第16話

ここは古から長きにわたって人々に崇められた神の住む社、だった場所だ。


過去にはたくさんの人がここを訪れ、お参りに賑わったものだが、今や見る影もない。


参道には草木が茂り、今や人を寄せ付けない生態系がひしめき合っている。


それでもまた最近になって、少しずつ人が訪れるようになってきたのは、若者たちの流行によるものだろう。


SNSなどでたびたびこの場所に足を運んだという報告などが目に付く。


区画管理におけるブラックとは、A区にとってのスラム街などを除く管理区画のうち、地区内で起きた問題に対して、司法権力の効力が無効とされている地域。


つまるところ、場所として認識はしているが、管理区画外と同じだ。


ブラック区画というのは意外なことに日向町の外を見るとA区にも数多く点在している。


それは調査等が不可能に近く、それらを統制することが難しい超自然的な場所であったり、チンピラやマフィアなどがたまり場として使う、人災が繰り返し発生する地点であったりする。


ちなみに、この社もそれらと同じように、自己責任でどうにかしなければならないような事案が数多く発生する。


強盗などの人災やモンスターによる被害など、目を覆いたくなるような悲惨な事件が起こるのにも関わらず、それが公的に報道されないのも、立ち入り規制が敷かれないのも、すべてブラック区画だからということに他ならない。


ひび割れた境内へ続く長い階段に鬱蒼とした不気味な木々の茂る森。


風の音なのか何かの鳴き声なのか、酷く胸をかきむしりたくなるような空虚な音だけが耳に入ってくる。


飛び出すタイミングをうかがって、草木の間からこちらの様子をうかがう生き物の存在をいくつも確認できる。


そういう輩を何匹か殺してみて、血の臭いをばら撒いてやれば、同種の臆病な奴らは近寄ってこなくなるし、こちらを狙う影も、いくつかは血の臭いのする死骸が気になってこちらへ向かう数を減らすことができるだろう。


とはいえ、少し大きくやりすぎたかもしれない。


「階段がほとんど赤くなっちゃったんだけど?」


「あれ?もうそんなにやりました?歯ごたえなさ過ぎてこれなら何体でもやれちゃいますよー」


恭弥の表情が少し愉快そうに見えるのは気のせいだろうか?


長く続く階段は獣どもの血に濡れ、その屍が階段の装飾のようにあたりに散りばめられている。


ひどく残忍な光景だが、あまりの異常性にモンスター達も気付いたのか、途中からはこちらを伺う影どころか、その血濡れの階段に近づくものさえ存在しなかった。


階段を登りきると、長い年月により草が生い茂ってこそいるがひらけた境内が広がっていた。


いつもは見えないはずの視界の右半分、凪の瞳が繰り返された過去の光景の残滓を映し出す。


満点の星空の下、それを見上げ感傷に浸り、過去を語り、古傷を舐めあうような甘美な言葉を酒に酔ったままにしゃべくりあった。


蓮華は何度も繰り返したその日々をリプレイして見せるみたいに、神社の縁側に座って一人芝居を始めて恭弥にその様を見せる。


思い出せば出すほど、彼女が語ってくれた夢や、脳裏にフラッシュバックし続ける世界終焉の中で投げかけられた優しさ、そして自分の態度が彼女に何を思わせたかをひしひしと悟る。


苦しい、目頭が熱く滾り、吐き気がする、気持ちが悪い。


彼女が想い、考え、苦悩したその様を自分に重ね合わせて、これが自分のみに起きたことであったなら、どれほどの苦痛と悲観を持ったことか。


それがわかったから余計に辛い。


勝手に涙が溢れ出してきて、その悲壮が見ていた恭弥の表情さえも歪ませる。


『私たち、ずぅーっと一緒にいられたらいいのに!!』


「ふっ………ぐっ………うぅぅぅ……」


嗚咽が呼吸を妨げ、うまく言葉を続けられない。


彼女への謝罪が、自身への悔恨が、蓮華の胸を締め付ける。


そうだ。


その願いこそが、彼女をこのおぞましいループへと駆り立てたすべての元凶となってしまったのだ。


そんな彼女を後押ししたのが、伊藤正光のアザトース招来による世界終焉のシナリオだったわけだ。


「あなたがヨグ=ソトースの時空門を開かなくても、正光は世界終焉のシナリオを始めるのは時間の問題だった!そうでしょ!?正光の力が強大すぎて、私たちの手に余ると思ったから、あなたは世界をループさせるほかなかった!」


