Phase.19 "Uncanny Valley"

「はあ……助かった」


 女子トイレの洗面所で手を洗いながら、ナナミは深く安どの息をついた。


 「不気味の谷」という言葉がある。

 人間を模した像などについて、ふつうはその姿が人間に近づけば近づくほどに、好感や親しみといった感情は上昇していく。だが、人間との類似度が高くなったある地点まで来ると、途端にその好感や親しみと言った感情は消えうせ、反対に嫌悪感や薄気味悪さを感じてしまう。そのグラフの動きがまるで谷のようであるので、不気味の谷と呼ばれるのだ。

 自分の場合、その不気味の谷の範囲が広く、そしてあまりに深いのではないかとナナミは思っていた。ソルトのことを見て、「人間に近すぎて逆に気味が悪い」などと思う人はいない。実際、同級生の中にもそのような人はほかにいなかった。これが、自分だけのことらしいということに気づいたのは、物心ついてすぐのことだ。


「それにしても――」


 ひどい顔、と鏡に映った自分を見て思う。落ちくぼんだ目に、こけた頬はまるで数日間何も食べていないかのように思えた。もう、胃の中は空っぽになるくらいに吐いた。もともと今日は食欲がなく、朝食もシリアルに少し口をつけた程度だったが、それもすべて下水道に流してしまった。食欲がなかったのは、やはりあの二人、荻久保絶人と寺嶋キララのせいなのだろうか――と、ナナミは一週間前からの自分を不思議に思っていた。いや、そもそもを言えば、温室で絶人と当番をこなしたあの日から、やはり変だったのかもしれない。


 あの日、ナナミには正確な記憶がない。妙に温室内が暑かったような気はするが、彼女自身もいつの間にか眠ってしまったらしかった。

 その夢の中で、不思議なもの――まるでヒーローのように自分を助けてくれる、絶人の姿を見てから、ナナミには、それまでクラスメイトの一人でしかないと思っていた彼が、自分にとって特別な存在のように見えてしまって仕方がなかった。

 そして、それと呼応するかのように現れた寺嶋キララの存在が、絶人を余計に遠くへやってしまったかのような気がしていた。だから、絶人を彼女にはやらないと言わんばかりに、大人げない態度をとってしまっていた。


(……けど、寺嶋さんに助けられちゃった)


 絶人の前で、胃の中身をその場にぶちまけそうだったナナミに対して、彼女は絶人をその場から引きはがし、一人でトイレに行きやすくしてくれた。そうでなければ、ナナミは二度とお嫁にも行けないような思いでこの遠足を終えることになっていただろう。

 戻ったら、ちゃんとお礼を言おう。

 そして、二人の関係の、本当のところを聞こう。二人が付き合っているなら祝福すればいいし、そうでないなら喜ばしいことだ。


(……あれ? なんで喜ばしいんだっけ?)


 自分でもよくわからない感情を抱えながら、ナナミは女子トイレを後にしようとしていた。


「ひゃあっ!?」


 そしてトイレの入り口にひっそりとたたずむ人影を見て、悲鳴を上げてしまった。


「やあ、ワタクシはソルト」


 それは、先ほどまでナナミたちのことを案内してくれていた人型のロボットだった。つるりとした表面の光沢に女子トイレの暖色の光が反射して、黄金色に光っているように見えた。


「な、なんだ……ソルトくんか」


 ナナミは抜かしそうになった腰をなんとか正して、恐る恐る彼のことをよく観察する。先ほどまではもう見るのも嫌だったが、出すものもすべてなくなってしまった今にしてみれば、なんとか平静を保つことができていた。それでも、不気味なことには変わりはないが。


「さあ、このアプリをタッチして」


 ソルトは先ほどまで見せていたようなオーバーアクションはかけらも見せず、ただただ胸に構えるタブレット端末を指し示している。

 なんだか、さっきまでのソルトくんと違う。

 ナナミはそう考えながらも、タブレットへと促すその誘いを拒めなかった。


「えっと……これ?」


 ナナミはタブレット端末の中心に収まったアイコンを、恐る恐るタッチした。


「きゃあ――!」


 その瞬間、彼女の身体は光に包まれて、悲鳴とともに、ナナミの体はタブレットに吸い込まれるように消えていき、押し黙ったままのソルトと、静寂だけが残された。


◇ ◇ ◇


 セミナールームは、その名前から想像できるよりもずっと広い場所だ。

 扇形の部屋の中心の部分に大きな三面のスクリーンやら演台が用意されているのは当然として、そこから広がっていくように、真っ白な机と椅子が一体型に配備されている。案内板からの情報では、100人以上を収容できる場所らしかった。


「おい絶人、この椅子、机にくっついてるぞ! どうやって座るんだこれ!?」


 などと、先ほど展示場ではずっと蚊帳の外であったにもかかわらず、やたらとテンションの高い間宮のことは放っておいて、絶人とキララは隣り合って、端の方の席に座る。ややあって、演台右横の出入り口から、二人の人物が現れた。

