帰り道

阿南洸汰

帰り道

          帰り道

                              阿南 洸汰


 全くバス会社は間抜けだ。大体年寄りしかいないと思って手を抜いているのだ。資本主義に毒された腐った豚どもめ。全くもってけしからん。庇のないバス停ですかすかの時刻表を眺めつつ鴨嶋義男はそう悪態をついた。何、鴨嶋はこんなに偉そうなことを言ってはいるが、まだ中学生である。しかも、この夏休み真っ盛りにどうしてこんなところにいるのかというと、頭の不出来なために補習で呼び出されたためであった。友人たちは海だ、山だ、東京だ、などとはしゃいでいるのに、彼ときたら夏休み始まってからこの方ずっと朝っぱらから学校に向かっていたのだ。その不満も手伝って、バス会社に恨み言を零したのである。だが、彼の補習も今日までであり、彼は不満があってもなんだかおおらかな心持でもあったので、ふん、まぁ許してやろう。などと横風に思ったが、いかんせん頭上には真っ白な太陽がぎらぎらと輝き、背には青々とした稲の植えられた田んぼに煩わしく虫が飛び交っており、そのうえ目の前のアスファルトは真っ黒で、存分に熱を吸収してじりじりと足元を焼いているのである。鴨嶋もいくら若いとはいえだいぶ参っていた。汗がだらだらと流れる顔を上げる。道をまたいだ先にちょっとした山がある。辺りは田んぼばかりなのに、なぜ此処だけ山で残っているのかと、鴨嶋は幼いころに婆様に問うたことがあった。婆様いわく、この山にはお稲荷様が住んでいて、そのために残しているのだそうだ。なんでもそのお稲荷様は昔、恐ろしい物の怪であって、見目麗しい女に化けては男をたぶらかして頭からバリバリと食ってしまったとか何とか。そこで村の人々は社を作って祀って何とか鎮めたのだそうだ。だから、そこには入っちゃならねぇよ、と婆様は真剣な顔をしてはしきりに幼い鴨嶋に釘を刺していた。

 ふん、なんだい馬鹿らしい。若い鴨嶋はそう思った。確かに幼いころはそんな事を信じていた。婆様の言うことは本当なのだと、入ってはいけないのだと思っていた。何せあんなに真剣な顔をして言うのだからと。だが、今はもう大人だ。其れなりに分別というものがあるのだ。大体こんなに科学主義が行き渡ったニ十世紀のこの日本でそんなものを信じる者があるか。婆様はまあ古い人間で、俺は進歩的な人間なのだ。大体人を食っていたのは向こうが悪いんじゃないか。なんでこっちがわざわざ祀ってやらねばならないのか。全く昔の百姓どもの強者に阿る態度とあまりの無知っぷりにむかっ腹まで立ってきた。そんなだからバス会社の奴らも庇もつけないし、こんなすかすかな時刻表のままにしているのだ。そんなもの怖いものかという気概がふつふつと沸いてきて体を動かした。大体バスがやってくるまではまだ三十分ぐらいかかるのだ。涼しいところで待って何が悪い。というわけで、木陰を求めて、その山に向かって行った。

 うんうん、なかなか、なかなか。鴨嶋は山の少し登ったところにあった、湿っぽい石に腰を落ち着けて、そう満足してみせる。彼の頭上で揺れる梢はちょっとした音を立てて、彼の首筋はひんやりとした。何恐くない、恐くない、と鴨嶋は腕を組んで、わざと大きく足を大きく広げて、虚勢を張ってみせる。けれど、目線は今か今かと、ずっと木々の隙間のバス停を睨んでいた。

 ぱきりっ、と後ろから音がする。何かが枝でも踏んだらしい。鴨嶋は身を強張らせるが、何きっと、野良猫か何かだという言い訳を自分にして、なおかつ、だれに対してなのか、余裕を見せてゆっくりと振り返った。

 女だった。それも驚くほどに美しい女だった。背はすらりと高く、黒く、腰元にまで届きそうなほど長い髪をして、作り物の中にしかないであろうという陳腐なまでに真っ白なワンピースを着てにっこりとほほ笑んでいる。

「こんにちは」

 木が野放図に生い茂る山に響く明朗な声に口をあんぐりと開けたまま、鴨嶋は何も答えられないでいる。女はそれを意に介していないように、ふっと彼の隣に腰かけた。髪の毛がふわりと揺れる。哀しいかな中学生である鴨嶋は体をできるだけ細くして、彼女の一筋にも触れないようにと慌てて、けど決してそのさまを見せないようにと底の浅い余裕を醸して隅っこによる。透き通るほどに白い肌をした女はきらきらと輝く顔のほんの少しだけ厚い唇をくいと上げて可笑しそうに笑った。

