起-5

 さっさと入口に向かう吉見を追い、矢嶋も肚を括って足を踏み入れた。

 幸いフロントに顔を出さずに済むシステムだったから、おかげで窓口のオバチャンに好奇の目を向けられたりもせず、野郎2人連れは部屋に直行することができた。

 残り3室の中から選んだ一番シンプルな部屋は、侘びしげな絵画の額縁が1枚おざなりに飾られただけの、極めて殺風景な内装だった。これが女と一緒なら一気に興醒めするところだが、今夜に限ってはこのほうが有り難い。

「しかし男2人には狭いな」

 矢嶋の呟きにはしかし、意外な答えが返った。

「女と2人でも息が詰まる」

「あんたでも来ることあんのか? こういうとこ」

「この手のホテルはない」

「あのさぁ、素朴な疑問で訊くんだけど、じゃあ少なくとも童貞ではないってことだよな?」

「30越えてるヤツに訊くことか? それ」

 何を言い出すんだとばかりに吉見は眉を顰めたが、矢嶋にしてみればその反応のほうが予想外だった。

「だってあんた、いつやるんだよ。元気なのは仕事中だけなんだろ?」

 あぁでも、童貞を捨てたのが社会に出る前なら関係ないのか? そう思い、待てよ、じゃあ学生の頃は何やってるときが元気だったんだ? そんな疑問が湧いたとき、吉見の声に思考を遮られた。

「だから仕事中にやってる」

「は? 何を?」

「セックスの話じゃなかったのか」

「だったけど……え? 仕事中って?」

「たまにだけどな」

 脱いだ上着をベッドに放って素っ気なくそう言った吉見は、矢嶋が見ている前でネクタイを解いてシャツも脱ぎ、ベルトを外して下も脱ぎ、あっという間にパンイチになって全てを几帳面にクロゼットの中にブラ下げた。

 こちらの目を気にする素振りもない一連の動きを無言で見守りながら、矢嶋は胸の裡で確信した。

 間違いない。この男は決定的に何かが欠けてる。

 濃紺のローライズボクサーに包まれた小さな尻から、バランスよく引き締まった細い腰、仄明るい照明が作り出す背中の陰影までを見るともなく眺めていると、吉見は備え付けの簡易なパジャマとタオルを持ってさっさとバスルームに消えていった。

 その似つかわしくない機敏さは、入浴が明日の──正確には今日の──仕事に繋がってるからなんだろうか?

 首を振って溜め息を吐き、矢嶋も衣類をハンガーに掛けて安っぽい水色のパジャマに袖を通した。部屋の隅にあるドアを開ければすぐに狭苦しいユニットバスのようだから、吉見のように裸でウロつくつもりがないなら今のうちに着替えておいたほうがいい。

 それにしても、仕事中に女とやってるって? あのとんでもない仕事中毒が?

 ベッドにゴロリと横になって天井を見上げる。

 一体どこで、誰を相手に、どんなタイミングで──?



 漏れ聞こえてくるシャワーの音をBGMに、脳内で渦巻く謎について考えているうち、酔いのせいもあってか少しウトウトしたらしい。

 おい、と呼ぶ声がして肩を軽く揺すられた。張り付く瞼を無理矢理開いたら、見慣れない男の顔が覗いていて一瞬ギョッとした。

「あ? ──あぁ、そっか、あんたか」

 さっきまでは斜めに緩く流れていた前髪が額に落ちかかり、格段にラフな風情になったワーカホリックが備え付けのパジャマ姿でベッドの端に尻を乗せていた。和服のように前を重ねて紐を括るだけの簡易な着衣の裾から、顔や手指と同種の骨格を感じさせる膝小僧が覗いている。

「寝ボケてんのか」

「風呂が長ぇから寝ちまったよ」

「そんな長くねぇよ。あんた、風呂どうすんの? 俺はもう寝るけど」

「入ってくる。俺のスペース空けといてくれ……」

 矢嶋は欠伸を漏らしてノロノロとベッドから降りた。色気も素っ気も空間の余裕もなく、ひたすらヤるためだけのような部屋にはソファもないから、床に転がりたくなければ2人揃ってベッドで寝るしかない。

「それにしても狭いよな、これなら俺のベッドのほうが広い」

 吉見がボヤいた。確かに決してゆとりがあるとは言いがたいベッドは、それでも一応おそらくダブルサイズではある。

「自分ちのベッドは、女と寝るわけじゃないんだよな?」

「そんな元気はない」

「じゃあ、なんで広いベッドが必要なんだよ?」

「休日の大半をそこで過ごすから」

「──」

「なぁ、煙草もらっていいか」

「あぁ……」

 クロゼットに掛けた上着のポケットからパッケージを出してベッドに放る。

 吉見が1本抜いて形の良い唇に咥え、同じく形の良い指先で灰皿の中からホテルのロゴ入りライターを摘み上げた。

「出てきたときに寝るスペース占領してたら、適当にどかしてくれ」

「あんた寝相悪いのか?」

「そうでもないとは思うけど、今日はすげぇ飲んだからわかんねぇ」

 シャープな輪郭の中で眠たげな目が重く瞬き、欠伸を噛み殺すように顔を顰めてライターを擦る。睡魔に見舞われてるのはお互いさまだった。

 ひと口めの煙を吐き出す横顔をチラリと見てから、矢嶋はタオルを手にバスルームに向かいかけて振り返った。

「そうだ。なぁ、仕事中のセックスっていつどこで誰とやってんの?」

「質問が多い」

「いや3項目しか訊いてねぇし、そりゃ仕事中にヤッてるとか言われたら気になるに決まってるよな?」

「しょうがねぇだろ、仕事中しか興奮しねぇんだから」

 それぐらいなら別に無理にする必要はなくねぇか? 思ったが、ややこしい議論にでもなったら面倒だから口には出さなかった。

 セックスの必要性について野郎同士でディスカッションを繰り広げるのは構わないとしても、数時間後には出勤を控えた深夜、しかもうらぶれたラブホの部屋なんてシチュエーションじゃないほうが有り難いし、いま聞きたいのはそこじゃない。

「で、いつどこで……」

「うるせぇな、別に会社ん中でヤッてるわけじゃない。あんたんとこも全国の支店が集まる会議とかあるだろ? そういうときに泊まりで来る支店の顔見知りと、ホテルの部屋で寝るってだけだ。どうせ同じ建物の会議室に集まるんだから時間のロスも少なくて済むしな」

「時間のロスってなぁ、あんた──まぁつまり、ホテルん中で手っ取り早く会議室から部屋に直行ってわけか?」

「そう」

「会議の直後に?」

「状況による。もういいだろ、気が済んだか? さっさと風呂に入ったらどうなんだ」

 吉見は煙を吐いて鬱陶しげに前髪を掻き上げたが、矢嶋は少し考えて眉間を寄せた。

「え? そんだけ?」

「何が」

「だってその手のデカい会議って、あっても年に2回とかだよな。普段はどうしてんだよ」

「普段って?」

「まさか年に2回しかやらないってことないよな?」

「だったら何だ?」

「──」

「他に機会があればしなくもないけど、そういうテンションにはそうそうならねぇし」

「あんた、枯れ果てたジジイか。俺と同い年とは思えねぇ」

 矢嶋は首を振って方向転換し、バスルームに入った。

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