『羽村さんと怪異の話』後編

 現れた少女を見た美郷みさとは、彼女が明らかに人間でないと悟った。

 美郷の腰の高さくらいしかない少女は、ノイズが混じったような幼い声音をしていた。口調も片言に聞こえるが、イントネーションそのものが不安定に聞こえる。

 少女の瞳孔は爬虫類のような形をしていて、頬には雷のような模様が浮かぶ。一方で着衣はその高飛車な印象を受ける口調とは正反対に、地味な色をした短い着物だった。

 ここまであからさまなら、正体を推測できる。恐らく彼女こそ白太さんの言う所の「ギン」なのだろう。

 目の前の少女が何者か分析していた美郷だったが、彼女の後ろから嫌な寒気が滲んでいることに気づいた。

 すぐ構える美郷だったが、よく見れば魑魅魍魎達が目を光らせながら、こちらを見ているではないか。

 おまけによく見ると、どうにも弱っている様子が見て取れる。この手の輩に顔色があるかと言われると微妙だが、美郷の目にはヘトヘトになっているように見えた。

 美郷と目の合った連中は、皆揃って助けを乞う野良猫のように見つめてくる。思いも寄らないプレッシャーを受けた美郷は、流石に胃がムカムカしてきた。

「後ろの連中、明らかにぐったりしてるけど、君が何かやらかした感じ?」

 どう話を切り出すか悩んでいた美郷を差し置き、羽村はむらが口を開いた。何故わざわざ渦中に首を突っ込むのかと怒鳴ろうとしたが、ギンの返答は意外にも朗らかだ。

 ──我、君ニアラズ。我ハ銀竜蛇(ギンリュウダ)、我ヲ求ム山ノ守護神。

 名前を知ったことで美郷の憶測が確信へと変わる。一方で、聞いたことのない神の名前に少し戸惑いが生まれた。仕事柄この手の話には詳しく、有名な神であればすぐわかるはずなのだが。

 もしかすると、極限られた地域で創作された神が、具現化した存在なのかもしれない。

 ──我ハ崇拝ヲ所望ス。サレド民ハ祭事ヲ放棄シタ。身代ワリニ手近ナ彼奴ヲ捕ラエタ。

 銀竜蛇ことギンは憤っているようだ。見た目としては頬を膨らませているだけにしか見えないが、怒りが爆発すれば何が起こるかわからない。

「なるほど、あなたは山の神様だったんですか」

 羽村が口を出す前に美郷が問いかけついでに確認すると、ギンは首を盾に振った。

 ──サレドコノ世ハ、我ノ山ニ非ズ。祭事ヲ開催スベク創出シタ、異界ニ過ギヌ。

 幼さが見える挙動についつい頬が緩みそうになるが、これは恐らく彼女の真の姿ではない。行動はどこか人間的だが、容姿には節々で蛇の特徴らしきものが見えるからだ。

 ──我、常ニ静寂ト共ニアリ、永ラク孤独。民ノ喧騒ガ愛オシイ。物ノ怪ドモデハ、興ガ乗ラヌ。彼奴ラトキタラ、舞ハ拙劣、歌ハ遠吠エ、サナガラ地獄ノ刑罰。

 と言って、ギンはガクリと肩を落とす。随分と感情豊かな神に面食らいながらも、美郷はどう応対していけば良いかを考えていた。

 物の怪も神も、乱暴にまとめてしまうのであれば、それらは人が作るものだ。極端な話、個人が信じれば神はどこにでも誕生することができるのだ。

 しかし、それが生物と同じ形を得るためには、個人の力ではよほどのことがない限り不可能だ。自我を持つ程の形を得られるのは、多くの信仰を集めた一握りの神だけである。

「銀竜蛇様、貴方を祀っていたお祭りとは、一体どのようなものだったのでしょうか? 僭越ながら、可能な限り往年の祭事を再現できるよう、私共の方でこの件は持ち帰りまして、復活に最大限尽力させて頂きたく……」

