Phase.8 "A GivenTemplate"

 布団のぬくもりというのは、世界で最も偉大なものの一つだと思う。

 六月、初夏というのは日中こそ日差しが照って真夏の様相を呈すことも多いが、朝晩はまだまだ涼しいことも多い。そんな日には絶人は厚手の毛布を引っ張り出して、頭までそれにかぶるというのが恒例のことになっていた。

 自分の身体がすっぽり何かに包まれているというのは、得も言われぬ安心感を生み出すものらしい。母親のお腹の中で羊水に包まれた胎児というのはひょっとしたらこういう気分なのかもしれない。


「……?」


 その至福のひと時を邪魔する、何かの感触がして、絶人にはうっすらとした意識がよみがえってきていた。そういえば、布団の中が妙に暖かい、というか暑い気がする。息づかいのようなものも聞こえてくる。


「まさか!?」


 慌てて絶人が掛け布団を開くと、


「すぅ」


 これ以上ないほど幸せそうな顔をした少女が、すぐ横で寝息を立てていた。

 まるで山から広大な河川が海へ流れるように、白い敷布団の上に長い黒髪が広がる。


「ううん。ぜっとさぁん……」


 その正体にすぐに思い当たり、次の瞬間には、


「うわあああああ!!」


 ベッドの上で、悲鳴にも近い叫び声を上げさせられる羽目になった。


「まったくゼットさんったら、恥ずかしがり屋さんなんですから」


 ダイニング。テーブルのめいめいにトーストと目玉焼きの乗った皿を運びながら、キララは語尾にハートマークでもつけているんじゃないかというほど鼻にかかった声で言う。

 皿からキララの細い指が離れたのを確かめて、絶人はすでに運ばれていたコーヒーに口をつけた。


「冗談じゃないよ。同じ部屋に寝るっていうだけだってあり得ないのに、人の布団に潜り込んでくるとか、ないでしょ」


 絶人はそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに返す。荻久保家の二階建ての家には来客用の部屋などいくらでもあるはずなのだが、そこに収まることを彼女はとにかく抵抗した。

 曰く、


「寝食を共にする、と申しましたでしょう?」


 とのことなのだが、キララが自分で勝手にそう言っただけのことに、何の強制力があるのかはさっぱりわからない。絶人にとっては自分の領域を犯されることと、せっかく青系で揃えた部屋の中を、無遠慮なピンク色のパジャマで荒らされることが特に我慢ならなかった。


「いいじゃねえかよ絶人。その年で女の子と一緒に寝るなんて体験、なかなかできるもんじゃないぞ。しかも、こんなかわいい子と」


 父の雪和が、テーブルと新聞を挟んだ向こう側から、また適当なフォローを入れる。


「朝も私が起こさなくてもすんなり起きてくれるようになったし。本当大助かりだわ」


 父の隣で、母の香澄も穏やかにコーヒーをすすっている。朝食はキララが担当するとのことで、香澄は特に何もすることなく、朝のひと時を満喫している。そういえば、母のこんな様子を見るのは久しぶりかもしれない。


「いつもちゃんと起きてるよ」


「何言ってるのよ、キララちゃんの前だからって強がって。いつも目覚まし時計じゃ起きれないから、私が起こしてあげてるのに」


「母さんが起こしにくるときには、もう起きてるんだよ。ただ布団から出れないだけで」


「ぜっくん、それはね、起きてるんじゃなくて、目が覚めてるって言うのよ」


 同じじゃないか、と反論しようとして、絶人は思いとどまった。これ以上続けても母の口に勝てる気はしなかったし、そんな様子をキララに見せるのもまた恥ずかしかった。くすくすと笑いながら、キララが、