張り裂けそうな胸から飛び出た、精一杯の擁護の言葉、自分たちに気取られぬように守り続けてくれた彼女に対して、一体自分たちが何をできるだろうか。


彼女の望みを、願いを無碍にしない。


どんな結末が訪れようとも、彼女とともに前へ進むのだ。


それ以上に彼女に報いる道はない。


「やめて!」


悲痛な叫び声が蓮華の懺悔に飛びかかる。


ふらふらとした足取りで、階段を上がってきたのは花宮クロエその人だ。


彼女は蓮華と同じように、涙で頰を濡らしながら、蓮華が叫んだ無力さゆえの犠牲への改悛に怯えているようだった。


きっと貴女は許してくれないだろう。


誰にも相談せず、こんな大事をやらかしたことを。


隠し事をしてしまったことも、仲間を裏切るような真似までして、自分の思いを先行させてしまったことも。


そう思っていたのに、彼女に向けられたのは、過去彼女が与えた以上の愛。


蓮華にとってはたったそれっぽっちしか、してあげられないと思っていた。


でもクロエにとってそれは、その受容がなによりも嬉しくてたまらなかった。


だからきっと余計に、自分を責める自分の言葉が、ずっと自分の心を締め付けている。


クロエにとって、これは望んでいた結末ではないからだ。


彼女たちを守ったなんてとんでもない、それどころかループのために恭弥すら自分の手にかけたのだ。


自分には彼女たちにそう言ってもらえる資格は無い。


「ちがうの……違うのよ………あなたが思っている程に、私はいい人じゃ無いの……」


泣きじゃくりながら、ぽつりぽつりと言葉を零す。


「始まりは私からなのよ…!全部は私があなたたちを疑ったから!あんまりにも幸せで、きっとすぐに無くなってしまうと不安で、どうしようもなくて!」


そうだ、むしろ断罪の言葉で磔にでもされたほうがどれだけマシに思えることか、鋭い糾弾に串刺しにされた方が、どれほど気が楽だっただろう。


涙で前が見えなくなって、その場に座り込んでしまう。


まだ、いくらだって、蓮華は贖罪を心に傷薬みたいに、慰謝で絆創膏みたいに空いた穴を塞いであげたかった。


崩れ落ちたクロエに駆け寄って、その手を引こうと手を伸ばした瞬間、


「っ!!」


突然恭弥の手が蓮華の顔を掴み引き寄せる。


すると間一髪で蓮華の首筋をクロエの血刃がかすめた。


「ど、どういうことよクロエ…あんた」


「この世界はね、なんだかおかしいの」


血を引きずって、体に戻すと何かを求めるように歩き始める。


「この世界だけじゃない、1つ前から。もしかしたら私が気づかなかっただけで、もっと以前から狂い始めてしまったのかもしれない」


叫びたくなるような気持ちに記憶の波がリンクする。


不定と固定を繰り返したゆたう血液が、その情緒の不安定さを物語っているようだった。


「あなたのことよ蓮華!一体どうやってループに気づくことができたの!?」


真実の露呈を恐れて2人から距離をとったクロエには、彼女たちがなぜ真実まで到達できているのかが謎で仕方なかった。


とてもじゃないが、時間をループさせる事を選んだ彼女にとっては、それが最善策であり、絶対の選択肢だったのだから、彼らが因果の外から来たり、そのループによって時空の弾性すら超越するような力を得るなんてのは思っても見なかったのだ。


「もう戦う理由なんて何もないのよ!?私は全部わかって…」


「嘘!」


心臓が張り裂けそうになるような悲惨な悲鳴が、針で突かれた風船のように破裂した。


「嘘よ……やめて、あなたは私の知る朝凪蓮華じゃない」


まるで怯える子羊だ。


誰よりもなによりも変革を恐れた彼女は、自分が知らないうちに蓮華や恭弥が変わってしまったことが怖かった。


怖くて怖くてたまらなかった。


どうしていいかわからない蓮華も、感化されてまた泣き出しそうだった。


「怖くてたまらないのよ!私1人だけ置いていかれるのが!」


消え入りそうな声で「だから」と引きずり、振り上げた右手を剣にかえて蓮華に斬りかかる。


(また私に微笑みかけて…)


だが、蓮華を捉えていたはずの右腕は宙を切り、踏み出したはずの一歩はせきとめられていた。


暖かい体温と優しい匂いがクロエの体を抱きしめた。


「………」


痛くない。


暖かい。


頭の中がぐるぐる回ってわからなくなる感じがする。


私は知っている。


このどうしようもなく愛おしくてどうしようもなく美しい、誰よりも愛した最愛の友人を腕に抱いたこの感触を、自分のどれだけをかけても守り抜きたいと誓ったその温もりを、私は無意識にでも判別できるくらい知ってる。


混乱した頭に麻痺した思考、それなのに感覚だけはやけに研ぎ澄まされていて、耳から聞こえた言葉ははっきりと聞き取れた。


「それでいいんですか?」


恭弥の声だった。


凝り固まった思考めがけてキリでも突き立てられた気分だった。


その明確な問いは袋小路になっていたクロエの考えに穴を開ける好機となった。


「よく…ない、でも、どうしたらいいかわかんない」


小さな呟きとともに、クロエが堪え混んでいた痛みを涙と一緒に吐き出し始める。


なんだか、押しつぶされそうなくらい重かった胸が少しずつ軽くなっていく気がした。


「みんなが少しずつ離れていく…、でも止められないの。終わりは必ず訪れる」


そう、この世界とおんなじようにね。


涙でかすれた声、まるで縋るような心苦しい響きが、直接触れ合う蓮華には伝わってくる。


「自分のしたことに我慢できなくなって戦うのを選んだこともあった。でもいつも私だけが生き残る!それじゃあ意味ないの!最愛の人が殺されるのをただ無力に見てなくちゃあいけないのなら、いっそ自分の手をくだしたほうが何倍もマシだった!!」


