起-6
ひと昔前の安アパートみたいなタイル張りの風呂場──バスルームというより、まさに風呂場──にはまだ湯気がこもっていて、聞いたばかりの話と相俟ってか、まるで吉見の体温が纏わりついてくるような錯覚をおぼえて微かにゾクリとした。
それにしても一体、なんて夜だろうか。
メシ時の人波の狭間に不景気面を見かけるだけの、他社の……それもライバル会社の、名前も知らない赤の他人。今日の昼までは間違いなくそれだけの存在だった野郎と、思いもかけず飲んだくれたどころか、深夜のラブホテルでお泊まりとは。
もちろん、帰ろうと思えば帰れたのにくっついてきたのは矢嶋自身の選択だ。それでもまだ、今ひとつ現実感が伴わない。
頭を泡立てながらバスタブの縁に置かれたアメニティのポップなパッケージに溜め息を吐き、年に数回しかやらないという男について考えた。
全店会議でやって来る顔見知り? じゃあその女が出席しなかったらどうするんだ?
いや、そもそも相手は1人なのか、もしくはそういう付き合いの女が複数いるのか?
あのルックスなら、そりゃ何人かいてもおかしくはないとは思う。ただ、見てるこっちまで気が重くなるほど億劫そうな姿か、せいぜい今夜知った多少マシなツラしか知らない矢嶋にしてみれば、完全に腑に落ちることはあり得ないフザけた話だった。
あの調子で、どうやって女を抱くんだ? ホントにちゃんと勃つのか?
そもそもアイツが腰振ってる姿が全く想像できねぇ──
風呂から出たときには部屋の灯りが絞られていて、仄暗い間接照明の中で吉見が宣言どおり眠っていた。几帳面に半分空いたベッドの中から規則正しい寝息が聞こえてくる。
立ったままその光景を眺めていた矢嶋は、やがて吉見の側に回り込んで煙草の箱を取り上げた。が、寝顔に目を落とした途端、急に一服する気分が失せてそのまま箱を戻した。
仕事もプライベートもない睡眠中のワーカホリックは、少なくとも矢嶋は初めて目にする気の抜けた平和なツラを見せていた。唇が半開きになってるせいか、鋭利な造作の面構えがやたら無防備に感じられる。
右を上にした横向きの姿勢で、耳朶に見えた小さな点をピアスホールと見間違えて意外な思いに駆られたが、顔を近付けてよくよく見たらホクロのようだった。覗き込んだときシャンプーだかボディソープだかの香りが鼻先を掠めた。無香料のヤツを使わなかったらしい。
矢嶋はベッドの端に尻を乗せ、足元から布団を捲ってみた。
膝のあたりで乱れる水色の裾を掬い上げると、呆気なく肌が露わになった。が、その先に見えてしまったものについては、簡易なパジャマの頼りなさだけを責めるわけにはいかないだろう。
吉見の下半身は布一枚捲れば脚からそのまま尻へ、さらに細い腰へと繋がっていた。
──なんでパンツ穿いてねぇんだ? コイツ。
まさか矢嶋を誘うつもりだったとは思えない。考えられる可能性はひとつ。数時間後に控えた出勤のために少しでも下着をマシな状態に保っておきたいとか、どうせそんなイカレた理由に違いなかった。
呆れ返って小さな尻を観賞していた矢嶋は、ふと思いついてバスルームに引き返した。
ポップなパッケージのアメニティを摘み上げてベッドのそばに戻り、袋の端を破って手のひらに液体を垂らす。トロリと糸を引くそれを両手で温めておいて無造作に膝小僧を持ち上げ、股間の真ん中で眠ってるモノを握り込んだ。
その途端、吉見がビクリと跳ねて寝ボケた声が漏れた。
「あぁ……?」
構わず手を滑らせると再び小さく跳ね上がる。事態を探ろうとする半眼がこちらに向いて矢嶋を認めた瞬間、野郎は唐突に何かのスイッチが入ったようなツラに変貌した。
「あんた、何やってんだ!?」
飛び起きようとする身体は、握ったものを擦り上げることでひとまず制した。
「いや、だって何も穿いてねぇし」
「やめ──てか、穿いてねぇからってお前……あのなっ、俺はホモ疑惑あってもホモじゃねぇんだよ!!」
あんたがお前に変わったその声は、かつてないほど明瞭な滑舌に変わっていた。爆発的な気迫がこもるツラにも、これが同じ男かと思うほど生気が漲って見える。
「俺だって違うけど、そこは今どうだってよくねぇか?」
「どうだっていいわけ──」
「それより、年に数回しか他人に触らせないとか不健康だと思うぜ?」
「ンなの俺の勝手……てかちょ、マジでっ!」
鬼気迫る目で押し返してくる手を逆に捕らえてシーツに縫い止めた。掴んだ手首は、見た目の印象どおりの骨格を手のひらに伝えてくる。身体を重ねるようにのし掛かって抵抗を封じ込めると、吉見は毛を逆立てた猫みたいな臨戦態勢で喚き散らした。
「重い! 痛ぇしフザけんな! 何考えてんだ!?」
「あんた、そんなデケェ声出すことなんかねぇだろ? 普段」
「ンなことねぇ、仕事んときはしょっちゅう怒鳴る……けど、そうじゃなくて!」
「仕事で怒鳴ってるとこ見てみてぇな」
「今と同じっ……んン……!」
「同じじゃねぇよな? 仕事中にそんな声は出さないよな?」
「ッ──!」
何か反論しかけた吉見の声はしかし、結局言葉を紡げなかった。開いた唇を慌てたように結び、眉を寄せて首を振る表情を見れば、何だかんだ言っても久々に違いない他人による刺激に感じてるのは明らかだった。その証拠に、手の中のモノはみるみる勃ち上がって手応えを増していく。
「この──変態野郎が!」
「失礼なこと言うなよ。イイから勃ってんだろ?」
「しょうがねぇだろ! そういうっ……」
「そういう?」
「あ──クソ……!」
息を詰める合間に忌々しく吐き捨てて、吉見はおそらく無意識に小さく唇を舐めた。
濡れた舌が思いがけない艶めかしさで蠢くさまを目にした途端、矢嶋は言いようのない衝動に駆られた。
そうしようとか、そうしたいとか思ったわけじゃない。ただ気がついたらそこに自分の唇を押し付けていて、一瞬のちには後頭部の髪を思いきり引っぱられていた。
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