「みなさん本当に仲良しで。朝食からこんなに楽しい家庭にいられて……私うれしいですわ」


 だなんていうから、父も母も調子に乗って、また、いつまでもいていいんだからな、とか、私たちは家族だからね、などと甘い言葉をささやいている。

 そんな様子が気に入らなくて、絶人は乱暴にトーストを口に押し込み、コーヒーで流し込むと、さっさとテーブルを立った。


「じゃあ僕、学校行ってくるから」


 ぶっきらぼうにそう言って、絶人は玄関へと向かい、なるべく必要最小限の動作でローファーシューズを履くと、ドア脇の指静脈認証装置に手を当てる。


「あらもう行くのぜっくん。忘れ物はない?」


 とかいう母の心配や、


「父さんももうすぐ食べ終わる。せっかくだから一緒に出よう」


 とかといった父の誘いはすべてはねのけて、


「うん。行ってきます」


 それだけ言って、絶人はさっさと家の外へ出てしまった。六月にしては冷たい風が吹いて、絶人の首元をくすぐる。今日はブレザーを羽織って出ればよかったな、と少しだけ後悔したが、今更家の中に戻るような気にはなれなかった。

 さすがにちょっと早く家を出すぎたかもしれない。そう絶人が思ったのは、教室の中にはまだまばらにしか同級生が登校してきていなかったからだ。自席に鞄を置くとすぐ、隣の席から声が掛かった。


「おはよう、ゼットくん」


すでに机に座っていたナナミだった。


「あ、おはよう、ナナミちゃん!」


 特に変わりがないようなナナミとは対照的に、絶人は少し緊張して、裏返りそうな声を出してしまう。だが、ナナミの落ち着いた様子は、先ほどまで我が家の喧騒に虫の居所が悪かった絶人にとっては、一種の清涼剤のように感じられていた。

 そうだ、何も無理に家にいてイライラすることはない。早く出てくれば彼女に会えるのだから。そのことを知れただけでも、今日は収穫があった、すでにいい一日だったと言えるかもしれない。

 絶人が席についたのを確認して、ナナミは読んでいた文庫本に栞を挟んで机に置いた。そして、ひそやかながらも嬉しそうな声で切り出した。


「そういえばさっき、ともちゃんに聞いたんだけど」


「うん?」


 ともちゃん、というのは、同じクラスの高島智子のことだ。絶人はあまり話したことがないのだが、真面目な性格が気が合うのかナナミと仲が良く、また、どこからかいろいろな噂を仕入れてくる「情報屋」としても有名だった。


「今日からうちのクラス、転校生くるらしいよ! 今日たまたま職員室に行った子が、先生にあいさつしてるとこ見たんだって!」


「へえ、転校生かあ」


「木下さん、ひょっとして俺のことを呼んだかい?」


 後ろから突然声をかけてきたのは、やはりというか間宮だった。だが、ナナミに向けていた声を一瞬だけ絶人に向けると、


「あ、てかゼット、お前なんで昨日テレ・トリにサインインしなかったんだよ! 一昨日は寝落ちで、昨日はサインインもしねーとか、やる気あんのか!?」


「ああ、そういえば……」


 そんなことも言っていたような気もする、と絶人は視線を斜め上に向けた。スマートフォンにメッセージが大量に入っていたのはこれだったのか。昨日の騒動のせいで、そんな余裕はまったくなかったのだが。


