Phase.32 "Brandnew Sky"

 すべてが終わった後の世界には、空が生まれていた。

 インバースの、流動性の高い肉に覆われてた床も、壁も、天井も。すべては取り払われ、半透明のガラスのような床を残し、あとは何も残っていない。辺りを包む暗闇の中に、ぼうっと光る立方体がいくつも浮かんでいて、月夜のごとく辺りを照らしていた。

 その世界の中央で、彼は、うずたかく積まれた瓦礫にもたれ掛かって、うなだれていた。頭に被っていた帽子はとうに吹き飛び、目まで覆うような長髪が姿を見せている。顔面に施されていた白塗りの化粧も、お面が壊れるように半分だけが取れ、彼の素顔を呈していた。怪人・ブルレスカではなく、研究員・尾形玉彦のそれへと。


「玉彦……おじさま……」


 絶人とキララは、完全に生気を失った尾形のもとに、ゆっくりと歩み寄った。尾形は手足をだらりと広げ、生気を失ってはいるが、かすかに肩が動く様子から意識はあることがわかる。


「やっぱり、キミもか」


 目線は上げないまま、尾形はかすかに口を開く。


「キララちゃんも、僕のことを否定するんだね」


 絞り出すような小さな声が聞こえる度、彼の体が少しずつ弱まっているのを感じられる。


「キララちゃんだけは、僕の研究をわかってくれるかと思っていたんだよ。だから、研究室に遊びに来たキミにインバース……あの頃は、ライトオーダーと呼んでたっけ。キミが、あの研究成果を見せたときのことを覚えていてくれて、僕は嬉しかった。だけどキミは、やはり寺嶋の娘……僕を否定した奴らの味方だったんだ」


 笑いが漏れた。絶人には、それが彼の自嘲だと気づくのに、時間が掛かった。


「僕を否定した世界に復讐をしようと思っても、再び否定される……僕みたいな奴にはお似合いの末路なのかもしれないね」


「父が生前、玉彦おじさまのことを悔いていたのは、決してウソではありません!」


「冗談言わないでよ。現に寺嶋先生はインバースを封印しようとしていたじゃないか」


「確かに、父はあなたの研究を否定しました! ですが、一度否定しただけで、すべてが終わったわけではありません。その後も、対話を重ねてあなたの研究を平和利用しても問題ないように、ともに考えることができれば、父とあなたはより良い情報社会を作れたかもしれない……そのことを悔いているのです!」


 キララは膝をつき、縋りつくように言う。だが、その言葉が届く前に、


「もう遅いさ」


 突如、世界を揺るがすような轟音が響いた。


「なっ……!?」


 辺りが激しい揺れに襲われるのを感じ、絶人は慌てて見渡す。そこでは、先ほどまで宙に浮かんでいた立方体たちが、次々と落下し始めているのが見えた。


「お、おい、なんかやばくない!?」


 慌てる絶人とは対照的に、尾形は変わらぬ様子で言う。


「インバースの制御を行うためのサーバーには、本来はスーパーコンピュータ並みのスペックが必要なんだ。このサーバーは、ビクトリア社の保有しているものの中でも高スペックなものを利用したんだけど……とてもじゃないけど、安定稼働には至らなかったみたいだね。まもなくこのサイバー空間は崩壊するだろう」


「なんですって……! ゼット、早く脱出しましょう! 今、サインアウトを……」


 キララは言いかけて、はたと動きを止める。今は、彼女が現実から絶人をナビゲートしているわけではないのだ。サインアウトアウトなんてできるはずがない。


「えーっと、できないですね、えへへ」


「いや、えへへじゃないよ!? 僕の方からログアウトする方法はないの!?」


「あ、それいいですね! 今度実装してみましょう」


「今度がないから今困ってるんだろうが! うわあ!?」


 ひときわ激しい揺れに襲われて、絶人とキララは尻餅をつく。すぐそこに、絶人の数倍はあろうかという高さのモノリスが落下していた。しかも床にめり込んだ分を考慮しないで彼の数倍だから、これが本来どのくらいの大きさなのか、想像もつかない。


