Phase.26 "Throw his Hand"
明日の朝また来るからと言って、両親はそのうち引き上げていった。ベッド横のデジタル時計を見れば、時刻は十九時。確かに面会可能な時間もそろそろ終わるころだ。窓辺から差し込む光も薄くなり、次第に街灯の不気味な白だけになってくる。絶人があの研究所でのことはもう頭に浮かべないことにして「病院のご飯ってどんなのだろう」なんてことを無理やり考えようとしていたとき、病室の扉の方から、「ゼットくん、いる?」と囁くような声が聞こえた。
その声の正体に思い当たった絶人は慌てて上体を起こし「ナナミちゃん?」と声のする方に問いかける。
「ごめんね、こんな時間に来ちゃって」
そう言いながらベッドの方に近づいてきた彼女は、普段とは少し違う姿だった。
ふだんはポニーテールに結ばれている髪を束ねるものはなく、まっすぐに肩のあたりまで伸びている。透き通った黒髪は少し水分を含んでいるようにも見えた。ブレザーの制服しか見たことのない首の下は、ランニングに使うようなピンク色のゆったりとしたウェアにジャージの短パン、レギンス、そしてスニーカーだ。ウェア以外もさし色にピンクが入っていて、彼女はピンク色が好きなんだな、と絶人は思った。
「あ、いや……大丈夫」
夜の病室で、普段と装いの違うナナミと二人きり。そんな、今までの自分だったら胸躍ったようなシチュエーションも、なぜか今の絶人の心にはあまり響いていなかった。
だが、一瞬の間の後、慌てて尋ねる。
「って、大丈夫だった!?」
ナナミが、父によって絶人とともに助けられたのは聞いていた。ただ、父からは「心配ない」とばかり聞かされていたし、すぐ家に帰ったとも聞いていたので、こんなにすぐ会うことになるとは思っていなかった。
「うん。ありがとう。私は全然平気。ちょっと体がだるかったんだけど、それも少し休んだら治ったし……ねえ、そこ座っていい?」
ナナミがベットの足元の方を指して言うので、絶人は「う、うん」と少し緊張しながら伸ばした足をずらした。
「ありがとう」
ナナミは行儀よく、先ほどまで絶人の足のあったところにお尻を乗せた。そのあと、しばらく沈黙が続いて、ナナミはもう一度「ありがとう」と言った。
「えっ?」
「あの変なピエロみたいなのにさらわれた私のこと、助けてくれたの。ゼットくんなんでしょ。本当、ありがとう」
ナナミがまっすぐ絶人の方を見て言うので、絶人は思わず目を逸らしてしまった。恥ずかしかったわけではない。
「……違うよ」
自分には、そんなことを言ってもらう資格がないと思ったのだ。
「僕は結局あいつにに勝てなかった。キララはあいつにさらわれたままだし。ナナミちゃんのことだって、助けられたのは父さんがいたからで……僕は何にもできなかったんだ。だから、ナナミちゃんのことを助けたのは僕じゃない」
絶人はうつむいたまま、ナナミの表情を目の端ですらとらえないようにしてまくしたてた。
またしても少し間があって「じゃ水やり係のときは?」と尋ねるので、絶人が思わず彼女の方を見ると、「やっぱり。あれはゼットくんだったのね」とナナミは少しだけはにかんだ。
「それは……」
絶人はばつが悪くなって、また布団へと視線を落とす。
「あの時はゼットくんが助けてくれた。それは本当だよね?」
「それは確かにそうだけど。あの時は、キララに全部サポートしてもらったから、できたんだ。僕一人じゃ、ナナミちゃんのことを助けるなんて、絶対できなかった」
だから、お礼なんて言わないでくれ。そうまでは口に出せず、絶人は視線を落としたまま押し黙ることしかできなかった。
しばらくして、「……私、寺嶋さんに救われたの。二回も」とナナミが切り出したので、またしても絶人は彼女の顔を見た。だが、対照的に、ナナミは絶人の顔を見ないまま続ける。
「一度目は、ソルトくんの案内が終わった後。私、ああいうロボットとか少し苦手で……すごく気分が悪くなってたの。でも寺嶋さんが、私がトイレに行きやすいようにしむけてくれて……あのままだったら、ゼットくんや皆の前でもどしちゃうかもしれなかった」
