Phase.23 "The Two Justices"
「『ライトオーダー』に関する研究は順調そのものですよ。ちょっと待ってください、今データをお見せしますから」
結局、キララは二人の「大事なお仕事の話」とやらが気になって、父の居室の扉の前まで来ていた。膝を固い床に着け、息を殺す。キララは父の居室には何度も入ったことがある。八畳間くらいの広さはあるのだが、両壁がびっしりと本の詰まった本棚に挟まれているし、小さな打ち合わせ用意のテーブルやら、ホワイトボードなども置かれているので、体感的な広さは猫の額ほどしかない。だから、扉に耳を当ててそばだてれば、中で話されている会話は大抵聞こえてしまうことも、父には内緒だがキララにとっては常識と言っても過言ではなかった。
「尾形君。君はまだそれを続けていたのか」
部屋の中から聞こえる父の声は、尾形のそれとは違い、明らかに苦々しい思いが込められている。しかし、尾形はそのことに気が付いていないのか、気づかないふりをしているのか、「まだ? おかしいですね、これは今度の学会でも発表する、私のメインテーマだとご説明したかと思うのですが」あくまで明るい語調を崩していなかった。
だが、続けて聞こえた父の声で、キララはこれまでのギスギスとした雰囲気の原因を悟った。
「言ったはずだ。その研究は中止だと」
父の豊かな声が、険しく、硬いものに変わる。尾形の声は答えない。息のつく音がなくなって、尾形が何かを考えているようにキララには感じられた。その間にも、父の声が続く。
「『ライトオーダー』は危険だ。まだ研究が進んでいないうちに凍結する。これがNISC――日本サイバーセキュリティセンターからの通告なんだ」
重苦しい声が部屋の床に沈んで、再び沈黙が訪れる。尾形の声は、まだ聞こえない。
「尾形君、君はこれから私の進めている『マルウェアバスター』のプロジェクトに合流してくれ。居室や資材も新しいものをなんでも用意する。君が今まで使っていたサーバーなどはこちらで業者を委託して処分を」
「納得できません!」
突然、拳を何かに打ちつける鈍い音と共に、尾形の激昂が響いた。
「あの研究が危険ですって!? ライトオーダーは世界のあらゆるサイバー攻撃に対抗するためのもの! 今はまだ研究段階ですが、いずれは企業とも協力して実証実験を……!」
声を荒げて反論する尾形の勢いに驚いて、キララは思わず耳を扉から離してしまう。だがすぐに体ごと張り付いて、二人の舌戦に再び注目しようとした。自分の胸の鼓動に混じって、「だから今の段階でと言っているんだ!」今度は荒げられた父の方の声が聞こえた。
「わからないのか! すでにAIを用いたサイバー攻撃が世界中で報告されている! そこで君のAIを使ったサイバー攻撃対策が広まってみろ! 世界中のネットワークはAI同士の戦争の場になってしまう! 君は先人たちが作り上げてきた世界を焼け野原にしようというのか!」
「そんな……それは使い手の問題です! AI同士だろうが、AIと人間だろうが、サイバー空間がもはや戦いの場になることは避けられないことです! それなら、人間がその身を危険に晒す寺嶋教授の研究の方が、よほど危険を孕んでいるはずです!」
「私の研究のコンセプトは、人間自身が自分の作ったものに責任を持つことなんだ。敵が人間だろうと、AIだろうと、人間が自分の身を危険に晒して立ち向かう。だからこそ、科学の発展がもたらす利益だけではなく、負の側面も理解することができる……なぜそれがわからん!」
二人の議論はもはや止まることがない。二人の言葉がみるみるうちに勢いを増していっても、キララにはもはや息を潜める以外に何もできることはなかった。キララの父、陸男の声はついに怒鳴りつけるほどの激しさになっていた。
「AIを使った代理戦争は、私たちという主体の存在を曖昧にする! いずれサイバー空間での戦いは我々がコントロールできるレベルを超え、進化し続け……やがては現実世界をも襲い始めるだろう! そうなったら、世界は終わりだ!」
「AIに対抗するにはAIで対抗するしかない! 我々人間がそれをコントロールできるか否かというだけです!」
「それができないと言っているのだバカ者が!」
二人の言い争いはそれからもしばらく続いた。キララは完全にその場を離れるタイミングを失って、二人の大人が怒りをぶつけ合う様に恐怖を感じながらも、屈んだ姿勢から動き出すことができなかった。
やがて、もう一度、拳が何かにぶつかる音がした。
「もうたくさんです!」
尾形の声が言い放たれると、布の擦れる音が壁を伝ってキララの耳に入る。尾形が立ち上がったらしい。
「寺嶋先生の仰りたいことはよくわかりました。私とあなたの考えは相容れないようですね」
「どこへ行く、尾形君!」
「決まっているでしょう? あなたの下を去り、私の研究を認めてくれる人の下へ行くんですよ。今までお世話になりました」
「バカを言うな! 学会も同じ考えだ! 今更受け入れてくれる場所などどこにもないぞ!」
「そうですか。なら独自に研究を続けるまでです!」
不意に扉の向こうに人の気配がして、キララはその場から飛び退く。
その一瞬の後、勢いよく扉が開いた。うつむいたまま走り去る、尾形の背中が見える。
「……何故わからないのだ」
あとに残ったのは、父の嘆きの声と、へたり込むキララだけだった。
次の日から、尾形は姿を消した。研究室のサーバーから、一切の『ライトオーダー』の研究成果を消し去って。
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