Phase.2 "Morning Glory"

 放課後。絶人はナナミとともに校舎裏の建物に来ていた。その建物はいわゆる温室のような外観をしている。一軒家程度の床面積に透明なビニールの屋根が覆い、その中に並んだ花だんにはアサガオの鉢が所狭しと敷き詰められていた。初夏の日差しで暖められた、特有のむわりとした空気が充満するここが「水やり係」の仕事場だ。

 

 さて、ここまで聞いて、水やり係というのが花だんのお花に水をやる仕事だと思うだろう。確かにその想像はある意味では間違ってない。間違っているのは、「何を使うか」というところだ。決してじょうろとかを使うわけではない。


「いっけない。スマホ、教室に置いてきちゃった」


 スカートの辺りをまさぐっていたナナミが、慌てた様子で絶人に尋ねた。


「ゼットくん、装置を起動させてくれる?」


「え、あ、うん」


 絶人はナナミの前に緊張して、返事もそこそこにグレーのスラックスのポケットからスマートフォンを取り出す。


「ナナミちゃんも、僕のことゼットって呼んでくれるんだ」


 とか、


「僕のスマホ、ビクトリア社の最新モデルなんだよ」


 とか、頭の中にはいろいろと浮かぶのだが、どれも音にはなってくれなかった。


「えーっと、『水やり』、『水やり』……あ、あった」


 絶人はスマートフォンの画面を何度かスワイプして、ようやく目的のアプリをタップして起動する。水色の企業ロゴが数秒出た後、画面上にいくつかのメニューが現れた。

 「温度を上げる」「温度を下げる」「水をあげる」「日差しを遮る」、etc。絶人はその中から「水をあげる」のメニューをタップする。するとすぐさま、建物中に張り巡らされた管から、それぞれの鉢に対して水が放射され始めた。

 これが水やり係の仕事だった。実際に「水をやる」というところは装置が勝手にやってくれる。絶人たちの仕事はその指示をスマートフォンから出すことだけ。そう思っていたのだが、


「ありがとう、ゼットくん。じゃあ一緒に観察記録書こっ」


 ナナミはすでに、花だんのふちの、水のかからない場所にちょこりと座って、紙と鉛筆を構えている。


「か、観察日記? そんなのあるんだっけ!?」


「そうだよー。観察日記書いて、スキャンしてクラウドにアップロードするとこまで。職員室でプリンター貸してもらわなきゃいけないから、5時までには終わらせないとね」


 冗談じゃない。そんなことしていては、いつまでも「テレ・トリ」がプレイできないではないか。


(っていっても、ナナミちゃんに押し付けるわけにもいかないよな……)


 結局、絶人はしぶしぶ用紙を受け取って下手くそなアサガオのスケッチをすることになった。


「でもちょっと変だよね。こんなに技術が発達してるのに、スケッチは紙とえんぴつで、わざわざスキャンさせるなんて」


 ナナミはまず花を描こうと鉛筆を走らせつつ、しみじみとつぶやく。


「そ、そうだよ! だいたい絵なんか書かなくたって、写真を撮れば一発だし。なんだってわざわざこんなことさせるんだろうね先生も」


「なんか、私のお父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも皆やったって言ってたから。そういうものなんじゃないのかな」


「昔から決まってるから、ずっとやり続けてるの? これだからお役所仕事ってのは……」


 絶人は、以前に父がテレビを見ながら言っていた言葉を使う。ナナミは少しだけ笑って、


「ゼットくんみたいな人が多いからじゃないの?」


「え。僕みたいな人?」


「うん。授業の時言ってたじゃない。便利な時代なんだから、別に考えなくても誰かが何とかしてくれるって。結構、みんながそう考えてたから、別にいらないのに昔からやってることが残ってても誰も問題に思わなかったのかも」


「うーん……なるほど」


 絶人はナナミが唱える説に、あいまいにうなずく。まあ、アサガオの水やりなんかは別に残っていても誰かが傷つくわけでもないのでいいのだが、大事なことも同じようにほったらかしにされていたら、それは問題なのかもしれない。

 少し間があって、ナナミは手を止めた。


「でも私は水やり係の仕事嫌いじゃないよ」


 言葉をつまらせたナナミが自分の方を見たのを感じて、絶人もそちらを見る。ナナミは少しだけ顔を上気させて、汗をかいているようだった。ナナミは赤らめた顔でゆっくりと口を開く。


「私、絶人くんと一緒にいるの、好きだから」


「えっ……?」


 どういう意味、それ? とはさすがに尋ねられず、でもなんだか急に恥ずかしくなってきて、絶人は顔を背けた。妙に体が熱い。気温が一気に5℃くらい上昇したんじゃないかという気がしてくる。ひょっとして――と思ったとき、肩に暖かいものが乗って来た。

 それは、黙ったままのナナミの頭だ。


「な、ななな、ナナミ……ちゃん?」


 呼びかけても反応はない。絶人もその場でピクリとも動けなくなってしまった。ただ荒く息をつく彼女の体の動きと熱だけが伝わってくる。なんだか今日はすごく暑い。まだ6月の頭だっていうのに、まるで真夏のようだ。ちょっと意識が朦朧としてくるくらいに。

 ――いや、おかしいぞ? いくらなんでも暑すぎる!

 絶人は慌てて、寄りかかっているナナミの方を見た。


「はあ……はあ……」ナナミは目を閉じたまま、苦しそうに喘いでいる。


「ナナミちゃん? ……ねえ、どうしたの!?」


 絶人は呼びかけながらナナミの額に触れ、「あっつ!?」と叫んでしまった。体温がものすごい熱さになっている。それで彼女は意識を失ってしまっているようだった。


「……まさか!?」


 絶人はとっさにスマートフォンを取り出して、水やりアプリを確認する。そこには、衝撃的な数字が表示されていた。


≪現在の室温:90℃≫


「きゅ、九十度だって!?」


 まるでサウナのような室温、暑いはずだ。しかも、まだまだ室温は上昇していっている。絶人は急いで「温度を下げる」をタップするが、まったく反応はない。そのうち、にじり寄るように室温が「91」という数値を表示した。


「くそっ! とにかく外に出なきゃ!」


 絶人はナナミを引っ張り、出入り口の方まで引きずっていく。意外に重い。


「……ダメだ、開かない!」


 無情にも、外の世界とつながる唯一の扉はビクともしてくれなかった。


「このままじゃ、干からびちゃうよ……」


 そうこうしている間に、室温はさらに上昇していく。絶人の意識も途切れ途切れになる。

 もう、だめだ。そう思ったとき。


「……えっ?」


 絶人の手元が、まぶしく光った。いや、正確に言えば、光っていたのはスマートフォンの中のあるアプリ。

「マルウェアバスター」が、まるで「俺をタップしろ」と言わんばかりにまばゆく自己主張していた。


「なんだ、これ……?」


 絶人は最後の力を振り絞り、アイコンをタップする。その瞬間、光が一層激しくなった。

 絶人はその光に包み込まれ――


「うあああああああああ!!!!」


 ――そのまま、意識を失った。

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