起-4
が、そんな野郎の様子も酒が進むにつれていくらかマシになってきたのは、どうやら今が仕事中じゃないっていう現実を忘れられるせいらしい。全く、とんだ仕事中毒だ。
でも、おかげで少なくとも棺桶に片足を突っ込んでるような不景気面じゃなくなったし、気怠くはあってもリラックスした風情で、ごくまれに笑顔すら見せるようになった。
──コイツでも笑うことがあったんだなぁ。
死人みたいなツラしか知らなかった身にしてみれば、この発見は感慨深い。
重たかった眼差しは酔いのせいで余計に眠たげではあるけれど、表情が弛んだせいか鋭角な輪郭もマイルドに見えてくる。
とはいえ会話のほうは、弾んだと言えるほどでは決してない。なのに何だかんだで焼き鳥屋の閉店を迎えてしまったのは、一体どういうわけなのか。
2人揃ってオーダーする酒が3杯目を迎える頃には、吉見も多少は仕事の話題に触れるようになっていた。が、それでも一定以上の領域には踏み込ませなかったし、かといって同業だという他に共通の話題もない。にもかかわらず盛り上がるでもないその会話が、何故か妙に心地よかった。
普段の付き合いに多い猥雑なタイプの人間たちとは、全く別の何か。おそらく、それが矢嶋をその場に引き留め続けた。
店員にラストオーダーを告げられて時計を確認すると、既に零時半だった。地下鉄の終電は早く、自宅までの電車はとっくに終わっている。ただし、ここから2駅だからタクシーで帰っても大した金額じゃないし、歩いたって40分かそこらだ。
矢嶋は開き直って最後の一杯を注文してから隣に訊いた。
「あんた、家はどこなんだ?」
「清瀬」
「マジか。結構遠いよな? 終電、何時だよ」
「零時44分かな」
「もう12時半回ってんの知ってたか? 今から急いでも絶対間に合わねぇよな」
吉見は、そうか、と小さく呟いた。
「もう日付変わってんのか」
「やっちまったな」
「明日の仕事が近づいてきた……あぁ、もう明日じゃねぇ。今日だ」
その声に心なしか張りが出てきたような気がして、つい横顔をガン見した。どうやって帰るんだ? そう尋ねるつもりだった問いは、芽生えた疑念に押し遣られた。
「まさかあんた、出勤時間が近くなって喜んでんじゃないよな?」
「何が悪ィんだ?」
矢嶋は溜め息を吐いた。病気だ、病気。
「でもさぁ、だったら昼メシんときは何であんなにテンション低いんだよ。午後の仕事がすぐそこに控えてるってのに?」
「午後の仕事が始まったら」
今度は吉見が溜め息を吐き、続けた。
「終業時間が近づく」
「──」
「目の前に仕事が迫ってるのに、同時に終わりもやってくることを考えたらジレンマで憂鬱になる」
病気だ、病気──
そうこうするうち閉店時刻の1時になり、2人は否応なく店を追い出された。
驚いたことに、話題がないと言いつつも都合3時間は腰を据えていたことになる。おかげで髪と言わず服と言わず、煙草やら脂やらの匂いが芯まで染みついたように感じられたが、そういう全てをひっくるめた奇妙な充足感の膜で全身を覆われてる気分だった。
チェーン店にしては酒や肴が旨かったとか、戸外に出たら思いのほか春の気配を孕んだマイルドな気温だったとか、理由は諸々思い当たる。でも、一番の要因を否定するつもりもない。
隣を歩くワーカホリックの前髪を、頼りない風がそろりと撫でていった。
もうすぐ上着がいらなくなるな──どうでもいいことをぼんやり考えたあと、改めて帰る手段を尋ねると、吉見は欠伸を噛み殺しながらあやふやな答えを返した。
「あぁ……漫喫か、ファミレスか24時間営業の呑み屋か」
「タクシーは?」
「今から1万かけて会社から遠ざかる気分じゃない」
ちっとも意味がわからない。
「じゃあ深夜バスは」
終電を逃した帰宅客のために各バス会社が運行している急行バスで、もちろんタクシーに比べたら断然安い。矢嶋自身は必要ないが、一緒に飲んだ女をソイツで見送ったことが何度かあった。
乗ったことないと吉見が言うから清瀬行きの便をスマホで調べたら、駅を挟んだ反対側にあるバス停から10分後の出発だった。
ただし単純に駅の向こうと言っても、地下鉄を除く鉄道会社3社分の距離を横切る必要がある。超えるべき線路の数は、合計すれば20本に近いはずだ。しかもバス停は駅前のロータリーにあるわけじゃない。
「向こう側だから微妙だけど、まぁ……走ればギリギリ間に合うんじゃねぇか?」
「可能性は低いし、走る気力が湧かない」
果てしなく投げやりなツラで吉見は言った。
「あんた、そのヤル気のなさでよく途中で外に出て焼き鳥屋なんかに寄り道したよな」
「目的は焼き鳥じゃない、あの近くに用事があったから仕方なく駅から出たんだ」
「なるほどな、おかしいと思った」
まぁとにかく、帰宅しないと言うなら好きにすればいい。そう思い、さて自分はどうしようかと考えた。
終電直後のこのタイミングだとタクシーは長蛇の列だ。長距離なら待つ価値はあるだろうが、歩いて帰れる近場でそんな時間をかける意味はない。
つまり帰ろうと思えばいつでも帰れるから慌てる必要はなく、だったらこの男がどうするのかを見届けてからでもいいんじゃないかって気になった。
いざとなれば家に泊めてやれないこともない。ただ、それを申し出る踏ん切りがつかないまま、矢嶋はとりあえず当たり障りのないことを口にしていた。
「朝までやってる呑み屋なら、この先に何軒かあったような気がするけど」
「いや、シャワーくらい浴びてぇから漫喫かな……着替えは会社にあるけど風呂はない」
その言葉について数秒考えた。
「着替えって、まさか会社に一式まるまる置いてあるとか?」
「まさか置いてねぇの?」
マジで? と互いに言い合った。
それから会社に風呂が欲しいって要望について大真面目に議論しつつ、見つけた一軒目の漫喫は惜しくも満室。
再び歩き出しながら、この時間だからどこも空いてねぇかもなぁ、と吉見が眠たげな目でボヤく。
その横顔を眺めて、ウチに来るか? というセリフがいよいよノドまでせり上がったとき、差し掛かったホテルの前で吉見が足を止めた。健全な宿泊施設じゃない。主に時間制で愛を営むためのホテルだ。
「風呂に入れるし、朝までベッドで寝られるな」
そんな呟きが聞こえた。
確かにそりゃそうだし、満室の表示は点灯してないから空きはあるようだけど、それにしたって。
「マジで言ってんの? ここ、どういうホテルだかわかってんだよな?」
「それがわからないほど酔ってない」
「1人で入るつもりか?」
「一緒に来るなら別に止めねぇけど、あんたは帰るんだろ?」
「──」
不意に迷いが生じた。
このワーカホリックとラブホに泊まる──?
それも面白いと考えてしまったのは、おそらく大半がアルコールのせいか。
そういえば吉見の帰宅先だけ聞いて、矢嶋自身のことは話していない。だから帰るのが難しいと答えてしまえば疑いはしないだろう。
「いや……まぁ、タクシーもなかなか捕まんねぇしな」
言ってみたら案の定、気のない相槌だけが返った。
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