「中学生?」

「はっ、はいっ」

 また笑う。鴨嶋はなんだいと思ったけれど、非常に整っているのに何処か少女然とした愛くるしさを残している女の顔を見るとやはり言葉が出てこない。女の呼吸とともに胸のあたりがちょいと膨らむ。鴨嶋はもう話すことができなくなってしまっていた。だが、ふと、この女のあまりの美しさとどこか超然とした態度に、これが婆様の話していたあのお稲荷様じゃなかろうか、という気がしてきた。そうすると、自分はたぶらかされて頭からバリバリと食われてしまうのではないだろうかちょっと恐くなってきた。また梢が揺れた。風は何とも冷たかった。青い空の遥か遠くの雲が少し黒いようだった。

「どうして、こんなところにいるの?」

 女が尋ねる。長いまつげに、大きく輝く瞳。綺麗に口角の上がった唇から漏れ出る声は鈴の音の様で、はて、本当に人を食っちまう物の怪かしらんと考えたが、それでも彼女から顔を背けたままで、もごもごと小さく応える。

「いや、別に・・・」

 補習で学校に行っていたのだと正直に答えなかったのは彼のちょっとした意地である。女は「ふーん」と、言ってジロジロと彼を見る。柔らかい風が吹いた。それは梢を揺らすほど強くはなかったけど、むしろそのせいで、彼女の香りが鴨嶋の方にまで漂ってくる。女の好奇に満ちた視線も手伝って鴨嶋はますます体を細くした。

「部活?野球部か何か?」

 鴨嶋は部活などしていない。全くもって純正な帰宅部である。確かにからはちょっとガタイがよかったし、頭もしゃれっ気の欠片もない坊主であった。しかし、それは彼がよく食べて、その上面倒くさがりな為に坊主は都合がいいからという何ともずぼらで怠惰な理由からだった。大体鴨嶋は野球部が嫌いであった。奴らの実に偉そうな態度とまるでこの世の主人公は自分たちであるような異様な得意さが鼻持ちならなくてしょうがなかった。だから違うというべきであったのだが、なんだがそれを言うのは憚られた。女の大きく、澄み切った瞳のせいで全く自分のことが情けないもののような気がした。そこでちょっと強がって答えて見せるが、変なところで真面目さのある鴨嶋は肯定も否定もはっきりとはできなかった。

「はぁ、まぁ」

 女も「ふーん」と、言うだけで幸か不幸かそれ以上の追及はしなかった。鴨嶋はまた何とも情けない気がしたが、一度彼女へ向けた視線をまたどこかに移す気にはならなかった。今気が付いたが女はほんのりと汗をかいている。そして、当たり前のように、白いワンピースはその肌に張り付いていた。鴨嶋は、はて、物の怪でも汗をかくものだろうかとちょっとだけ首をかしげたが、いかんせん中学生であるので、その頭のうちに浮かんだ疑問は別の情念に邪魔されてしまう。鴨嶋ははっと気が付いて、ふいと顔を外に向けた。そんな彼に女は質問を投げかけることはなくなった。それからしばらくの間二人して黙っている。まだまだ、熱くて、まだまだ汗をかく。すると、急に女が立ち上がった。

「あっ。バス来たよ。行こう」

 女は山を下りようと歩いていく。背中にもぺったりと服が張り付いていた。鴨嶋は立ち上がらない。ただ根でも張ったかのように岩に張り付いている。

「どうしたの。バス行っちゃうよ」

 ほんのちょっとだけ、真っ白なその歯を見せてにっこりと笑う。鴨嶋はそれでも立ち上がることもできずに座ったままだ。

「・・・・・・」

 応えない鴨嶋に笑みそのままにして女が近づいてくる。もうあと三、四歩というところで鴨嶋は急に大きな声を出した。

「いいえ、僕は大丈夫ですから。先に行ってください」

 座ったまま片手を前に突き出して、必死に近づけまいとする鴨嶋に対して女は目を丸くすると、何かに合点がいたのか意味ありげにふふっと、声を出して笑うと、そのまま何が愉快なのか、スカートをひらひらと翻して、踊るように山を下りて行った。そして、さっさとバスに乗ってしまった。ほどなくしてバスは何の躊躇いもなく走り出した。

 鴨嶋は何ともぼんやりとしていた。それが一体安堵なのか喪失なのかはよくわかっていなかった。ただ張り詰めていたものがすっかり失せてしまって、虚脱してしまっていたのだった。いつの間にか日は暮れていて、その一時間後に来たバスに乗って鴨嶋は家に帰った。遅く帰ったうえに途中で雨にも降られてしまって、彼は母親にこっぴどく叱られた。彼はそれをぼんやりとやり過ごして、ぼんやりとしたままで冷めてしまった飯を食って、ぼんやりとしたままぬるくなった風呂に入った。それからぼんやりとただテレビを眺めて、ぼんやりとしたまま寝床に入ってしばらくするとはたと体を起こして、おもむろに婆様の仏壇に赴き、線香をあげると、なんとも熱心に拝んでいた。

 


                                  終わり

 

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