科子さんと羽村さん

 滝のような豪雨の中、草川くさかわ科子しなこは雨宿りできる場所を探していた。

 今日はいつものバイトがない日だった。しかしいつも一緒に帰る友人がそれぞれ掃除当番ですぐ帰れず、雨が降りそうだからと早めに帰ることを薦められた。なので久々に一人での気楽な帰路になる……はずだった。

 家に帰るまでは曇り空のまま耐え抜いてみせて欲しい。そんな少女の庶民的な願いは天に聞き届けられることはなかった。まるで天邪鬼にでも願いが聞かれたかのような、嫌になるほどの豪雨だった。

 しかも降られた場所は、運の悪いことに空き地の多い道だった。コンクリート整備された道が敷かれているが、両脇を固めるのは廃業した畑の残骸やら、放置された住宅街建設事業の名残やら。かろうじて残された家も古びた木造住宅が多く、人が住んでいるか否かも一目ではわからない場所ばかり。

 傘を持ってくるんだった、と科子は自身の甘い見立てを反省した。だが彼女から言わせれば、梅雨時の天気予報が当てにならないのが悪いだろう、というのが本音だった。

 傘を持っていけばからっと晴れ、降水確率一桁の日に限って酷い土砂降りになる。今日は予報こそあったが、降るのは夕方……バイトがないならとっくに家へ到着し、筋トレでも始めているところだった。

 カバンを傘にしてなんとか防いでいるが、着衣はとっくに大量の水を吸っていて、纏わりつくような不快感は科子をイラつかせる。

 道中の石ころを走るついでに蹴り飛ばす。途端、泥がはねて靴下ごと革靴を酷く汚した。

 一秒と経たずに後悔しながら歯軋りする科子だったが、商店街に近づいてくると、ようやくポツンと佇む一件の駄菓子屋を見つけた。

「よし、あそこなら雨宿りできそう」

 駆け込んだそこは、とっくの昔に閉店した店だ。科子が物心ついた時にはもう閉まっていて、店主が急逝したとか夜逃げしたとかで放置されっぱなしらしい。

 店の前は休憩所のような形になっていて、屋根のついた空間が整えてある。営業当時から置かれている自販機とベンチはそのままなため、普段はお年寄りの憩いの場として勝手に活用されているそうだ。

 これで一安心と飛び込んだ科子だったが、安堵の表情はすぐげんなりとした顔へと変貌した。

「あれ、誰か来た。えーっと、君は確か、草川さん?」

「なんでここにアンタ……羽村はむらさんが」

 見覚えのあるよれよれの男が、水を吸いすぎた植物のようにぐったりしていた。いつぞや科子が切ってやった髪は少し伸びていて、おかげで趣味の悪い観葉植物感がより際立っている。

「とりあえず、あんまりジロジロ見ないでくれませんか」

 それを聞いた羽村が視線を少しずらしたかと思うと、言葉の意味を理解したようで、勢いよく首を反対に振り向けた。

 科子としては、羽村という男は完全に気を許せる仲ではない。スクールベストを着込んではいるが、そんな男相手に今の姿は見せたくはなかった。

「んーと、そうだったー。早く帰って、暴食ハムスターの面倒見てやらないとなー」

 そしてわざとらしい一言とともにその場から立ち去ろうとしたので、科子はピシャリと手刀で制する。

「アタシのせいでまた風邪引いた、とかになったら清子きよこに叱られるのはこっちですから。雨足が落ち着くまではおとなしくしていてください」

「……はい」

 羽村は諦めた顔になって、とぼとぼと座っていたベンチに戻り、科子はもう一方にあるベンチに座り込んだ。

 仕方なくスマートフォンで時間を潰そうと眺めてみると、そこには電池が切れかかっているという表示が光っていた。




 会話が途切れてから十数分、雨はその勢いをさらに増していった。

 これがクラスの男子と二人きりというシチュエーションなら、学園ドラマのような雰囲気にも浸れただろう。だが科子の隣にいるのは、三〇手前の若者とは思えない、酷くくたびれた男だ。

 本人はお兄さんと呼んで欲しいみたいだが、主張しているわりに若々しさを見せようという気が感じられない。大体、高校生の科子から見れば二〇代後半も三〇代もそんなに変わらないわけだが。

 ……いずれ自分もその年に差し掛かったら、焦って若く見られたいと思うようになるのだろうか。と、気に入らない男の姿に将来を悲観してしまった己に、科子はがっかりとした。