クロエを抱きしめる蓮華の腕には、やがて力がこもっていく。


ただじっと、クロエが貯め続けて来た孤独への狂気を受け止め続ける。


「わだじはまだぎょうやぐんをごろざなぐちゃいげなぐてぇ゛っ!」


溢れ出した感情の波が暴発する。


それはまるで熱された水蒸気がキノコみたいに膨れた雲を作るみたいに、クロエ自身の心が、何よりもそう叫びたがっていた。


むせび泣くクロエを強く二度と手放さないように抱きしめる蓮華は、彼女の首元に唇をつけるみたいにして、それでもはっきりと、彼女の耳に届くように、こう言った。


「ありがとう」


首筋に感じる確かな人肌の感触、湿った空気、心地よい優しい声。


何もできない自分が申し訳なくて謝るだとか、むしろいっそ無言なら耐えられたのに、クロエはもう堪えられなかった。


子供みたいに大きく泣くクロエを抱きかかえて、母親が赤ん坊をあやすみたいによしよしと頭を撫でる。


「大丈夫だよ、私は、ううん、私達はどこにもいったりしないよ。クロエが先に行っちゃいそうになったら、絶対追いかけるよ」


ゆっくりと、子供に言い聞かせるみたいに蓮華がそういうと、クロエはただ嗚咽するだけになった。


このままクロエが落ち着くまではこうしていたかったけど、それはどうにも叶いそうに無い。


蓮華がおもむろに右手に出現させた銃で、社の屋根を撃つ。


すると、その弾丸を弾き返す激しい金属音が鳴り響き、風景から滲み出るみたいにしてマルタ・アンジェが姿を現した。


「あら、バレてたの」


「そんだけ殺意漏らしてたらね、猿でもわかるわ」


「殺しに来たんだから、これくらい気付いてもらわなくちゃ面白みがないじゃ無い三下」


青と赤が神秘的に絡み合う非現実的なコントラストを保つフランベルジュを振りかざして、マルタは自信満々に蓮華を煽ってみせる。


「僕がやりましょうか」


「いい、恭弥はクロエをお願い」


前回のループでマルタを破った力が、今クロエの眼前で披露される。


それがどうにも恐ろしいことのような気がして、息を飲んで自身の前に出た蓮華の背中を肩を震わせながら見つめる。


よく知る背中のはずなのに、彼女から感じられる秘められた力は、クロエの想定をはるかに超越していた。


震える肩を恭弥が抱く。


何も言うことをせずに、彼もまた、ただ蓮華を見届けるつもりらしかった。


クロエには未だ信じられないのだ。


天才と呼ばれたマルタ・アンジェを、下手の横好き程度の魔術が、ずっと落ちこぼれだと言われ続けた蓮華の魔術が打ち破るなんてのは天地がひっくり返ってもありえないからだ。


