色の、基礎部分のつくりだけが虚しくその場に広がっている。
もうないのだ。俺が守ろうとしていた場所は。
…俺の、帰るところはもう、なくなってしまった。
それを自覚して。
急に、足に力が入らなくなった。地面が遠ざかっていくような感覚。
指先から冷えていく。頭が痛い。
そうだ、やはりあの日見た少女は、俺の頭が見せた幻覚だったのだ。
神様なんているはずもないじゃないか。
ひどく気分が悪い。立ち上がろうとして、足がもつれた。
ああそうだ、とっくの昔に気づいていたはずだ。自覚しないようにしていた。自覚してはいけなかった。
気づいてしまったらもう、立ち止まらざるをえないと、分かっていたのに。
術脈がある限り、姉はこの地から離れられないのだ。あれを扱えるのは姉だけで、それが姉の…オルセンの"突然変異"の役目なのだから。
そしてきっと、間に合わなかったのだ。
腕が地面に触れる。扱えないけれど、存在くらいはわかる、この土地の術脈は、
もう、途切れていた。
そして世界は暗転する。

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