「祭リヲ知ラヌト言ウカ。何タルコトダ!」

 ギンは頭を抱えて天を仰いだ。明らかに勘違いなうえ、美郷はもう一度本題を述べたが、よほどショックが大きかったが、聞いてくれる状態ではなかった。

「良カロウ、我ガ真ノ祭事ヲ見セテヤロウ!」

 美郷の言葉を聞かなかったのか、ギンは本当の子供のように目を輝かせ、両手を大きく天井へと掲げた。

「うおぉぉぉっ! 何が始まったんだ?」

 すると彼女の手から眩い光が出現し、面食らった美郷とパニックになった羽村を、まとめて飲み込むように膨張した。




 *****




「羽村さん! ご無事ですか!」

「……ほ、は? あー、よく寝た。なんか嫌な夢を見ちゃったな」

「いや、現在進行系でおれ達は夢の中ですよ」

 聞き覚えがあるようなないような声に起こされてみると、俺は原っぱの上で寝転んでいた。一目で夏空とわかるそれを眺めてから、俺はこれまで自分に起きたことを思い出していた。

「あれ、いつの間に山から出られたんだ? でも、見覚えがないな、ここ」

 身体を起こした所は、高い丘の上だった。眼下にはまるで時代劇のような、農村らしき集落が見える。

「まだ何も解決してませんから。恐らくここは……昔の記憶を再現した世界でしょう」

『その通りジャ!』

 背後からした声に、俺だけでなく宮澤みやざわさんまで大袈裟に驚いた。見ればギンが太陽のような笑顔で俺達を見ていた。

 改めて太陽の下で見てみると、少女は生きている人間とは思えないくらい肌が白かった。

 彼女が本当は人ではないということは、動物達に似た気配と異常な状況のおかげで、察することができた。しかし、改めて明るい所で面と向かってみると、それをますます実感させられてしまう。

「で、ここ、どこ?」

 俺は思わず気軽に尋ねてしまった。宮澤さんはそういえば気を遣って話していたけど、俺もそうすべきだっただろうか。

『この土地は元々キンの縄張りジャ! かつては民が暮らしていた、長閑だが明るい村でアッタ』

 でも当のギンは全く気にせず、老人の自慢話のような話を始めた。話し方のせいか、腰で手を組んで胸を張る姿を見ていると、幼いのか老けてるのかどっちなんだと突っ込みたくなる。

 しかし、よくよく話を聞いていると、さっきまで聞こえていた雑音混じりの声ではなくなっていた。まだ少しぎこちないが、言葉もすんなり聞こえるようになっている。

 それをこっそり宮澤さんに聞いてみると、断言はできないとしたうえでこう答えてくれた。

「これは幻覚です。頭に直接意志を送っているからこそ、意志が直接伝わってきて、さっきよりも言葉がわかりやすいのかもしれません」

「よくわかんないけど、つまり俺、頭の中をいじくられてるってこと? うえー」

 と言いつつ、俺はふいにぽんすけを気にしてポケットを探る。寝惚けた顔で出てきたぽんすけを見たギンは、ずっと機嫌の良さそうだった顔を露骨にしかめた。

『獣まで巻き込んでおったカ。獣は無作為に騒ギ、時には山を荒ラス不埒者。信仰心も皆無だから嫌いジャ。故に我の世界からは追い出したと言うニ』

『は、羽村よぉ。なんかオイラすげぇ睨まれてねぇかぁ……? つーかあの人間から蛇みてぇな匂いがプンプンしてきて怖ぇぞぉ』

 助けを求めるぽんすけに、いつまでも声をかけないのはあれなので、こっそり大丈夫だと告げてからポケットに戻した。いや、今の状況はまったく大丈夫な感じではないんだけども。

「あの、銀竜蛇様、これは一体」

『ギンで良イ。さあ、あの村人どもの後を付けるノダ!』

 慎重に会話を成立させようとする宮澤さんの努力も虚しく、ギンは駆け出していった。あんな化け物のような見た目の子供が付いていったら大騒ぎになりそうなものだが。

 そんな風に考えながら後に続いていると、目前のギンは列を成す村人を文字通りすり抜けた。

 なるほど、記憶の中において、人はあくまで再現された幻に過ぎないということか。ということは地面も危ないのではと踏みつけてみたが、こちらはちゃんと踏ん張ることができた。