だが、そんなクロエの考えとは裏腹に、本来あるべき結果とは反発した事象が目の前では起きるのだった。



―――――刹那、瓦の上で余裕をかましているマルタが、廃神社に縦線一本入れるみたいに破壊しながら地面に叩きつけられる。


「ッ!?!?」


「相手してやるよド三流、登って来なァッ!」


かかと落としを決めた蓮華はすでに先ほどまで余裕をぶっこいていたマルタがいた場所に立って、彼女を挑発している。


「嘘…蓮華がクアトロアクセルを…!?」


一瞬前まで彼女が立っていた場所には、凄まじい亀裂と衝撃が走り、魔法陣の残滓が消滅しかかっていた。


次々とクロエには信じられないことばかりが連続して起こっていく。


半壊して土煙をあげる廃屋から、マルタのフランベルジュの刀身が蓮華に向かって放たれるが、すでに見切った技、回転する刀身の側面を捉え弾き飛ばす。


「芸のない…」


「ド三流の三下なんて底辺争いもいいとこネぇっ!それじゃあ付き合ってもらおうかしら、蓮華ちゅぁ〜んッ!」


幾多もの刃を一斉に射出する。


新しく見る技にテンションのエンジンにオイルが垂らされる。


とてつもなく愉快そうに、蓮華は飛んでくる刃の中に跳び込んで、最小限の動きでそれらを交わしていく。


そしてアクセルで強化した長剣をフランベルジュとぶつかり併せて笑う。


「テメェのオナニーなんぞテメェで済ませろ」


ニタリと口角を厭らしく引きつらせ、あえて下品な言葉で煽り、既に山1つ覆えるくらいに燃え盛ったマルタの怒りの炎に爆発性の燃料を注いでいく。


風がそよぎ、境内を侵食しつつある背の低い草の頭を撫でる。


そんな風を切り裂きながら、弧を描き飛んでくる一対の刃。


着地に合わせた攻撃を蓮華はたった一発の9ミリ弾で、その軌道をずらす。


着地後そのまま構えたハンドガンで17発、次なる攻撃を加えようと接近するマルタに正確に撃ち込む。


その全てを剣でガードし、勢いの乗ったまま蓮華に斬りかかる。


弾が尽きて、スライドがオープンしたハンドガンのマガジンを、手首のスナップでマルタに飛ばすとそれをブラインドにして、剣撃を回避する。


激しく舞う土埃の中、それを引き裂くマルタの剣と蓮華のマズルフラッシュ。


またしても始まった剣と銃の近接戦闘。


怒りに任せて刃を振るうマルタは、その奇妙な感覚に頭を悩ませていた。


まるで全ての動きが見切られているかのようにかわされる。


(右、下斜め左からの跳弾、切り払いはジャンプではなく伏せて回避…)


まるで手玉に取られているよう、赤子の相手でもするような蓮華の表情にひた怒りが先走る。


それでももうその違和感は拭えない。


彼女は今もなお、殺気なく銃を向け、あたかも戦っているように見せる蓮華について考えていた。


なぜだ。


なぜこうも動きを見切られる?


その時マルタはクロエが言ったとある一言を思い出した。


『朝凪蓮華は私が知っている朝凪蓮華ではない』


そうだ、あそこでクロエが怯えたようにしているのがいい証拠だ。


この朝凪蓮華は、あの三流魔術師の朝凪蓮華ではない!


だとすればなんだ?この目の前にいる朝凪蓮華は、一体全体何がどうなればあの落ちこぼれがここまで強くなる。


狂宮恭弥の妙技か?いや、それならもっと早くそうなっていたはず。


どう解釈したとしても飛躍した結論にしか到達できないのならば、そう解釈するほかないのだ。


常人なら受け入れ難いことでも、マルタはすんなりとその過程を受け入れることができた。


それも天才ゆえか。


もしもこの朝凪蓮華が"なんらかの能力"で既に自分と戦闘した経験を得たとする他、現状を説明できない。


当然だ。


マルタや正光はクロエが引き起こすループの事を知覚できていないし、その因果が最終的に蓮華に収束しているなんて、誰が想像できたであろうか。


だが、どうであれ、マルタの行き着いた答えは間違いなく最適解であったのだ。


飛んできたフランベルジュの一本が蓮華の銃撃によって打ち砕かれた。


今までの全ては、そんなことはなかったのにもかかわらず、その一本だけが簡単に砕け散って、美しい青と赤の結晶が空気中に散らばった。


マルタの頬が勝利を確信した恍惚とした悦に歪む。


「…!?」


(あなたわかってるんでしょう?格下だと決めつけて戦う私が、あなたごときに魔術とアーティファクトを併用した戦術を取らないって)


その粉々に砕けた破片は蝶の鱗粉のように舞い、蓮華の周囲を色鮮やかに彩った。


「ヤバ…ッ」


「キィァアハハハハハッッ!!ざぁ~んねぇ~ん、くたばりなさい」


蓮華が自身の陥った危機に気づいた瞬間、その身を躱す間も無く煌らかな粉塵は、彼女自身が引き金を引いた銃の発火炎により空気中の酸素と結合し急激に燃焼し爆発を起こした。