「ああ、あのとき……」
絶人は、そういえば、と思い出す。なんだかずいぶん二人とも不自然な風にふるまっていた気がしていたが、あれはそういうことだったのか、とようやく納得できたような気分だった。
「二回目は、あの変なピエロ……ブルレスカ、だっけ? に、さらわれたとき。あのピエロ、寺嶋さんを呼び寄せるのが目的だったみたいだから、寺嶋さんが来た時点でもう私のことは殺すつもりだったみたい」
「そんな……!?」
絶人は、まるでドラマの中のような出来事が起こっていたことに驚きを隠せない。それだけではなく、その出来事をまるで変わらない表情で、淡々と述べるナナミにも驚いていた。
「でも寺嶋さん、『木下さんを殺すなら、私も今ここで命を絶つ』って啖呵を切って。……それで、一応ブルレスカは私のことも殺さないでおいてくれたみたい。まあ、代わりに気絶させられちゃったんだけどね」
「……そんなことがあったんだ」
殺すとか、命を絶つとか、物騒なことばかり言う割に、ナナミの言葉は明るい。だがそれが余計に、自分たちがとんでもない戦いの場所にいたのだということを否応なしに絶人に突き付けているかのように思えた。
「ねえ、ゼットくん」
ナナミは今度こそ絶人の顔をまっすぐ見据えた。目には、涙を溜めている。
「私、これだけゼットくんにも、寺嶋さんにも助けてもらったのに……何もお返しできない。寺嶋さんのこと助けてあげられないの。だって、私は……ゼットくんみたいに戦えないから」
「……僕は」
違うんだ、と言いかけて絶人の口からは何も出てこなかった。何を否定しようとしたのか、自分でもわからない。
「お願い。ゼットくんなら、もう一度あそこへ行って、寺嶋さんを助けてあげられるんでしょ!? 私、まだ寺嶋さんにお礼も言えてないの。寺嶋さんを助けてあげて……!」
ナナミは絶人の腕を掴み、泣き叫ぶように懇願する。
「……できないよ!」
だが、絶人は、またしても叫んでいた。
「ナナミちゃんは気を失っていたからわからないかもしれないけど、僕はブルレスカに何もできずに負けたんだ。こうして生きてるのだって、父さんに助けてもらったからで……こんな僕に、キララを助けに行く力も、資格もないよ」
「資格? 資格って、なに?」
ナナミが問いかける。瞼に溜まった滴が一つ、頬に零れ落ちた。
「寺嶋さんを助けるのに、どんな資格が必要なの? ただ、『助けたい』ってそれだけじゃダメなの? ……ゼットくんは、寺嶋さんのことを助けたくないの!?」
「でも、僕には何の覚悟もなくて、何の知識もなくて」
「覚悟がないなら、これからすればいいじゃない。知識がないなら、これから身に着ければいいじゃない!」
不意に、キララは背負っていたリュックサックから、一冊の分厚い本を取り出した。シンプルな装丁なのに、やたらと重たそうに見えるそれは、絶人がなんとなく自分の通学鞄に入れながら、一度も開いたことのなかったマルウェアバスターのマニュアルに他ならなかった。
「それ……! どうして!?」
「ごめんね。前にゼットくんが落としたのを拾って……ずっと返しそびれてたの」
そういえば、ある日からずいぶん鞄が軽いと思っていた。ナナミからそれを受け取ると、ずっしりとした重みが両手に響く。いったい何ページあるんだろう、と思いながらパラパラとめくった絶人の目に、あるページが目に入った。
「……!」
その瞬間、絶人の意識は、百八十度変わっていた。
『荻久保絶人さま。あなたがなるべく早くこのメッセージを見てくださることを望みます』
それは、白魚が躍るような流麗な筆跡。間違いなく、キララのそれだ。絶人は戸惑いながらも、思わず、その先を読み進めてしまった。
『あなたには、本当に申し訳なく思っています。何も知らない、ただの子供であるあなたが、命を懸けた戦いに身を投じる。それがどんなに辛いことか、どんなに大変なことか……おそらくまだお分かりにならないと思います。でも、だからこそ。セキュリティに神がいるとしたら、あなたのような人だからこそマルウェアバスターに選ばれたのかもしれない。これまで、発達した科学技術の恩恵を受けるだけだったあなたが、唯一恩返しをする方法、それが、戦うことなのかもしれない。私は最近そう思うのです。なんて上から目線なこと、とても口ではあなたに言えませんので、こうして手紙にしたためました』
