第2話 謎の少女、現る

Phase.6 "Paradise Lost"

 絶人の家には、母・香澄を心配させないための取り決めがいくつかある。夕食がいらない場合には連絡する、朝、いつもより早くまたは遅く家出る場合には前日の夜までに言っておく、ケガや病気のおそれがある場合は隠さない、など。基本的には父である荻久保雪和に関係する決まりなのだが、こと帰宅時間のことになると母は絶人にも厳しい。


 以前、友だちの家で遊んで、夕食までごちそうになったのだが、まったくそのことを母に連絡しなかったことがあった。別段連絡したくなかったわけではなかったのだが、スマートフォンを鞄に入れっぱなしにして、放置していたのだ。

 たくさん遊んで、腹も膨れて、さあ帰ろうとスマートフォンを見たとき、絶人は血の気が引く音を聞いた。母からのメッセージと着信の通知が異常なほどに表示されていたのだ。


≪今日の帰りは何時ごろ?≫


 に始まり、


≪夕食は食べる?≫


≪何時ごろ帰るの? 心配しています≫


≪何かあった? これを見たらすぐメッセージをください≫


 など、占めて十数件。

 これには絶人も慌てた。とにかく「今から帰るから」とだけメッセージを送り、すぐさま帰宅。すると、泣きそうな顔の母がそこには待っていた。


「ぜっくん……よかったあ、無事で」


 本気で泣き崩れる母を前に、絶人はなんと言ってよいかわからなかった。いろんな言葉がぐるぐると頭の中を回って、ただ体がかあっと熱くなるような感覚がして、ついに出た言葉は、


 「うるさいな」


 ただそれだけだった。


「いくつだと思ってんだよ。ばっかじゃねえの」


 そう捨て台詞を吐いて、絶人はさっさと二階の自室にこもって、その日はそれっきり母とは顔を合せなかった。

 絶人から遅れて一時間後くらいに父の雪和も帰ってきていたようだが、特に絶人に何か言うということはなかった。それにも絶人はなぜか言い知れぬ不快感を感じて、さっさと布団にもぐってしまっていた。何か言われたら言われたで、きっと不快に感じていたとは思うのだが。


 ――で、今。絶人は恐ろし気に、二階建ての我が家を遠巻きに観察していた。

 だが、その前にあのキララという少女に出会った後のことについて説明しておく必要がある。


 あのあと、絶人が目を覚ましたのは保健室のベッドの上だった。すっかりいつもの調子のナナミが言うには、温室で眠ってしまった絶人を用務員さんに運んでもらったらしい。


「恥ずかしかったんだよ、もう」


 はにかむナナミはとてもかわいいかったが、それでもやはり絶人の心にはこぶしほどの大きなしこりが残っていた。あれは全部、夢だったのだろうか?


《またお会いしましょう、私の"運命のヒーロー"》


 そう告げた少女の言葉が、決して夢の中だけのものだとは、絶人は信じたくはなかった。


 閑話休題、焦げ茶の屋根に、ピンクがかった肌色の壁面。決して広くはないが庭や駐車場まで付いたこの一軒家は、絶人が中学校に上がる前に立てられたものだ。同じような家々が並ぶ建て売り住宅街とはひと味違い、建材一つ一つまで父がこだわっている。まあ、その制作過程には絶人はとんと興味がなくて、


 「なあ絶人、新しい家の屋根は何色がいいかな?」


 などと尋ねられてもゲームをしながら生返事をしていたのだが。

 その、父自慢のオトコの城には今、煌々と明かりが灯っていた。時刻は午後六時。家から光が漏れていることは別に珍しくもなんともないのだが、絶人にとっては不可解なことがいくつかあった。

 

 まずは、母からのメッセージが特に入っていないことである。例の一件以来、母の親心はますます過剰になり、大体午後五時を越えると「今日は何時に帰るの?」と報連相を求めてくるのが常だった。

 だが、今日はスタンプの一つも送ってこない。母とのやりとりの最後は、先日の帰宅途中の「お醤油買ってきて」「うい」だけだ。さらに言うなら、家の中は明るいだけではなかった。なにやら楽しそうな声が聞こえてくるのである。どう聞いても、父や母の声だ。お客さんでも来ているのか? でもそんな話していたっけ?

 絶人は恐る恐る、体はなるべく離した姿勢で腕だけ伸ばし、玄関ドア横の指静脈認証機にそっと手をおく。認証成功を示す、ピリリという小気味の良い音が鳴り、自動で横滑りにドアが開いた瞬間、


 「あら……? おかえりなさいぜっくん!」


 母にいきなり出くわしてしまった。


「うげ」


 絶人の口から思わずに声が漏れる。最悪だ。


(作戦変更! このまま一気に押し切って、僕の部屋へ――!)