突然の激しい爆発にクロエが息を呑み、手を伸ばそうと飛び出したのを恭弥が止める。


「心配いりませんよクロエさん、あなたが信じた友人は、あなたが救いたいと切に願った大事な彼女は、あなたのおかげであなたと共に歩むための力を手に入れたのですから」


「さぁぁっ!殺してやったわよ蓮華ちゅぁ~ん!次はあなたのだぁいじな人を一人ずつ細切れの肉片にしてあげるわ!」


マルタが矛先を二人に向けると、恭弥はやれやれと言った様子で未だ爆発の噴煙が舞う蓮華の方を指差した。


塵旋風が土煙をまとめ上げ天に柱をあげて吹き飛ばす。


「何…!?」


「死体も確認せずに、殺したなんて三流以下だったかしら?」


荒れ狂う暴風の中、蓮華の向ける銃口が竜巻から二本生え出てマルタに向けられる。


耳鳴りでもするような銃声が嘶き、その反動が竜巻さえをもぶっ飛ばす。


マルタはたちまち散弾の雨を傘もささずに浴びる羽目になった。


それはトライアドが設計開発したフルオートショットガン“Tempest”であった。


巨大なドラムマガジンから装填された12ゲージのショットシェルが、マズルフラッシュが轟くと共に蛇口をひねったみたいに勢いよく大地に注がれてゆく。


散弾の雨は文字通り暴風雨”tempest”の名に恥じない程に、フランベルジュの影に隠れたマルタの体を血に濡らしていく。


地面に突き立ったフランベルジュは即座に平面的な展開を見せ、彼女の体を鉛玉の嵐から隔絶した。


激しい金属音が鳴り続け、威圧と同時にマルタの精神を疲弊させていく。


「月下の水面、霧雨の降る宵月、朽ちゆく枯れ木にのたうつ者よ、明けること無き黒き森の屍に、今その冷徹なる雫を滴らせ……朽華氷廟!」


魔力が鉛の雨に削れゆく地面に流れ、魔法陣を描き冷気がだんだんとマルタの周囲を覆っていく。


瞬間的に凍結した空気に弾丸は阻まれ、彼女の元へは届かなくなってしまう。


「霊廟の主よ、我が冥血を贄としその宮に花を添えるがいい、私はそこで雨宿りをする、憂い、微睡み、泡沫に惑う、血霞巡重」


それに加えて自身の血液を媒体とした魔術防壁を重ねがけした。


これでは並大抵の弾薬は貫通どころか弾かれる。


エクストラクターから空薬莢の排出が止まり、ボルトが開きっぱなしになる。


蓮華の方も打ち止めだ。


蓮華との距離と防護壁のおかげか傷は深くない。


軽い治癒を施し、次なる手を仕掛けるべくマルタは魔力を高め始めた。


蓮華は“Tempest”を投げ捨てると、おもむろに空間に開いたチャックからブリーチングランチャーを取り出して間髪入れずにマルタの作った障壁に打ち込むが、ドリル部分が上手く刺さらず、弾かれて明後日の方向で爆発する。


このまま彼女を仕込みが終わるまで引きこもらせると、こちらの被害も大きくなる、そう考えた蓮華はなんとか防壁を突破する方法を模索していた。


出した答えは単純明快。


「ありとあらゆる生の原点、それはあまりに強大で、誰の手にもおさまらない。その光は罪を暴き、その熱は人理さえも焼き尽くす。灼滅せよッ!!」


天にかざした人差し指の上に少しづつ魔力が熱となって蓄積する。


それはやがてもう1つの太陽と言って差し支えないほどの熱、輝きを放ち、草花を焦がす。


「滅天焦球!」


氷の城壁に向かって腕を振り下ろすと、高密度のエネルギー球がそれに向かって動き始めた。


熱球は極低温の壁に衝突すると、混ざり合ったエネルギーが膨張し爆発する。


発生した水蒸気の霧の中を突っ切って、マルタが飛び出してくる。


「遅かったわね!こっちは準備万端よ!」


波打つようにうねった刃の連撃が直接蓮華に襲いかかる。


不用意に近づけさせたのは失敗だったか、近距離戦ではあれに対抗できる獲物が無く、圧倒的に不利だ。


回避しているだけではいずれ間合いを詰められる、距離を取ろうにも策なしにそれをさせてくれる女じゃないだろう彼女は。


突き出す銃口をいとも簡単に外され、逆に切り伏せられそうにさえなる。


「ほらほらほらほらぁっ!」


準備万端と自負しただけあって、先の銃創もそれによるダメージも見る影なし、振り方も選択の余地を消すようにピンポイントに、蹴りにもアクセルステップによる肉体強化が強く上乗せされている。