この辺りから、文字は震えだしていた。
『そこに神の意志があるかどうか、本当のところはわかりません。しかし、あなたは力を手に入れました。とすれば、あなたは戦うしかありません。大いなる力には、大いなる責任……あなたにはもはや、それを行使する義務があるのです。あ、今勝手だなって思ったでしょう?』
いつもと変わらぬ調子で呼びかける彼女の言葉は、絶人の心により深く食い込む。
『ただ、一つだけ。あなたに、してほしい覚悟があります』
そうか、このために命を懸ける覚悟だな、と絶人は思った。だが、次に彼の目に映ったのは、それとはまったく別の、意外とも言える一言だった。
『それは、決して死なない覚悟です。このIoT社会を守るためあなたが犠牲になれば、IoT社会は犠牲なしには成り立たないということになってしまう。IoT社会は、人々を幸せにするためのもの。その人々の中には、もちろんあなたも入っています。誰かを守るとともに、決してあなた自身も無事に、これからも技術の恩恵を受け続けることを約束してください。あなたが一人のIoT社会に生きる人間として、責任を果たしてくださることを願っています』
絶人はそこまで読んで、初めてキララのあの言葉の真意を悟った。「ゼットさんはすでに、十分責任を果たしているように思いますわ」それは、マルウェアバスターという力を持つものとしての責任、つまり戦うことを果たしている、という意味だったのだ。
それならば、と絶人の行動はもう決まっていた。知識も、覚悟も身に着けて、責任を果たす。それだけだ。
「ナナミちゃん。ごめん。今日はもう帰ってもらってもいいかな」
絶人は手元の冊子から目線を離さないまま、静かに言い放つ。
「僕、明日に備えなくっちゃ」
そう言った絶人の目が、再び燃え上がったのがわかったのだろう。
「……うんっ!」
ナナミは深く、確かめるようにうなずいた。
◇ ◇ ◇
次の日の絶人の病室には、朝から両親とナナミが訪れていた。父の雪和が、キララのノートPCを立ち上げ、言う。
「マルウェアバスターを起動したら、すぐバックドアからSALTサーバーに転送されるようにしてある。……本当に、いいんだな?」
雪和が、ぼさぼさな頭をかきむしりながら尋ねる。絶人は迷わず返した。
「うん。朝からいろいろ準備してくれてありがとうね、父さん」
「ははは。いいってことよ。絶人から素直なお礼なんて、何年ぶりに聞いたかな」
父が皮肉っぽく笑うので、絶人もつられて笑った。絶人は不思議だった。以前だったら父の笑い声だなんて不快以外の何物でもなかったが、今はそれほど悪い気持ちはしなかった。
次に、絶人は振り向いて、心配そうにこちらを見つめる母とナナミを交互に見た。
「二人とも、そんな顔しないで。僕、絶対にキララを連れて戻ってくるから」
「ぜっくん……!」
絶人の母は泣きそうな顔を必死でこらえている。それを見ながらも、絶人は前述のようなセリフがスラスラと口から出てきたことにも、やはり不思議に感じていた。絶人は確かにキララの言うとおり、自分が死なないことを覚悟していた。だが、それは科学技術に犠牲がどうとか、そんな献身的な理由なんかじゃない。絶人にはその理由が今ははっきりとわかっていた。家族がいるから。友達がいるから。戻ってこようと思える。そして、彼らを守りたいと思える。
自分はそのために、戦うんだ。
「ゼットくん!」
ナナミがふいに、彼を呼んだ。
「……行ってらっしゃい!」
絶人はそれに返事をせず、一つだけ頷いて、スマートフォンのそのアプリを起動した。相変わらず画面に鎮座するそのアイコンも、もうずいぶんホーム画面に馴染んだような気がした。
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