 先んじて現れた絶人の父・雪和は、あとから現れた長身痩躯の男に、ゆっくりと合図した。


「じゃあ、頼んだぞ」


 呼ばれて、小さく顎を下げた男は、独特な雰囲気を放っていた。

 雪和も決して身長は低くないのだが、それと比べても頭半分程度は大きい。その代わりに、見ず知らずの絶人すら心配になってしまいそうな痩せぎすで、「大きい」というより「長い」という表現の方が適切に思えた。

 さらに、社会人としては珍しいであろう、肩のあたりまで伸びて目も半分くらい隠してしまいそうな黒い長髪と、白衣のコントラストがアンバランスな雰囲気に拍車をかけている。

 やがて演台の上にひょろりと飛び乗ると、男は、


「ええ……皆さん始めまして。ビクトリア社中央研究所へようこそ」


 ぼそぼそとした声をマイクに吹き込んだ。


「皆さんは、スマートフォンを持っていますか」


 それは、小さな問いかけだった。


「持っている人」


 ともう一度小さく言って、彼が片手を上げると、座席に座る全員が、ゆっくりと手を上げた。


「はい、ありがとうございます。では続いて……スマートフォンがどうしてタッチパネルで操作できるのか、知っている人」


 同様に彼は手を上げるが、今度は追従して手を上げるものはいなかった。それを確認して、男はゆっくりと手を下ろす。


「はい、結構。この質問を、皆さんのような中学生にすると、だいたい同じような結果になります。毎日のように使うスマートフォン。その使い方を熟知している方は多いかと思いますが、じゃあどうしてそれが動いているということには、皆さんあまり関心がない」


 研究員は悲しいでも嬉しいでもなく、ただ淡々と事実を述べるように話す。


「いえ……正確に言えば、関心がないのは『使う』以外のことなんですね」


(使う以外?)


 絶人は思わず心の中で反芻する。


「例えば、『守る』。またまた質問です。皆さんの中に、スマートフォンでセキュリティソフトをインストールしている人はいますか?」


 またしても問いかけるが、やはり反応はない。


「なぜでしょう。パソコンであれば、皆さんセキュリティソフトをインストールしていますよね。セキュリティソフトがなければすぐにサイバー攻撃の脅威に晒されてしまうというのは、スマートフォンでも同様のはずです。……このように、スマートフォンの便利さだけに注目してしまい、そこから生まれる脅威や、その影響には関心がない……そんな方は皆さんに限らず、大人にもいます。そして、そんな人たちがサイバー攻撃にあったり、個人情報を盗まれたりしたとき、なんと言うか知っていますか? ……『こんな物を作る奴が悪いんだ』。『こんな物さえなければ、こんな目に遭わなかったのに』。先ほどまで、ただその恩恵を甘受していただけの人が、被害に遭うと手のひらを返すのです。カッコ悪いと思いませんか?」


 今度の問いかけには、絶人も思わずうなずいた。


「便利な文明の利器を使う人なら、それを安全に使うための知識を持つことが、最低限の『責任』だと私は考えています。皆さんも今日はたくさんいろんなことを学んで、知識を身に着けてください。では、まずはこの研究所の紹介映像を見てもらいましょう」


 男が言うと、脇に立っていた雪和が代わりに壇上に現れ、男は一旦扉の向こうに姿を消す。


(……責任、か)


 父が壇上のパソコンを何かしら操作している間に、絶人は先ほど研究員の男が言っていた言葉について考えていた。

 絶人自身、かなりIoT機器を「使う」ことには自信があるのだが、それ以外の点について疎いのは確かだった。

 事実、キララの言うような専門用語は彼にはまったくと言っていいほどわからなかったし、男の言うとおり、スマートフォンにセキュリティソフトなどもインストールしていない。

 ただ、だからと言って、「責任」というほど重い言葉を持ち出されることにも違和感があった。「使う側」は「使う」から「使う側」なのであって、そのほかのことは「作る側」や「守る側」が考えればよいのではないか、とも思ってしまう。


「ねえ、今の話、キララはさ」


 どう思う、と話しかけようとしたとき、彼女が嫌に真剣な顔をしてうつむいていることにようやく気が付いた。


「……あの男……に似ているような……いやでもこんなところに……」


「キララ?」


「はいっ!? え、えっと、何か仰いましたか!?」


「さっきの研究員の人の話だよ。使う側の責任ってさ。そんなの僕、意識したことなくって」


 キララは絶人の言葉を聞いて、少しだけ目線を斜め上に伸ばす。

 だがすぐに戻してから、


「そうでしょうか?」


 と言った。


「ゼットさんはすでに、十分責任を果たしているように思いますわ」


「へっ? 僕が? それってどういう……」


 絶人がさらに問いかけようとしたとき、スクリーンの方から声が聞こえた。


『やっほー諸君!』


 人の神経を最大限まで逆なでしようとするそのやけに明るい声に聞き覚えがあって、絶人は慌ててスクリーンの方を見る。


『みんなのアイドル、ブルレスカさんだぞー』


 そこには、見覚えのあるピエロが映し出されていた。

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