策と言ってもそれをねじ込むための隙を作る必要がある。


どちらにせよ、この近距離戦を真っ向から破る他方法はないのだ。


その婉美な剣捌きはまるで油断ならず、下手に搦手や視線誘導を混ぜ込もうものならそれごと斬り伏せる気迫を感じる。


撃ち切った銃はリロードもせずに投げ捨てて次の物を構える。


超至近距離でほぼ組み合った状態のまま、剣と銃の攻防。


交わしては斬り、躱しては撃つ。


立ち合い一つ間違えただけで互いに致命傷だ。


「一気に大人しくなっちゃったわねぇ蓮華ちゃん!」


振り下ろした刃が地面を割った途端に、バックステップを踏んだ蓮華に目掛けて、地面から鋭い結晶が幾多にも重なる追撃となって飛び出す。


「アクセル…!」


間一髪の肉体強化で追い討ちの対処に成功するも、それはマルタが用意した逃げ道でしかなく見事追い込まれてしまった。


「うふふ、隙だらけねえ」


「しまっ…!」




ガキンッ


マルタの振る剣に確かな感触が伝わる。


回避しきって再びマルタの方を向うとした瞬間、髪の毛で死角になっている右側の方から強い衝撃。


蓮華の前髪を止めていた赤いバレッタの壊れた破片が髪から解け落ちる。


「やってくれたわね…マルタ」


「はじめのお返しよ」


まとめられていた髪がおりてきたのを、指で梳かして雑に乱す。


大きくため息をついてゆっくりと開いたその右目には、青い大空におっきなお月様を映したみたいな美しい色の瞳が輝いていた。


「それが凪の目ってやつ?知ってるわよ、凪家の人間には不思議な瞳と特別な力が宿る。でもやっぱアンタ出来損ないみたいねぇ、半分しか出てない」


「…………出来損ないってのは合ってるわ、あなたの言うような意味じゃないけど」


「負け惜しみはいいわ、でもそれで、右目も見えるようにしてあげたし?ハンデは無くなったじゃない、さぁ、踊りなさい!」


いつの間にか、蓮華に振り下ろしたはずの剣が、腕が、弾き飛ばされていた。


突然の事にまるで理解が及ばない。


「………は?」


蓮華が向ける銃口にあげる硝煙、振りの出始めを目にも留まらぬ早撃ちが弾いたらしかった。


「あのバレッタに魔術式仕込んで髪の毛を媒体にして瞳の力を押さえ込んでたのに。ま、仕方ないわよね、アンタが斬ったんだし、仕方ないよね」


綻んだ頬と歪んだ笑顔、途端に溢れ出した殺意が二人の立つ決闘場を支配する。


蓮華の周囲に、形容するのさえ憚られるような悍しいオーラが噴き出している。


それが触れた草は、自身の役目を終えたように年老いて枯れ、飛ぶ鳥は自身が朽ちているのを気づかぬ間に灰になった。


吹き流れる風が木々を擦って奏でる音はまるでそのものに対する恐怖の悲鳴のように悲痛にがなる。


今まさに、累積した因果が凄まじき勢いで蓮華の瞳に収束し、可能性と時空間を歪めていく。


「これほどまでとは…」


「なに…あれ…」


その光景は傍観していた2人にしても凄まじいもので、殺意そのものがオーラに形取られて現界に姿を表したような忌まわしき見た目のそれは、恐怖と絶望を周囲に振りまいた。


「…あれが今まで片鱗を見せなかった朝凪蓮華の凪の能力です」


「悪い夢よ…こんなの…あの蓮華が…あんな…」


「あなたが僕らを守ろうとしてくれた時から、彼女はあなたを守るべく力を蓄えていたんですよ」


それがこんな形で現れるなんて思いもしませんでしたがね、恭弥が心の中で呟く横で、呆気にとられたクロエが呆然とその姿を見ている。


凪の瞳の色が一層の輝きを放つと空間に大量のファスナーが出現し、おもむろに異空間へ続く門を開く。


するとぼんやりと不気味な色を映す、開いた全てのファスナーの中から多種多様な銃口がマルタに向けられ、発射される。


追いつかない思考を冷静になだめ、姿勢を低くし避弾経始の考えに基づいて前方に球に近い障壁を展開する。


マルタがなによりも恐ろしく思ったのは弾丸の被弾では無く、数十丁もの銃火器を一度に制御しているにもかかわらず、その全てが正確無比にマルタに向けられていると言う事実だ。


高度に訓練を積んだ魔術師でも、ここまでの数を同時に実戦中に使うものはいない。


「仕舞えないのよ、力が強すぎて。右目が元に戻ってくんないのよ」


頭を抱え平然と魔法陣を展開する蓮華に、マルタの刃が斜め下から曲射される。


それも降り注ぎ続ける夥しいほどの弾薬の嵐に押しつぶされてしまった。


一分以上続いた掃射が弾切れで途切れる頃、あたりはうっすらと硝煙で視界が白み、焦げ臭い匂いが漂っている。


そのほとんどを弾き飛ばしたとはいえ、数千数万発の弾薬に相対する程のエネルギーを約90秒にもわたって消費し続けたマルタは、流石に疲労していた。


「はぁ……はぁっ………クソが……」


「私に本気出させたんだから、まだまだ付き合ってもらうわよ。天才と呼ばれたあんたみたいなのと戦えるチャンス、そうそうないんだからね」


皮肉にも蓮華のその言葉が、マルタが喪失していた自身のプライドを取り戻すきっかけになり、彼女の精神を持ち返した。


(そう、私は天才。生まれ持った才とそれを生かすセンス、劣らず重ねた努力、それがこんなところで貶されてたまるものかァッ!!)


それによって枯渇しかけていたマルタの魔力は一時的に膨張し、その怒りで地面を強く踏んづけるのと共に、蓮華に対する攻撃のための魔法陣を展開したのだった。


そこから沢山のクリスタルを含んだ水球が生まれ、2人の間にシャボン玉のようにふわふわと浮遊している。


「そうこなくちゃね」


「ほざけッ!」


(…これは幽敬水爆を元にした術式ね)


幽敬水爆は水の術式の中でも高位に位置し、危険な術式の1つでもある。


水球内部には高密度の魔力が巡っており、水球に物体が触れた瞬間、水球は魔力によって急激に縮小していき、その圧力で中に入ってきたものを潰したのちに圧縮されたエネルギーを周囲に発散する。


つまるところ爆発する。


見た目はまるで現代アートだが、フランベルジュの刃も相まって殺傷力が上がっている。


試しに1発遠い水球を撃ってみる。


すると予想通り水球は急激に周囲を巻き込みながら圧縮、爆発と同時にクリスタル状のフランベルジュの刃を辺りにばら撒き、加えて突き刺さった場所からさらに枝分かれして結晶が成長する。