「付いていくしか、ないですね」

「蛇のお食事にならないなら、もうなんでもいいよ、俺」

 宮澤さんから、段々とピリピリした雰囲気が表に滲み出している。まあそりゃ、霊能力の類を持ってない一般人も守らないといけない、そんなプレッシャーを押し付けられてるんだから当然か。

 当事者ながら他人事みたいな言い回しになったが、さっき、俺がしくじりまくった時、彼にグーで殴られなかったのは幸運だった。まあ、その前に白蛇くんのお昼になる方が先か。

『何をしている、早う来るノダ! 祭りが終わってシマウ!』

 ギンに急かされ、俺達は小走りでその後を追った。




 山の奥に立てられた神社の前に、多くの人が集まっていた。各々まったく違うことをして楽しんでいるが、社の前には来訪した村人からの、ささやかなお供え物が小さく積まれていた。

「ここはたぶん、おれが白太さんを探しにいった山ですね。流石に時代が古すぎて、雰囲気で判断しているだけですが」

 大きな神社の影に隠れた社の中から、こっそり祭りを眺めている金色の蛇が見えた。現在より身奇麗に見えるけど、恐らくあれがキンだろう。

 神社には米と芋などが備えられているけど、果たして口に合うのだろうか。いや、断じて俺はお供え物に手を付ける気はないけど。

『かつて、この地には不作、流行り病と不幸が続イタ。港町を目指す山道の開拓も幾度となく断念シタ。窮した人間は神に安寧を願い、そしてそれは聞き届けらレタ。活気が戻った村の男衆により山道の開拓も再開さレタ。村人は神に感謝し社を作リ、我が半身にして源、キンが顕現シタ』

 よく見ると社の屋根には、蛇を象った小さな石像が祀られていた。ふと気づくと時間は夕暮れ時になり、夕日を浴びた石像は少しだけ黄金色に見えた。その下でこっそりと夕日を拝んでいる金色の蛇のように。

『我はこの時、神の加護を目の当たりにした旅人により生まれた。遥か遠方の故郷にこの御利益を広めるベク、キンを模造した象を片手に奴は帰ッタ。そして我はそこで神として顕現シタ』

 急に背景が光ったかと思うと、次は別の山に飛ばされていた。そこはなんとなく雰囲気に見覚えがあった、すぐ俺が居た山道の雰囲気に似ていることに気づいた。

「見覚えのある山は、帰ってこられたか?」

「いや、これもさっきと同じで幻でしょうから」

「……だよなー」

 希望的観測なんぞ口にするんじゃなかった。幻の中では、当時の村の人々が、日頃の憂さを忘れるかのように、文字通りのお祭り騒ぎをしていた。

『つまり我にとってキンは人間で言えば血縁者、あるいは半身。暇を持て余せば思念を飛ばシ、他愛もなく語らったモノヨ。奴はほとんど頷くのみであっタガ』

 と語るギンの目線には、社の上で目を輝かせて祭りを見守る銀色の蛇がいた。恐らくあれが本来の姿なんだろう。しかしその姿は少し薄く、どうやら人には言えていないらしかった。

 そんなギンの下で、一人の少女が社を愛おしそうに撫で、何度も手を合わせていた。その姿は、今俺達の前で懐かしさに目を細める神様と、顔立ちや体型がそっくりだった。

『此奴は、老いて死すまで我を崇め続けた殊勝な人間デアル。我が人の姿を模倣してみるト、自然とこの姿だっタ。よほど記憶に根付いた人間なのであロウ』

 感慨深げに話すギンの感情を反映するかのように、舞台はまた別に移る。

 そこでは祭りの喧騒は完全に失われ、少し砂埃が目立つようになった社の姿は、以前よりも見窄らしく見えた。

『時を経た村ハ、やがて神への感謝を忘レタ。そして我を慕っていた人間も老いて爪弾きとなったノダ』

 その言葉を聞き付けたかのように、一人の老婆がよろよろと社の方に近づいてきた。継ぎ接ぎでなんとか形を保っている古い着物に、生きているのが不思議なくらいガリガリな身体、到底まともな状態には見えない。