 絶人がそう思って、慌てて靴を脱ごうとした瞬間。


「いよーう絶人! 遅かったじゃねーか!」


「……は?」


 リビングルームからこれ以上ないほど陽気な父の声がして、絶人は完全に面食らっていた。


「あーん? なんだよ絶人ぉ。ビール持って来い、ビール」


 よく見ると、父さんは無精ひげを生やした顔でだらしなくにやけ、片手に空っぽのビール缶を携えている。それに、すでに顔は赤くなっている。父さんは顔に出やすいタイプなので、すぐにわかった。これはかなり出来上がってる。


「か、母さん! どうなってんだよ!? なんで父さんがこんなに早く帰って」


「ぜ~っくん!」


「うわあ!?」


 今度は後ろから、母の方が覆いかぶさってきた。


「何すんだよぉ!?」


「なによ~、もう、最近冷たいんだからー。お母さん寂しいのよー」


「やめ、やめろって、離せよ!?」


「あんっ」


 首に抱きついたまま離れない母をなんとか引きはがし、絶人は荒く息をつきながら気づいた。


(母さん、酒臭え……)


 母はふだんあまり酒を飲むことはないのだが。


「もう何なんだよ二人ともこんなに酔っぱらって! いったい何があったんだよ!?」


 絶人は陽気な様子の二人に、またも言い知れぬ不快感を感じて、思わず怒鳴っていた。なぜだか妙に、この二人が楽しそうなことが気に入らなかったのだ。全身がぬるい怒りに包まれたような気がして、いつまでも体の火照りが冷めない。

 一方で、もう一人自分が一、二メートルばかり外側にいて、「何をそんなに怒っているんだ」とあきれているようにも思えた。怒っている自分と、あきれている自分、どちらが本当なのかと言えば、それは絶人にもわからない。どちらも本当なのかもしれない、とも思えた。


「なんだお前、忘れちまったのか?」


 雪和が、まるで絶人の怒りなど意に介していないかのように、きょとんとした顔をする。そんな態度も絶人の怒りに火をくべていたのだが、彼には関心がないように思えた。


「今日はお客さんが来るって言ってたろう」


「そうよ、ぜっくん忘れちゃってたの?」


「お客さん?」


 正直言って、まったく覚えがなかった。

 そしてそれを自分が忘れているのか、それとも両親が伝え忘れていたのかでまた絶人は不機嫌になりそうだったが、それよりも、その「お客さん」とやらの正体に関心は移っていた。こんなに二人が楽しそうにお酒を飲んでいるなら、古い友人とかだろうか?


「あっそ。じゃあ僕、上に行くから」


 とさっさと自室に行って、「お客さん」とやらとは顔を合わせないでおこうと思ったとき、


「おいおい、待てよ絶人」


 雪和が絶人を止めた。


「お前のお客さんだぞ」


「僕の?」


 絶人はまったく要領を得ず、そのまま聞き返していた。少なくとも自分の友人に、留守中に勝手に上がり込んで、両親とともに楽しく酒を飲みかわすような人物はいないはずだった。

 一つ唾を飲み込んで、絶人は半開きになったリビングルームのドアを開く。

 そして、そこに座る少女の姿をとらえて、絶人の体は頭のてっぺんからつま先までを一筋の糸に吊り下げられたように、完璧に固まってしまっていた。


「ご機嫌よう、『荻久保絶人』さん」


 その少女は目も覚めるような美少女だった。肩まで伸びた黒髪、クリクリの目。まるで人形のようなスレンダーな体は、少し力をいれればコッキリと折れてしまいそうだ。そして、その少女は、絶人が夢の中――先ほどまでそう思い込んでいた――で出会ったあの少女「キララ」と瓜二つだった。


「あ……っ……!?」


 驚きのあまり、うまく声が出せない。あれは夢じゃなかったのかとか、お前は何者なんだとか、いろいろ言いたいことはあったが、結局口から出たのは、


「……いつかって、ちょっと早すぎだろう」


 つまらない突っ込みだけだった。


「ぜーっーとおー!」呆然とするばかりの絶人に、後ろから、今度は、父の雪和がすり寄ってくる。やっぱり、こいつも酒臭い。


「なんだよ水くせえなあ。いつの間にこんな彼女作ってたのよ!? フランス人形みたいでかわいーじゃん!」


 雪和は心底嬉しそうに、青い頬を寄せてくる。チクチクとしていて、本当に不快だった。


「あらあらお父さま、仰ってくださればビールくらい私が出しましたのに」


 キララはパタパタと雪和の方へ近づくと、彼が持ってきていたビールの缶を受け取り、グラスに注ぐ。ずいぶん手慣れた様子だ。まさか、こいつが二人に酒を飲ませたのか?