「……ハア」


 尾形は一つため息をつく。そして、小さく指が鳴らされると、キララの足元に、水色の渦巻きのようなものが現れた。


「これ……!?」


 キララの体はその渦に少しずつ沈んでいき、その姿を隠していく。


「用意してるよ、脱出口くらい。出口は僕の研究室になっちゃうけどね」


「玉彦おじさま……あの……!」


「お礼なんて言わないでよ。キミたちは僕を否定した。僕を否定する世界で生きていく権利があるに決まっている。まあ、僕にはそんな世界で生きるつもりも、生きる権利もないけどね」


「……はい、ですわ」


 キララの声が消え入るように漏れたあとで、彼女の体は完全に渦に溶け去ったようだった。絶人もそれを確認して、「じゃあ次は僕たちだな」尾形の肩を持とうと、近づいて身を屈めた。


「……キミ、なにしてんの?」


「んー、ブルレスカ、あんた結構重いなあ、見た目によらず……って、え?」


「や、えじゃなくて。キミの分も脱出口を今出してやるから。さっさと僕から離れろよ」


「だからちゃんと脱出しようとしてるじゃん、あんたと一緒に」


「一人で行けって言ってるんだよ! 僕はもうあの世界で生きていくつもりはないんだ!」


 そういって振り払おうとする尾形に対して、絶人はがっちりと肩をつかんだまま、「あんたなあ。そんな身勝手、許されるわけないだろ」とあきれ気味に言い放った。


「だいたいさっきから黙って聞いてれば、否定しただのされただの……そんなの、次はもっとすごいもの見せてやるとか、話し合って一緒に考えてくとか、できることがいろいろあるでしょ。一度否定されたくらいで諦めちゃってどうするんだよ?」


 絶人はほとんど勢いに任せて、尾形を立ちあがらせる。


「そりゃまあ、こんだけのことをしでかして、みんなのことを危険な目に遭わせたことは許せないよ。ちゃんと反省して、罪を償わなきゃとは思うけど……だからこそ、今度は皆の役に立つことをしなきゃ! それが、あんたの責任だろ!?」


 そう、絶人はずっと考えていたのだ。インバースという、全世界を悲劇に陥れる力をもつほどのマルウェアを作れるなどというのは、それこそ絶人などには想像もつかないような天才でなければ不可能なことだろう。尾形がそれを悪用してしまうことは許されたことではないが、だからと言って彼をここで終わらせてしまうことは、社会のためにも惜しい。絶人はそう思っていた。社会のことなどにとんと興味がなかった絶人がそんなことを思うだなんて、少し滑稽だと自分でも思っていたのだが。


「……青臭い。だからガキは嫌いなんだ」


 尾形は憎まれ口をたたきながらも、抵抗の様子は見せない。絶人にはそれが、自分の言い分を認めたからなのか、単にもう抵抗する体力を残していないからなのかはわからなかったが、どちらにせよこれ幸いと彼に肩を貸して歩き始めた。