 老婆は社の前に力なく跪いた後、子供の時と同じように社を撫でて、深々とお辞儀しながら手を合わせた。

 それは最後の力を振り絞ったものだったのか、そのまま老婆は静かに地べたに倒れた。銀色の蛇は慌てたように社の中から染み出すように出てきて、息も絶え絶えな老婆の傍らに寄り添った。

「ああ、蛇神様。やはりずっと見守ってくださったんだね」

 耳を澄ましてようやく聞こえるようなか細い一言が、最期の言葉となった。

「……確か。姥捨て山って奴だったかな」

「あれは童話やお伽噺の類に過ぎないですよ。少なくともルールとしての姥捨ては存在しないと言われています。そもそも、あのお話の原型は外国ですから」

 さらっとすごい雑学を披露する宮澤さんに、俺は小さく拍手を送ってしまう。

『我は此奴を哀れに思イ、急に虚しくなっタ。キンにもそのことを話したガ、奴は一言で返しおッタ』

 ──是非モ無シ。

 どこからともなく頭に響いてきた声に、俺と宮澤さんは思わず耳を抑えた。どうやらキンの返答を、そのまま俺達に伝えているらしい。

『我は悟っタ。現世において山を見下ろす日々が終わる時ハ、そう遠くない先に迫っているやもしれぬト。キンは既に諦めておるように思えル。しかし我は簡単に諦めるつもりはナイ。民の崇拝を取り戻せバ、我らの往年の姿も取り戻せヨウ』

 自分達を困った状況に引き込んだ当事者は、こちらを指差しながら命じてきた。

『さあ人間どもヨ、祭事を催す準備をするのジャ』

「どうして」

『お前は居眠りでもしてたカ? まずは我らに活気を取り戻すのダ!』

「でもここには二人しか人間がいないのに、あんな盛大な祭りは無理。二人じゃせいぜい寒い漫才くらいじゃないかと、俺は思うよ」

 実際問題、ギンが望む祭りを二人で盛大に催すのは不可能だ。ましてやあの場にいた歌い手や舞手は三流以下揃いと、神様本人がばっさり切り捨てたというのに。

「羽村さん、相手の機嫌を損ねるような発言は控えてください」

「いやでもね、やれもしないことをやりますって言って失望させちゃう方が、先方は嫌がるかなと思って」

「もうはっきり言います。羽村さんが首を突っ込もうとするとろくな目に合わないので、やめてください」

 今日出会ったばかりの年下の好青年から「あなたは一切信用できません」と改めて言われてしまった。反論しようのない俺は、ただ崩れ落ちるように落ち込むしかなかった。

 ふと隣を見ると、ギンはいつの間にか頭を俯けて、しょんぼりとしていた。

『ではどうすればいいノダ。かつてのような祭りはもう拝めないというノカ。我もキンと同じく諦めテ、消えるのを待つしかないというノカ』

 そのしょげた姿は、子供が万策尽きたと嘆いている時のそれにそっくりだった。俺は、そんな姿を見ながらひっそりと宮澤さんに耳打ちをする。

「あのぉ、宮澤さんよ、ずっと思ってたことがあるんだけど」

「……なんですか、今度は」

「いやまあ、ご本人に言ったら失礼になるのを承知で言うと、あの神様はどうも弱ってるように見えないよなー、なんて」

 その一言に、周囲の空気が凍りついた。どうやら俺の発言を耳に入れたらしいギンが、こちらをギョッとしながら見ている。

 明らかに只事ではない雰囲気に、宮澤さんはまた戦闘態勢へと移行した。

「だから言ったんですよ! なんで言うこと聞いてくれないんですか!」

「いや、だから聞こえないように耳打ちしたんだけども! まさかあんな地獄耳とは」

 そんな風に取り繕っている間も、ギンはその名の通り銀色に発光し始めた。一体何をしでかすかわからないので、宮澤さんは俺の前に立ち、いつの間に取り出した鉄扇を片手に完全に臨戦体勢だ。

