第5話 『玉彦おじさん』
Phase.22 "Past Memories"
「キララちゃんと遊ぶとつまんない」
幼い彼女が同年代の友だちから告げられる言葉の多くはこのようなものであった。
「IoTの父」と呼ばれる科学者を父に持つ彼女は、幼い頃から天才的な頭脳を持つ、周囲から見れば異質な存在だったようだ。
「おままごと? それは何が楽しいことなのですか?」
「なぜいつもお父さんが働いていて、お母さんは家にいるのですか?」
「なぜいつも子どもは一人なのですか? なぜこの家にはペットはいないのですか?」
幼いキララには、あらゆることに純粋に疑問を呈してしまう。おままごとがやりたくないわけではない。ただ、暗黙の了解として常に設定されている事柄の根拠を知りたかっただけだ。だが、それらの疑問を浴びせられた友だちは、決まって眉間にしわを寄せた。
「キララちゃんと遊ぶとつまんない」
それだけ言うと、彼女一人を残してどこかへと消えてしまう。今にして思えば、それは友だちではなかったのかもしれなかった。この言葉を言われた日、キララには決まって父の研究室へ足を運ぶ。ここには、本当のキララの友だちがいたのだ。
鉄骨で形作られた、粗野なコンクリート・ジャングルだ。熱帯の樹林のように並ぶ、大小さまざまなディスプレイたち。椰子の木のように鎮座するサーバーのラック。ツタのように複雑に絡まったケーブルたち。幼い子どもが憧れるにはいささか武骨すぎるそのどれもが、キララの心を高鳴らせる。幼いキララにとって、まさにそこは魔法の空間だった。
その日も、退屈なボール遊びのルールに疑問を持ち、さらに男女間の肉体的な差も解消できるルールを提案したが受け入れてもらえなかった彼女は、一人、研究室の門戸を叩いていた。
「やあキララちゃん、また遊びに来たの?」
父の助手の一人である尾形玉彦は、いつもキララに気さくに話し掛けてくれた。そのひょろりとした体躯と、優しい笑顔を見て、キララも
「玉彦おじさま! こんにちは!」
と笑顔であいさつした。
尾形はキララの父の助手の中でももっとも在籍期間が長い存在で、父自身も彼のことを「私の右腕のような存在」と呼んでいた。幼いキララにはその正確な意味はわからないが、ふだんの態度からも、父が尾形を相当に信頼し、目をかけていることはわかった。「ガッカイ」やら「コーギ」やらで研究室を空けていることが多い父に代わってキララの相手をしてくれる、この尾形こそが、キララの本当の友だち――いや、兄のような存在だった。
その日、キララが目を付けたのは、尾形の目の前のディスプレイに映るものだった。
「なにこれ、気持ち悪いですわ!」
子どもならではの素直な感想だった。ディスプレイの中には、黒い背景にポリゴンの線で立体的に空間がマッピングされただけの原始的なサイバー空間が存在している。そこに、アメーバのような赤褐色の物体がうごめていたのだ。
「ひどいなあキララちゃん」
尾形は笑いながら答える。
「この子が将来、世界中のネットワークを悪い奴らから守ってくれるかもしれないのに」
頭の上に暖かい手が添えられて、キララは上を見上げる。穏やかな笑顔でディスプレイを見つめる尾形の顔が目に映った。それはまるで、自分の子どもを見つめるような優しい表情だ。
「だってこれ、なんかブヨブヨしてるし、のそのそ動いてるし……気持ち悪いですわ」
「あはは。それはね、悪いウイルスを探すためなんだよ」
笑いながら、尾形は膝を床に着き、目線をキララと同じにする。そして机に手を着いて「見てごらん」と画面を指さした。
「このばい菌みたいなアイコンが、ウイルスとかのサイバー攻撃を示してるんだ。少しずつこれに、ブヨブヨが近づいてってるだろう?」
尾形の言うとおり、ゆっくりとではあるが、ブヨブヨはいかにも意地の悪そうな顔をしたアイコンへと近づいていく。そののっそりとした様子がこれまた気持ち悪くて、キララは鳥肌が立つのを感じていた。