その上誘爆してその範囲を広めていく。


マルタも不意には近づけないだろうし好都合だと思ったのも束の間、マルタはそんなことを気にする様子もなく肉体強化で突っ込んできた。


うっすらとだが、マルタに当たった水球がその体を流れるように滑っていったのが見えた。


魔力による識別機能を搭載しているらしい、殺傷力はあるが着弾率は高くないこんな術式にかなりのコストをかけている。


蓮華には無駄な事に思えたが、蓮華は失念していた。


自身が天才と呼んだその女の本当の実力を、なぜ彼女が天才と呼ばれているのかを。


「とっととくたばっとけば痛い目見ずに死ねたものをッ!!」


魔力を込めた一振りで真空の刃が空を切る。


「鎌鼬…!さっきから上級の術ばっか撃ってくるわね」


何属性も織り混ぜて、アーティファクトの形質変化も加えた上で実践レベルでここまで多彩な術式を使い分けられるのは本当に才能と言わざるを得ない。


既にアーティファクトと融合した魔術を使用している状態で、何属性も切り替えて魔術を使うなんて蓮華にだって真似できない。


しかも、彼女はそれを補助道具なしでやってのける。


鎌鼬ばかりに気を取られていると不意に飛んでくるフランベルジュがあたる、かといって、鎌鼬はそれを加味しても無視していられる術じゃない。


フランベルジュのスピードがどんどんと上がっていく。


「やっと本気出してくれた?」


地面に突き刺さったフランベルジュに足場を奪われないよう、かつフランベルジュにかけられた魔術を下手に誘発しないよう注意しながら避けていく。


少し距離が離れたとはいえ、漂う水球に視界と攻撃手段を奪われているため、なかなか攻勢に出れない。


「あなた如きに本気になんてありえないわ!あなたが私からどれだけ実力を引き出したとしても、私はさらにその先へゆく、決して100%に到達することはありえないのよ!」


言葉と同時に飛んできたフランベルジュを地面に叩き落とす、すると突然地面が砕けて、大きな水溜りに落ちる。


「ッ!?これは震地流麗!?」


震地流麗は土の術式で地面を削り、水の術式で水を流し込む事によって大地を液状化させる術。


(この戦闘の最中、こんなに深いものを…感心してる場合じゃない!次は何だ深底沈闇か!?)


「あなた次に来るのが深底沈闇だって思ってるでしょ、大正解よ。正解者にはご褒美もあげるわ」


幽敬水爆が蓮華の落ちた穴へと注ぐように飛んでいく。


「深きものの瞳を見よ、水面下の花は鉤爪に散り、昏き水底へ消えていった。照らす光もない一寸先の闇に怯え、もがけばもがくほど哀れむ心なく苦しみを与える。抗え、泣け喚け、深底沈闇」


マルタが水面に触れた途端、まるで体が石になったみたいに水に沈んでいく。


というよりは、水の質量が自分より軽くなって自分が浮いていられなくなったという表現の方が正しいのだろう。


近づきすぎる前に幽敬水爆を処理する。


爆発と共にあの曲がりくねった刃が幾多にも誘爆して飛んでくるが、なんとか銃撃で軌道を逸らす。


「炎を吹く異界の洞窟、破壊と再生を繰り返す岩人形、何度繰り返そうと一度壊れたものは決して一に戻ることはない、煙り、削れ、散り、霧散し、焼失する、達成されることのない目標に永遠囚われ続ける苦痛に悲観の涙を献滴せよ!!」


銃撃した一部の刃が再び砕け、塵炎蝶爆を警戒するが違う。


自身に降りかかったその煌く塵を少しだけ吸い込んだ瞬間、焼けるような酷い喉の痛みが即座に襲いかかってきて息を止めざるをえなくなった。


(これは粉塵焼夷かっ!?)


呼吸が止まり登っていく水面に抵抗できなくなる、それどころか呼吸のための空中ですら悍しく内臓を焼く地獄の瘴気と化してしまっている。


だんだんと薄れていく体内酸素濃度にまるで緊張感なく笑い、ただその時を待った。


(潜って好機を窺っても無駄、その粉塵焼夷と深地流麗の水にはシナジーを持たせてある。粉が水と反応すれば腐食性の高い猛毒に変化するわ)


徐々に水が赤い粉塵に犯されていく。


水面上に漂っていたほぼ全ての粉塵が水と混ざり合う頃、高らかに勝利に酔いしれ嘲るマルタ。


蓮華の墓標と言わんばかりに、剣状に姿を変えた大きなフランベルジュに似たクリスタルを、いまだ水面下で企みを続ける彼女に無駄な足掻きだと容赦なく突き立てる。


そうして再び、クロエと恭弥の元へ向き直った。


「さて、お弟子さんが亡くなってしまいましたけど、次は狂宮くんかしら?」


「………はぁ、あなた本当に学びませんね。気丈に志高くというのは素晴らしいですがね、それじゃあ僕の下につくのに合格点はあげられませんね」


恭弥が笑うと、油断していたマルタの足元から突然木の根が暴れるように成長を始める。


平静な境内の景観を壊してしまうほどの天変地異、蓮華の沈む水溜りの水を吸ってどんどんと大きくなっていく。


(そんな馬鹿なッ猛毒を吸って成長する植物なんて………)