 少し眩しい光はさらに輝きを増し、中から何が飛び出すかわからないと、俺は少しでも避けられるように腰だけは抜かさないようにする。

 やがて光が落ち着いてくると、ギンは目を瞑りながら俯いていた。そして、静かに独りごちる。

『……うむ、お前の言う通りジャ。我の力、思ったほどには失われておらヌナ。一体これはどういうことナノダ』

 物珍しそうに自分を見渡すギンの姿に、俺は後ろにぶっ倒れ、宮澤さんは力が抜けたように肩を落とした。



 *****




 美郷は改めてギンから詳細を聞き取ることとなった。ちなみに、これ以上引っ掻き回されたくなかったので、羽村には静かにするよう注意してから。

 ここ最近になって、キンのよこす返事に活気がないことをギンは気にしていたが、それに合わせて自身も調子が落ち込んでいることに気づいた。

 この時、ふと昔のことを思い出し、ギンは危機感を覚えた。いよいよ民からの信仰がなくなり、完全に忘れられようとしているのだと。

『我はこの事態を打開しようと考えタ。気づけば我は異界を作り出シテ、キンと多くの者を巻き込んでいタ』

 白太さんはその生まれた異界に気づいて、誘われるように向かってしまったのだろう。それを追って美郷も入り込んだが、今は後から来ると言っていた怜路りょうじが来た気配もないし、この異界は閉じられているのかもしれない。

 神様を自称するこの銀竜蛇は、自分の力をしっかり把握していないのかもしれない。あるいはほとんどのことが無意識で、制御するということすら考えていない可能性すらある。

 対応を間違えたら危険であろうことには違いない。あの羽村という男は、もしや実を言うと運がいいのかもしれないなと思った。

「一応確認しておきたいのですが、当人に確認は取られましたか?」

『……聞いておらんかッタ。せっかくこのような状況を作れたのであるカラ、奴が驚くような祭りを派手に開こうと思ッテ、奴は入れないようにしてあの家屋を作ったからナ』

 それが白太さんの言うところの縄張りだったのか。今は正確な検証はできないとはいえ、事態が起こった原因は十分推測ができる。だとすれば解決策もおのずと見えてくる。

「一度、面と向かってお話をしてみたらどうでしょうか?」

『……そうじゃノ。思えば我が一方的にまくし立テテ、奴の言葉はあまり聞いておらんカッタ。いずれこのままでは祭りもできヌ』

 すっかり暗くなった幻の世界の中で、ギンは何かを決意して立ち上がる。美郷が一安心しながら振り返ると、羽村が直立不動でこちらを見ていた。美郷はそこまで厳粛にしなくてもと思っていると、世界がゆっくりと白み始めた。





 元の世界に戻ると、物の怪達が美郷と羽村の顔を興味深げに見下ろしていた。

 どうやら幻を見せられている間は寝ていたらしいことに気づいた美郷は、反射的に飛び起きた。すると物の怪達も蜘蛛の子を散らすように逃げてしまう。

 美郷はもう一々無用な警戒をする気を失っていた。その気になれば白太さんと一緒に挑んでものの数分で片付くような相手だが、人に危害を加える様子がないのであれば、無闇に手を下すべきではない。