やがてブヨブヨがそのアイコンにたどり着いたとき、「あっ!」キララは思わず声を上げていた。瞬く間に、ブヨブヨがばい菌のアイコンを取り込んでしまったのだ。ブヨブヨの中に浮かぶばい菌は、苦しそうな顔をしながらどんどんその体を小さくしていき、ついに断末魔の悲鳴を上げることもなく、きれいさっぱり消え去ってしまった。
「ばい菌、やっつけちゃった!」
キララが嬉しそうに顔を紅潮させると、尾形も嬉しそうに笑った。
「やっつけちゃったね。じゃあ今度は、こっちのコンソールを見てみようか」
尾形は何やらマウスを操作して、画面上にまた別のウインドウを表示させる。そのウインドウには表の形式で、時刻や機器の名称、状態などが記載されている。マウスポインターで指し示された一番上の項目の「対処時刻」が、まさに今さっきの時刻であるのに気づいて、キララはまたも感嘆の声を上げた。
「おじさま、もしかしてこのブヨブヨ、本物のサイバー攻撃をやっつけてくれてるの!?」
「さすがキララちゃん! 大正解!」
尾形は大げさに手を叩いて、クイズ番組の司会のようにキララを称える。
「キララちゃんのお父さんが作ったサイバー空間……ネットワークを実際に目に見える形にした世界の中に、自分で判断してサイバー攻撃をやっつけてくれるプログラムを入れてみたんだ。すごいだろ?」
「うん! すごーい! 玉彦おじさま、天才!」
「ははは、だろう?」
今度はキララの方から、惜しみない賞賛の拍手が送られる。それを存分に受け取った後で、尾形はゆっくりと立ち上がり、西日の差し込む窓の方に目をやった。
「僕はねキララちゃん。絶対に平和な世界を作りたいんだ」
「……ぜったい?」
尾形の雰囲気が少しだけ変わったのを感じて、キララは聞き返した。尾形は考えを巡らせているからか、西日のまぶしさを感じてなのか、眉間にシワを寄せて目を細める。
「キララちゃんならわかると思うけど……今、ネットワークの世界では、いろんな悪い奴らがいるんだ。お金や情報をだまし取ろうとしたり、生活に必要な機械を壊そうとしたり……その中には、一歩間違えば人が死んじゃうかもしれない、危険なものもあるんだ」
「知ってますわ。だからお父さまは、新しい研究を始めてるんでしょ!?」
キララは確かめるように尾形に尋ねた。先ごろIoT社会への大きな貢献で話題になった父が、新しい研究を進めているのはキララも知っていた。そしてそれは、人間がサイバー空間に入っていき、直接戦う研究だということも。父親の新しい研究に、キララの胸が高鳴らないわけがなかった。だが、嬉しそうに父の研究を語るキララの問いに、尾形はかぶりを振った。
「僕はね、申し訳ないけど……キララちゃんのお父さんの研究……『マルウェアバスター』では、絶対の平和は無理だと思ってる」
「えっ!? どうしてですの?」
キララは複雑な思いで聞き返していた。キララにとって、父の発明を疑うなどということは考えたこともなかったからだ。ただし、それが同年代の子どものたわごとなどであれば一笑に付せたところだったが、他ならぬ尾形の弁となれば、おいそれと看過することもできなかった。
「マルウェアバスターはあくまで、人間が自分の手を汚して対処するものなんだよ」
言いながら尾形はまた屈み、今度はキララの両肩に手を添えた。細く節くれだった長い指だ。
「いいかいキララちゃん。人間がやることには、必ず間違いが生まれるんだ。それは、わざとじゃないミスかもしれない。それとも、悪い奴が何かを企んでやるのかもしれない。でも、どっちだとしても完璧にはほど遠い……『絶対』の平和なんてできるはずもない」
キララを掴む手に力が籠められる。それは、肩甲骨を穿つほどの強さでキララを拘束していった。なおも尾形は、まっすぐキララの方を見据えて続けた。
「でもこのブヨブヨ……『ライトオーダー』は違う。コンピュータが制御するから、ミスしないし悪いことを考えたりもしない。AI……っていって自分で考えたり学習したりできるから、時代や技術の変化にも着いていくことができる。これなら絶対の平和が得られると思わないかい? キララちゃん」