成長スピードは凄まじく、あっという間にマルタを飲み込み大きな幹を形成する。


しれーっと、酸で焼けた表皮をじわじわと再生しながらゆっくりと穴から這い上がり、樹木に拘束されたマルタの前に立つ。


「なんで……っ!術式組成見破った程度であれば納得できるわ…こんな…」


「複雑だったからちょっと時間かかっちゃった。パターンを分析してちょっと抗体をつくっただけよ」


「なんであんたが…あんたごときがぁぁぁぁッ!!」


「ごときごときって私を見下してるからそうなるのよ、相手の足元ばっかり見て自分の足元すくわれてるようじゃとんだお笑い種だわ」


強気に睨みつけてはいるものの、彼女に抵抗する術はない。


今や戦況は蓮華に支配されたようなものだ。




ゆっくりと滲み寄る黒い影を身動き取れないままのマルタは見呆けていた。


宵闇の沈黙にただ真っ白な穴を開けたような蓮華の表情はどこか破滅的で、非道徳さえ感じさせる。


目と口だけが抜き取られた静謐を視界に落とし込んだかのようなそれは、あまりに異質であの焼けただれたような生皮の風呂敷にかき集めた邪悪をこぼしたような忌まわしき神を信仰するマルタにさえ、蓮華のその姿は悍しく感じられた。


「なによ………それ………いや…やめて、来ないでッ!!」


どうにもマルタの様子がおかしい。


目はまるで焦点が合ってないし、何かに怯えたように必死に目を逸らそうとしている。


それは蓮華が殺気を収めてからも終わる様子がなく、次第に慄きは憂いへと変化しやがては喜びへと行き着いたようだった。


「そうだったのね!!あなたこそが死霊秘宝が隠した宇宙の原罪なのね!!あははぁはーーーっ!」


浅い呼吸を繰り返し、髪を振り乱しながら、まるで人生の目標を全て成し遂げたかのような至福の表情で、彼女はやがて全身に入る力を少しずつ抜いていった。


恐怖に気が触れたマルタの最後を看取ることもせずに、その脳天に1発弾丸をくれてやる。


頭蓋骨の炸裂音が不快に耳にへばりつく。


当たり前みたいにもう1発、死に絶えたマルタの遺体に撃ち込んだ。


「………」


沈黙が戦場を支配する。


成長を続ける樹木がマルタの体を喰らい尽くすと、いつもの3人だけが残った。


水の混ざったベキベキという非道徳的な音だけが未だ蠢く木の中から悍ましく響いていた。


「ich habe gewonnen(イッヒハーベゲッウォネン)”勝ったな”」


「嘘…本当にあのマルタ・アンジェに…」


「さぁクロエさん、また、日常に…」


恭弥の言葉を遮って呆然としたクロエの方に勢いよく抱き着いた。


「私、変わった!」


その言葉にクロエは動揺をしてしまう。


「やっとあなたの隣にいられるようになれた!」


蓮華のその言葉の真意はクロエによくわかった。


なんたって、蓮華の努力を一番そばで見ていたのはクロエ本人だったのだから。


「ほんとにいいの…?私二人を裏切ったんだよ」


「いい」


「自分の幸せのために世界だって見捨てた」


「私だってそうする」


「僕も」


長い沈黙がクロエの嗚咽で埋まる。


「何の相談もしないで…間違えた選択をしたのに」


「ううん、クロエのおかげでこの瞳はやっと劣等のレッテルを剥がせた。それにクロエの選択は間違いじゃなかったよ」


「…え?」


「さっきマルタを殺したときに全部見えた。クロエがこのループの間にしてくれたことやその顛末」


(累積した因果から未来を演算視したのか…?ずいぶんと面白い能力を身に着けたものだ、まるで時空の王の”偏在”に匹敵する能力)


「クロエの作ったループで私が正光を倒す以外に平行世界線”マルチバース”に存在しない。だから間違いじゃない」


無数に分岐する世界線で正光が因果の外からやってきた場合、ループの中に閉じ込めた状態ですべての場合において蓮華が倒すことになっているというのだ。


「私たちは成すべくして成った。それぞれの信念に向けて、クロエはループを、恭弥君は犠牲を、私は蓄積を。当然確定した未来じゃない。でも中途半端な成熟でクロエのループが途切れる可能性だってあった。そうしてつぶれた世界線は数多くある。その中で私たちは完全に機会が成熟するタイミングまで進むことが出来た。だから、間違いじゃないよ!クロエの選択は」


もう何も言葉はない、謝罪や罪悪感など考えるだけ無駄だろう。


それは開き直りではなく、クロエは籠った殻から再び外界へと這い戻ることが出来たのだ。


それは新たな道だった。


「ありがとう蓮華。ありがとう恭弥君。倒そう、伊藤正光を」


異論はない。


この一歩が分岐世界線の最先端だ。


ここからは誰も知らない。


新たな明日が始まるのだ。

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約束のお守り アキタタクト @AkitaTakuto

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