 羽村も続いて起き上がったが、まだ寝惚け眼といった様子で、しかしポケットの中のハムスターのことはしっかり確認していた。

 ──起キヨ。社ヲ開ク。

 そう言うので美郷は扉を開けると思っていたが、建物はまるで投影された映像のように薄らいでいき、やがてふと足元の感覚が消えた。

 驚きながらも美郷はなんとか着地したが、起き上がる寸前だった羽村は尻餅を付いて呻き声をあげていた。しかし、もう一人戻ってきたはずのギンの姿は見えなかった。

 ──キン、長ク待タセタ。スマヌ。

 声の方を美郷が振り返ると、ギンは蛇の姿へと戻り、キンと向き合って話していた。それを白太さんは少し離れて眺めながらも、美郷の元へさりげなく戻ってくる。

「やっぱり、キンの方もそこまで弱ってるように見えなかったから。よくよく考えると不思議だなとは思ってたけど」

 と、起き上がりながら羽村が話し始めた。すると白太さんは、その事情に踏み込んだ話をしてくれた。

 ──キン、拝む人、いた。人、病気で死んだ。キン、悲しい。

「どこにでも、殊勝な人はいるもんだなー」

 羽村は感心して深く頷く。さっきは思ったことを軽々しく口にしたように見えた彼だったが、今思うと言葉にはどことなく経験則のようなものがあるのを、美郷は感じ取った。

 改めてこの男の正体が謎めいてきたが、とりあえず美郷やこの蛇神兄妹に危害を加えない限りは、変に気負わなくてもいいと割り切ることにした。

 失礼な言い方も込み人物評をするなら、彼は迷うことなく変人と呼ぶほかない。ただ、悪い人ではないのは確かな気がした。

「だけど、いくら拝んでくれる人がいても、ずっと人の気配のない山で見守り続けるだけってのは、流石に寂しいだろうなぁ」

 そう羽村が独り言なのか、美郷に話しかけているのかわからない言葉を漏らした頃、ギンはようやくキンの事情も把握したらしく、ただただ謝り続けていた。

 ──キンも、大切にする人、亡くした。ギンの気持ち、わかった。

 確かそういう時、キンは「是非もない」……つまり、仕方がないと諦めた答えを出していた。しかし自分も同じ目にあったことで、ようやくギンの気持ちに共感できるようなったのだ。

 ──キン、恥ずかしがり。話す、苦手。

 見ればキンは、ギンはおろか、白太さんよりもたどたどしい口調で、必死に謝り返していた。初めて面と向かって出会った二匹(あるいは二柱)は、ようやく本当に通じ合えたのだろう。

 ──我、面倒ヲ皆ニ強イタ。面目ナイ。

 蛇の姿となって、小さな姿で頭を下げるギンに、周囲の物の怪達は顔を見合わせた。一泡吹かせる相談をしようものなら美郷も黙ってはいなかったが、野次は飛ばずこともせず、各々は早く元の世界へ帰りたいという一心のようだった。

 すると、異界の一部が歪み始め、亀裂の入った空間に穴が二つ穿たれた。その中からは、山の風景が少し垣間見ることができた。

 ──各々、在ルベキ世ヘ帰り給ウレ。此ノ異界モイズレ、無ヘト帰スル。

 すると、待ってましたとばかりに物の怪達はその穴へと潜り込んでいった。なかなかおぞましい光景だが、羽村は「掃除機に吸われてるみたい」と気の抜ける感想を述べていた。

 ──我、崇メ奉ル者、最早極僅カ。サレド皆無ニ非ズ。

 物の怪が一通り居なくなると、ギンが美郷の元に寄りつつ、記憶の中の映像を見せてくれた。孫を連れ、山中にある地蔵にしっかり拝んでいる老婆がいた。伝承を記憶し、崇め続ける人間がいたからこそ、どちらも今まで存続してこられた。

 ──我、コレ以上ヲ望マズ。静寂ノ中デ余生ヲ過ゴス。

「お祭りは、どうされるんですか?」

 美郷の質問に、ギンは小さく首を横に振った。諦めてしまったということなのは、態度から伝わってくる。

 だが、あれだけ望んでいた祭りをそう簡単に捨てるわけがない。どこか無理をしているギンにどう言葉をかけようか悩んでいると、横から羽村がのっそり出てきた。小さく手を上げているのは、発言を許可願いますということか。

 心配はしつつも、美郷はその口出しを止めはしなかった。

「遠慮なんかしなさんな。俺はこのお兄さんと違って役所の人間じゃないけどね、こき使われた経験なら山程あるんだ。世話になってる爺さんに頼んでみれば、きっと人は集められる」