「えっと、あの」
尾形の三白眼が、まるで獲物を見る蛇の目のようにキララをとらえるので、キララは一瞬戸惑った。こんな風に高圧的に同意を求めてくる尾形は初めてだった。いつもの尾形なら、自分の意見を押し付けることはなく、きちんとキララの意見を聞きつつ話をしてくれていた。
「ごめんごめん、キララちゃんにはまだわからないよね」
キララが明らかに戸惑っている様子を見たからか、尾形は思い出したように、見開いていた眼をまたいつもどおりに戻す。
「このところ、キララちゃんのお父さんからこの研究について意見を言われていてね……大丈夫。いずれわかるよ。キララちゃんがもう少し大きくなるころには、世間が証明してくれるはずさ。……僕の正しさを」
尾形は自分に言い聞かせるように言って、目をつぶる。そしてゆっくりとキララの肩から手を離すと、ディスプレイの前のオフィスチェアに腰かけた。
「…………」
キララは何も言えず、尾形も何も言わないので、しばらく呆然としてその場に立ち尽くしていた。本人にはその自覚はないが、キララは聡明な少女である。そのキララでも、尾形の話す言葉は難しく、その正しさについて考える力を持っていなかった。
そのとき、扉が開く物音がした。
「尾形君、いるかね」
「お父さま!」
果たして部屋へ入ってきたのは、キララの父、寺嶋陸男だった。「お帰りなさい!」とキララが抱きつくと、「ああ、ただいま」と返すが、その様子は少しいつもと違っていて、キララまたも見上げた。父は「最近増えた」と自分で語っていた顔のしわをゆがませて、少し虫の居所が悪そうな顔で尾形の方を見ている。娘のキララから見たひいき目というのはあるかもしれないが、父はかっこいいと思う。ひょろりとした長身の尾形に比べれば低いが、背も高く、はっきりとした顔だちはほかの男性にはない貫禄のようなものを伴っていると思う。
ただ、今日のように、機嫌が悪いときの父は少しだけ苦手だった。
「いつも娘の相手をさせてしまってすまないな」
父はキララの頭を数度撫でただけで、意識は完全に尾形に向いているようだった。いつもは必ず「尾形君とどんな話をしてたんだい?」と聞いてくれるのに。
「いえ。キララちゃんはとても頭が良くて、こちらこそいつも楽しくお話しさせてもらってますよ。これなら、お父さんみたいな立派な科学者になる日もそう遠くないね」
後半、キララに向けて語り掛けて、尾形は小さくウインクした。その様子がいつもの尾形そのもののように見えたので、キララは少しだけ安どして、「本当!? 私もお父さまみたいになれる!?」と、尾形と父の両方に尋ねた。
「ああ。きちんと勉強すれば、きっと父さんみたいになれるよ」
今度は陸男が言った。低く、よく響く豊かな声だった。その様子がやはりいつもの優しい調子だったので、キララは今度こそ本当に安心して「えへへ」とはにかむ。
だが、それが続いたのはほんの一瞬だけだった。陸男はそのあとすぐ尾形の方に向き直って、「ところで尾形君」優しかった語調を少しだけ尖らせた。
「少し話があるのだが、今から私の居室に来てくれるか」
「……わかりました」
少しの間があったように見えたが、尾形が意を決したようにうなずき、二人はそのまま部屋を出ていこうとしていた。キララが無意識に着いていこうとすると、父の陸男が足を止める。
「キララ。これからするのは大事なお仕事の話なんだ。それが終わったら父さん、仕事終わりだから。お前はここで待っていなさい」
いつになく真に迫った父親の顔に、いつもなら駄々をこねるキララもおとなしく足を止めざるを得なかった。父は真面目な人物だが、このような厳しい表情をいつもしているわけではなかった。だから、キララも思わず素直に従ってしまっていた。そうして二人が出て行って、静かになった研究室で、閉まったままの扉をキララはしばらくぼうっと見つめ続けていた。
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