 だが、数歩も歩かないうちに、


「あ、あれ……うわあ!?」


 体勢を崩して倒れこんでしまった。


「あれ、おかしいな……こんな時に限って、力が入らないなんて……!?」絶人は力自分の体をうまく扱えず、ただ痙攣する足を撫でさするばかりだ。


「リソース不足だ」と尾形は吐き捨てる。


「僕を相手にあれだけ戦えば、たとえサイバー空間といえど体力の限界はある……無理をすれば、二度と現実世界に戻れなくなるぞ」


 尾形は語気を強めた。


「僕のことは気にせず、早く脱出しろ! さもなくばサーバーの熱暴走に巻き込まれて、お前たちも……!」


「いやだ!」絶人は思わず叫ぶ。


「僕はキララと約束したんだ。誰も犠牲にさせないって。それは、ブルレスカ、お前のことも入ってるんだよ」


「……っ!」


 ブルレスカが目を見開いた。そして一言、「この、馬鹿ヤロウが……」と、絶人に目を合わせずに吐き捨てる。その目は少し潤んでいるようにも見えた。

 そのとき、不意に絶人の視界に影が生まれた。


「……えっ?」


 見上げた一瞬、絶人は巨大な立方体が彼の頭上から勢いよく落ちてきているのに気づき、終わりを覚悟した。

 しかし、一瞬にして、彼の視界はさらに変化していた。何もない、まっさらの世界。


「……そうか。キミがゼットくんか」


「誰!?」


 不意に、背中の方なら声がして、絶人は慌てて振り向く。だが、その正体にすぐに思い当たって、絶人はさらに目を見開いた。


「キミのような子どもが、マルウェアバスターになってくれてよかった」


 低く、豊かな声。それは紛れもなく、キララの父、寺嶋陸男だった。


「き、キララのお父さん!? 鍵で貫かれて死んだんじゃ……!?」


 絶人が状況を飲み込めていないでいると、陸男は「うっはっは」と思いのほか明るく笑って、


「暗号化が解かれたとしても、何も私というAIが消えるわけではないさ。ただ、私の領域はどんどんインバースに食われていたから、正直危なかったがね」


「あ、そうだったんですね……」


 絶人はまるでただの世間話かのように返してしまい、結局そのあとが続かなかった。


「心配しなくていい。キミのことも、尾形君のことも、きちんと現実に送り届けるよ。……ただ一度、キミにお礼を言いたかった」


「え。僕に?」お礼を言われるようなことしたっけ、と絶人が聞き返すと、


「いくつも言いたいことがある。マルウェアバスターを使ってくれたこと。私の教え子の暴走を止めてくれたこと。世界を守ってくれたこと。そして、私の娘と一緒にいてくれたこと」


 そこまで言われて、絶人は慌てて手を大きく振り上げた。


「い、いや、待ってください! キララさんのことはですね、彼女が勝手に僕の家に来ただけで! 僕は何も……!」


 絶人が狼狽えると、陸男はまた、「うっはっは」と笑った。「細かいことはよくわからんが……あの子は難しい子だからな。きっと強引に事を運んで、大変だったろう」


「あ、いやそんなことは……」


 形の上だけ否定しながら、絶人は思う。なんだよ、この人結構話がわかるじゃないか。


「それに、キララのこと以外も、僕にお礼を言うことなんかないですよ」


「ほう……どうしてだい?」


「だって、僕はこの世界に生きる人間として、当然のことをしただけですから。この世界を守るのは、この世界に生きる僕の責任ですよ」


 絶人がそういうと、陸男はより一層嬉しそうに笑った。


「やはり、キミのような素直な子どもこそ、マルウェアバスターも、キララにもふさわしいな」


「ええっ!?」


 この展開はまずいぞ。親公認になっちゃったら、その、いろいろまずいじゃないか。


「……私のせいで、キララは暗い人生を送ることになってしまった。笑顔なく、ただこの不肖の弟子を恨む生活……幼いあの子には、耐え難かったろう。その元凶である私には、恨まれる覚えはあっても、父として慕われる資格などありはしない」


 しかし、とそこで言葉を切って、陸男は優しい笑顔で絶人を見た。


「キミのおかげだ。あの子のあんな屈託のない笑顔など、病床にいた私には見ることは叶わなかった。それを見せてもらえたお礼だけでもさせてくれ。……ありがとう」


 陸男はそう言って、深々と頭を垂れた。


「……えっと」


 絶人も言葉に詰まって、一瞬、頬の辺りを指で掻いた。

 この人がキララの父だと言うのなら、言いたいことが山ほどあった。あなたの作った発明のせいでとんでもない危険な目にあったとか、あなたの娘に突然同居させられて本当に迷惑だとか、あなたの弟子のせいで世界が支配されそうになったとか、言いたいことばかりだった。

 でも、絶人の頭にはそれは浮かばず「安心してください」という言葉だけが飛び出てきた。


「この世界は……IoT社会は、僕たちが守ります。他の誰でもない、この世界で暮らす僕たちの手で。またこれから、ブルレスカみたいな奴が現れても……僕たちが守りますから」


 はっきりと答える絶人。陸男は彼の目をまっすぐ見据えて、今度は柔らかに笑った。


「……やはり、キミのような子どもがマルウェアバスターで、よかった」


 一拍置いてキララの父は言う。


「世界と、キララのこと。これからも頼むよ」


 今思えば、すごいと思う。最期なのに、ほかの人の心配ができるなんて、さ。

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