「いやいやいいのよ、こんなかわいい彼女ほっぽって外ほっつき歩いてるバカ息子の顔も、ちょうど見れたからな!」


「本当よねえ。私、キララちゃんなら、介護してもらいたいかも」


 いつの間にか香澄もリビングルームに戻り、穏やかな目でキララを見つめている。

 いや、本当何言ってんだこいつら。


「ちょ、ちょっと待てよ! なんだよ、彼女とか、同居とか!? 何の話だよ!」


「もー今更照れんなって!」


 威勢よくそう言い放つと、雪和は勢いよくビールをあおり、テーブルの上に打ち付けてから、もう一度絶人の方を向いた。


「だから、彼女なんだろ」


「…………」


 絶人は雪和(このおっさん)に期待することをやめて、香澄の方を見たが、


「ええ。彼女なんでしょ」


 そして最後にキララの方に目をやって、


「……てへっ」


 後ろに手を組んで、ひざと首を少しだけ曲げてはにかむ彼女に、絶人は完全に原因を悟った。やはりこいつか。


「ごめんなさい、ゼットさん。キララ寂しくって、お家まで来ちゃったのですわ」


 キララは猫なで声で絶人に近づくと、自然に両手をとって上目遣いに見つめる。かわいい。

 絶人は、キララが自分の手に取ったのをこれ幸いと、彼女をずりずりとリビングルームの外まで引っ張りこんで問い詰めた。


「お前、一体どういうことだよこれ? いったい何を企んでるんだ?」


「あら、サイバー空間の中で、言いましたでしょう? いずれお会いすることになるって」


「いや早すぎだろ! せめて次の日くらいにしてくれよ! 一日くらい不思議の余韻を味合わせてくれよ!」


「絶人、『何してんだ』はないだろ!」


 聞き耳を立てていたらしい父の声がまくしたてる。


「キララちゃんはな、お前のいない間に家事を手伝ったりしてくれてたんだぞ!」


「そうよ! あ、もちろん私は『絶人の部屋でのんびりして待っててね』って言ったのよ。でもキララちゃん、自分から率先して手伝ってくれて……」


「わかった、わかったから二人とも本当ちょっと黙って」


 絶人は片手で頭を抱えながら、片手で二人を静止した。このままでは、死因が頭痛になりかねない。そうしている間に、キララが最高の笑顔で言った。


「これから長くお世話になるのですから。当然のことですわ。お父さま」


「……はっ?」


 これから。長く。世話になる?


「ありがとうキララちゃん! ここは自分の家だと思ってくれていいからね! なんだったら、『パパ』なんて呼んでくれても構わんぞ!」


「雪和さんずるい~。私もママって呼んでもらいたい~」


「あらあら。それは恐れ多いですわ、お父さま、お母さま」


「くぅ~、『お父さま』ってのもそれはそれでいいな! なあ絶人!」


「なあ、じゃねえよ! どういうことだよ! 長く世話になるとか、自分の家だと思ってくれて構わないとか!」


 絶人が今度は雪和に向かって問いただすと、


「うん。今日からキララちゃん、ウチで預かるから」


 いや、うん。じゃなくてさ。本当何言ってるんだろう。この人。


「実はキララちゃんのご両親、俺たちの古い知り合いなんだがな。これから長期で海外出張なんで、預かり手を探してたんだと。いやもちろん、俺だって最初は断ったんだぜ。でもさー、まさかこんなかわいいお嬢さんで、実は絶人の彼女だっていうじゃん!? なんか運命的なものを感じたのよ! しかも、あんなに養育費までもらっちゃって……」


「雪和さん、それ絶人には内緒!」


「あ、そうだっけ?」


 雪和は大げさに口を押えるが、もう遅い。というか、隠す気も最初からなさそうだった。


「……要するに、金の力でなんとかしたってことか?」


「うふふっ」


 キララはもう弁解もしないし、絶人もこの水掛け論に疲れてしまった。


「詳しい話はまたあとでしますから。とりあえずお風呂に入ってらしてくださいな」


 そういって学生鞄を強引に受け取るキララの、きめ細やかな手に反抗する気力は、絶人はもう残ってなかった。

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