 胸を叩いてそう豪語する羽村だったが、ギンの返事は煮え切らない。

 ──我、民ノ手ヲ煩ワセルコトヲ望マズ。

「神様が遠慮なさる必要はありません。時間はかかるかもしれませんし、往年のそれには及ばないかもしれませんが、祭事は何らかの形で復元してみせます」

 それでも遠慮しようとするギンに、美郷はすかさず声をあげた。同情心以上に、山の守り手がいなくては、汚れた山が新たな怪異の根源となり、二次被害を増やすことになる可能性もある。

 キンとギンは、他と比較すれば大きな力を持った神ではない。怪異との区別すら曖昧な存在とも言えるだろう。それでも物の怪が恐れる存在であるということは、一連の出来事を見ても明らかだ。

 この二つの神の存在は、山の清浄さを保つ力になっている。それを枯らすことだけはなんとしても避けたい。

 そして当然、人として当然起きる同情心も理由にある。

 ──キン、我、如何ニセバ?

 ギンに問いかけられたキンは、少し低く震えた声で「了」と答えた。白太さん曰く、自分の願いに沿って答えを出せ、と言いたいのだそうだ。

 それを聞いたギンは素直に頷き、なら祭りができるようにして欲しい、と美郷と羽村に申し出た。二人は快くそれを受けたが、羽村はそこまで口添えできる人間ではないので、約束はできないと言っていたが。



 *****




 ──程ナク、異界、消滅ス。汝ラ、在ルベキ世ヘ帰り給ウレ。

 呼びかけを受けて、宮澤さんと白太さんはキンの居た山へ、俺はギンの居た山へ戻ることになった。、霧のせいか気温もどんどん下がっているようで、どの道別れの挨拶をじっくりする暇がなさそうなので、俺はひとまず軽く握手しておいた。

「いろいろとご迷惑をおかけしました」

『なんだかよくわかんねぇけどよぉ、あ、ありがとなぁ。そ、そそそそそっちの蛇もなぁ!』

 ようやく出てきたぽんすけが、宮澤さんには聞こえない御礼の言葉を叫ぶ。しかし白太さんには聞こえたのか、一気にこちらに踏み込んできて、俺を見下ろした。そしてじっと俺とポケットを見た後、一言だけつぶやく。

 ──おつまみ?

「どれだけ言い方を変えても違うモンは違う!」

 相変わらず白太さんは言えばわかってくれるようだが、それでも少し残念そうな様子は変わらなかった。

「今度はこういう事件ではなく、観光で遊びに来てください」

「ああ、まあ、いけたら。その、お財布的に」

 是非、と言えない自分が情けないと思いつつ、いよいよ異界が歪み始めた。霧も深くなってきた。。

 急いでくださいと言う宮澤さんの声に急かされて、俺はギンの後に続いてその穴の中に入ろうとした。

 その時、身体が大きくぶるりと震え、鼻がむずっとし始めた。我慢しようと思ったが、無理だった。

「へっくしっ!」

 大きなくしゃみとともに俺は数歩後ろによろけ、驚いたギンが穴の中へ逃げこむように飛び込んでいった。

 さらに蹴躓いた俺の先には白太さんがいた。

 同じパターンは食うかと俺は身体を反らして避けたが、その影に俺を見上げているキンの姿があった。

 それをさらに避けようとした俺の先には、見覚えのない山の風景が見える空間の穴がぽっかりと空いていた。




 *****




 美郷は、目を細めながら目の前の現実を直視していた。

 正座をしながら、一人の男性が必死に美郷のことを拝んでいる。この人は本来、広島ではなくもっと遠い地で暮らしているはずの人なのだが。

 頑張って笑顔を作ろうとしても作れないその状況に、美郷は叫ばずにはいられなかった。

「なんでこうなるんですかぁ!」

 山の中に響いた切実な叫び声は、この山へと駆けつけてきた相棒にも届いたらしい。

 慌てて飛んできた怜路が見たのは、萎れたような男がみっともなく、今夜のまともな宿を工面して欲しいと懇願する姿だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る