第6話 決意の朝に

Phase.27 "in the Salt Sever"

 その空間は、キララにとって不気味という他ない場所に変貌していた。

 例えるなら生物の体内だろうか? 赤黒く、弾性のある地面は起伏を織り交ぜながら広がり、絶えず脈動している。しかしそれは無限に広がるのではなく、一つのある程度の広さで終わりを迎え、そして取り囲むように上へ伸び、四角い空間を形成している。その肉壁の一部に取り込まれるように拘束されたキララには、自分がさながら胃袋に吸収されていく食物のようにも感じられていた。あの、SALTサーバーが、こんな禍々しい空間に変貌してしまうだなんて。


「ああ。もうすぐだ……もうすぐお前と一つになれるよ」


 この胃袋の中心で、何重もの鎖に縛られた「それ」を見上げながら、恍惚とした表情で、尾形玉彦――いや、ブルレスカは語り掛ける。地面や壁と同様の肉塊であるそれに対して、先ほどから何事かを語り続けている彼の様子は、正気を失っているようでもあり、わが子を慈しむ父親のようでもあった。いずれにしても、キララの知るかつての彼の記憶とはかけ離れたものでしかなかった。


「今すぐ解放してやるからな」そう言うと、ブルレスカはおもむろにキララの方を向いた。


「……この女の命を持って!」


 その一瞬で、先ほどまでの穏やかな顔から一転、怒りをまとった表情がキララをにらみつける。滑稽なはずのピエロのペイントが、より不気味さを強調していた。


「玉彦おじさま。もうやめてください」


 キララは目の前の男に向かって極めて冷静に言った。ピエロにではない。その中にいる、いると信じたかった、かつての兄のような存在に語り掛けていた。


「あなたのしていることはただの犯罪、それも世界中の人を危険に晒す行為ですわ。今ならまだ引き返せます、だから――」


「黙れってんだよクソガキ!」


 ブルレスカが、細い棒きれのような足で何度も肉の床を叩く。その振動がキララの方にも伝わって、肉の壁が震えるのを感じた。


「ああ、本当ムカつくなあその顔。特にその目……お前の親父そっくりだよ。あのジジイ、あの日もそんな目でアタシを見て来やがった。畜生……!」


「あの日……?」


「……インバースを使った実証実験は、ビクトリア社に隠れていたおかげで順調すぎるほどにうまくいっていた。あとはこのSALTサーバーから、世界中のソルトにインバースをばらまくだけ、のはずだった」


 それまで興奮と怒りの入り混じった表情をしていたブルレスカは、一瞬、落ち込んだような表情で、眉毛をゆがませた。


「はずだったのに!」


 そしてまた一瞬で表情を怒りに引き戻して、ブルレスカは続ける。


「またしてもお前の親父にやられたんだよ……寺島キララ!」


「お、お父さまに!? いったいどういう……」


 キララは突如会話に登場した父の話題に、要領を覚えず戸惑う。尾形が去ってから、父は次第に体調を崩し、つい数か月前に亡くなるまでそのほとんどを病床で過ごしていたというのに。改めてこの男から恨みを買う理由が、彼女にはまるで分らなかった。


「すぐにわからせてやる」


 ブルレスカは怒りの表情を崩さないまま、空間の中央に鎮座する肉塊に向かって、左腕をまっすぐ突き出した。


「解凍(エクストラクト)!」


「いけない!」


 キララは思わず駆けだそうとして、全身に絡む肉壁にその動きを阻まれた。このままでは、世界がインバースに支配されてしまう。だが、意外にもブルレスカの操作は、非常に機械的なメッセージによって阻まれた。

≪Error! 権限がありません≫

 その表示は数秒後には霧散するように消え、続いて現れたのは、一人の人間の姿だった。


「……えっ?」


 現れた彼の姿に、キララは覚えず戸惑いの声を上げる。そこに立っていたのは、彼女の良く知る人物だったのだ。尾形ほどではないが、背が高く、すらりとした体形。本人は気にしていた小じわを差し引いても、精悍なその顔だち。


「また来たのか……尾形君」


 それは紛れもなく、キララの父・寺島陸男その人だった。数か月前に、病気で死んだはずの。


「お……お父さま!?」


「……!? キララ……お前、なぜここに」


 キララと同じように、目の前に現れた父もおしなべて戸惑いを隠せていない。だが、そんな親子の間に立って、「ハイハイそこまで。感動の親子の再会~とはいかないんスよね~、これが」と、ブルレスカはようやくこれまでの余裕ある表情を取り戻していた。クヒヒ、と意地悪く笑うその口元は歪に折れ曲がっている。


「貴様、今度は何を企んでいる!?」


 陸男が怒りをあらわにして、目の前のピエロに食って掛かる。よく見れば、その姿はブルレスカや自分のようなはっきりとしたものではなく、やや透明な、不安定なものだった。例えるなら、空気中に投影されたホログラムに近い。


「まあまあセンセ、そーんな怒んないでー、ンフフ。今お二人にはちゃーんと説明してあげますから。どーゆー状況な・の・か」


 ブルレスカは釣り上げるように、一層、口元をゆがませる。そしてまず、くるりとキララの方に向き直って、「二か月前。キミの親父さんが死ぬ少し前だねえ。どうやって突き止めたかわからないけどね、コイツ、アタシの会社の、アタシの研究室に来やがったんだよ」


「お父さまが!? そんな、もうベッドから起き上がれないくらいだったのに……」


「ねー。アタシにもすごく辛そうに見えたんだけど、人の執念ってすごいよネ。来ちゃうんだもん。そんで、なんて言ったと思う? 『インバースの研究を今すぐやめろ。それはサイバー空間を戦場にする、恐ろしい研究だ』だよ!? コイツ、ギャグセンスありすぎだよね!? 何年も前と、まったく同じセリフなんだもん! これが天丼ってヤツかって思ってさ、アタシちょっと感心しちゃったんだぜ!」


 ブルレスカは完全にキララの父のことを馬鹿にした様子で楽しそうに語りながら、彼の方をちらりと見る。醜悪なピエロの向こうでは、父が直立したままうつむき、じっと責め苦に耐えているように見えた。


「まあ当然、何言ってんだこのジジイとか思って警備員呼んで追い出したんだけどさ。ちょっと甘く見てたみたいだよ」


 そこでブルレスカは顔を再び怒りに燃えるそれに変え、父の方をにらみつけた。


「まさかアタシが目を離した一瞬に、USBメモリを差し込んで……そこからランサムウェアを送り込んでいただなんて!」


 ブルレスカはいつの間にか片手に自分の背丈ほどの杖を持っていた。そしてそれを振りかぶり、一瞬の躊躇もなく、陸男に向けて投げつけた。


「やめて!」


 虚を突かれたキララが叫ぶ。その声も虚しく、杖は寸分も違わず陸男の体の中心を捉え――


「……えっ?」


 ――その勢いを、そっくりそのまま反転させたように弾いて、杖は肉の床に転がり落ちた。

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