「ゲームの話はいいからさ。転校生見たの間宮くんだったの」


 ナナミが冷静に話を引き戻す。


「もちよ! 今朝たまたま奥田先生んとこ行ってさ、春休みの宿題出しに行ったんだけどさ」


「春休みの宿題って……もう六月だよ」


「まあいいじゃん細かいことは! そしたらさ、見たことない女子が先生と話してたわけよ」


「違うクラスの子とかじゃないの?」


 ナナミが口をはさむと、間宮は大きく手を横に振った。


「違う違う! 俺こう見えて結構顔広いのよ。学校中の女子の顔と名前は把握してっから」


「ふーん……それで、転校生はどんな奴だったの?」


 絶人が尋ねると、間宮はゆっくりとこちらを見て、にやりとだらしない顔をした。


「ふ・ふ・ふーん! 聞きたい!? 聞きたい!? ゼットくん!?」


「いや、めんどくさいからいいかなあ」


「そんなこというなよー。頼むから聞いてくれよー」


「わかった、わかったよ。どんな子だったんだ?」


 間宮はまたふふんと鼻を鳴らした。


「聞いて驚くな! 黒髪サラサラストレートの超絶美少女だ! 目がくりっくりで、体も細くって……まるでお人形さんみたいだったなあ」


 間宮は腕を組んで、しみじみとつぶやく。


「……え?」


「なんだよゼット、反応悪いなー。男子だったら、美少女の転校生にもうちょっと喜べよ」


「あ、いや、そうじゃなくて……」


 なんかどこかで聞いたような。そんな特徴の人、会ったことあるような。


「そうじゃなくて?」


「いや、なんでもない」


 間宮は完全に「なんだこいつ」みたいな不審な目でこちらを見ている。なんだか、こいつにそんな顔されると腹が立つ。


「女の子かー。お友達になれるといいな」


 ナナミはナナミで不安げな顔で思案している。転校生の姿や様子を想像しているのだろう。そのとき、教室のドアががらりと空いた。


「うーい。朝の会はじめっぞ。席着け、席」


 奥田先生が気怠げに言う後に一瞬の間があってチャイムが鳴る。気づけばクラスにはもうほとんどの生徒が登校してきていた。

 続いて、クラス中から、わっと歓声が上がった。そして、絶人は即座に席から立ち上がっていた。がたりと大きな音がするのに構っている余裕もない。


「あっ……あ……」


 絶人の口からはうまく声が出ず、のどがかすかに震える音がもれるばかりだ。


「えー、今日はいい天気だな。先生暑くってジャージの袖ちょん切ろうかと思っちまった。っつーわけで今日は転校生を紹介……ん? なんだ荻久保、あほ面して」


 奥田先生のきょとんとした声に釣られるようにクラス中の笑い声が上がる。

 だが、絶人には、そんなものはまったく耳に入っていなかった。代わりに、奥田先生の横にいた、その少女の姿を観察していた。

 間宮の言うとおり、黒髪ストレートに、お人形のようないで立ちだ。昨日着ていたゴシック調の洋服ではなくて、この学校指定のブラウスとプリーツスカートを身にまとうその少女は、


「皆さまはじめまして」


 と慇懃に頭を下げる。

 なにからなにまで、昨日、突然に絶人のもつ世界観の中に殴り込みをかけてきた少女――キララに他ならなかった。

 静まり返った教室で、教卓より一歩前に出た少女は、おだやかな表情で続ける。


「東京から来ました、寺嶋キララです。前の学校ではお友だちがあまりできなかったので、この学校ではたくさんの人とお友だちになりたいです。どうぞよろしくお願いします」


「あ、それと」


 とキララは一度言葉を切ると、立ちつくしたままの絶人の方を向いた。


「荻久保絶人くんとは一緒に暮らす仲ですので。同じクラスになれてとても嬉しいですわ」


「なっ――!!」


 首をかしげてはにかみながら飛び出たその発言に、クラスの視線は今度は絶人の方に一斉に注がれた。そして、ざわつきを超えた悲鳴のような群衆の声が、教室中に鳴り響く。


「えー、荻久保くんって彼女いたの!?」


「しかもあんなかわいい子と、同棲してるって!?」


 その大半はもはや絶人の耳には入っていない。キララも、まるで噂を楽しむかのように得意げな顔で鼻を鳴らしている。しまいには奥田先生が、


 「なんだ。お前ら知り合いだったのか? ちょうどいいや、荻久保の左隣空いてるし、寺嶋の席はそこな」


 とまったくクラスの様子を意に介さないように冷静に言うので、「はい先生」キララはなんとも適当な方法で決まった席に、ゆっくりと、しかし確実に近づいてきてしまっていた。本当、奥田先生はマイペースである。


「これからよろしくお願いしますわ」


 ついに目的の席までたどり着いた彼女は、絶人の方を一瞥して笑顔を見せる。


 この瞬間をもって、絶人は今日一日の評価を「最悪」に改めることとした。

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