 待っている間、何度か雨の勢いが落ち着いたように見えることがあった。すると羽村は釈放された容疑者のように喜ぶが、雨はそれを嘲笑うかのように元に戻ってしまう。

 そんな光景が何度か繰り返され、羽村はとうとう不貞腐れてベンチの上で横になってしまった。こういう不安定な雨は通り雨だと相場は決まっているはずだが、それにしてはしぶとい。

 あまりにも止む気配がないので、科子も正直寝転んでしまいたい気分だった。

「そうだ草川さん、ご家族に迎えに来てもらったらいいんじゃないかね」

 羽村がふいに口を開いた。眠ろうにもこの雨音に苛まれた状況では、昼寝もできないと悟ったのだろう。

「生憎、両親はバリバリ仕事中ですし。姉はほぼ引きこもりだから、アタシが困ってても迎えに来てはくれないんで。電池も少ないから無駄遣いもできないし」

「ふーん。って、お姉さんいるとか初めて聞く話だな!」

「そりゃ話してないですからね。そもそも話す必要ないし」

 はっきりとした拒絶の意思を伝えると、羽村は苦笑いしながら引き下がった。

 きっとずぶ濡れで帰ったら、出迎えた科子の姉は泣いて「迎えに行かなくてごめんね」と平謝りするだろう。でも彼女にそれができるわけはないので、科子は別段怒ったりはしない。

 むしろ甘い考えで傘を持参せずに登校してしまった自分に、より一層腹が立ってきてしまった。

「清子くんに頼んだら、って、俺の言うことじゃないか」

「わかってるなら黙っててくれますか」

 ついついキツい言葉が出てきてしまう。警戒しているからというのもあるが、やはりこの男とは根本的に相性が悪い。

 はっきりと羽村はそれ以上何も言わず、ぼーっと天井と睨めっこし始める。完全にコンタクトを諦めた形だ。

 羽村を黙らせると再び静寂が戻った……かに見えたが、激しく降り注ぐ雨音は決して気持ちを落ち着かせてはくれない。

 つまり、黙らせたのは良いが、まるで間が持たない。羽村を相手にする時は、警戒しているぞと意思表示をしているせいか、ツンケンした態度が悪癖のようになってしまった。

「黙る前に一つ、風邪引きそうとかない?」

「ご心配なく、アタシいつも鍛えているから、どっかの誰かと違ってすぐ体調崩したりしません」

「そいつは、ごもっとも……毎度こういう日の翌日は寝込むことになるしな。また清子くんに面倒かけるのは避けたいけど」

「清子のこと、鬱陶しく思ってるんですか?」

 と、清子の話を出してきた羽村に、思わず科子は噛み付いてしまう。羽村の失踪騒ぎの時に一番心配して奔走したのは清子だったのに、この男はなんとも思っていないのだろうかと。

 少し憎しみを込めて睨んだ視線に気づいたかどうかはわからないが、羽村はため息を一つ付いてから答える。

「いや、日頃から生活改善のことでお世話になってるのに、ちょっと体調崩したくらいで余計な心配かけたくない、ってだけの話で」

「なら、従業員に行き先も告げずに消息を絶つなんて真似、しないことですね」

「肝に銘じさせていただきます。まあ、俺が清子くんのことを嫌になるなんてことはまずないからなぁ。むしろ、彼女に見捨てられないか心配で」

「清子がそんな薄情な人間だと思っているなら、一発殴らせてください」

 卑屈な羽村の言葉を聞いて科子が、拳を振り上げながらベンチに寝転がる羽村を見下ろした。

 キョトンとする羽村にそのままゲンコツの一つでも落としてやろうとしたが、それはできなかった。かつて親友に腕を掴まれ、止められた時のことを思い出したからだ。




      *




 科子は昔から自分の名前を気に入っていた。科という漢字の成り立ちのエピソードから、物事を正確に測れる人間になって欲しいという意図を込めて付けられたのだという。

 しかし、科という言葉には「科を作る」という言葉もある。媚びを売るという意味合いのものなのだが、これを知らなかった両親はこの名付けに後悔したそうだ。

 それを科子自身は気にしていなかったが、他人が同じ気持ちになるとは限らない。そしてある時、このもう一つの意味は科子を少なくとも障害となった。

 一悶着起きたのは、まだ科子が小学校だった頃のこと。

 学校に電子辞書を持ってきていたクラスメイトの男子が、ある日この科を作るという意味を見つけ、科子のことをからかうようになった。

 それを科子自身は気にしなかったが、この件はじわじわとクラス中に広まり、ほぼ全ての男子と一部の女子より、からかいや嘲笑の対象となってしまう。

 尚も気に留めず生活していた科子だったが、あまりにしつこかったので、調子に乗った男子を一発殴ってやろうと思った時があった。しかし、振り上げた拳は誰かに止められた。

 誰かと思うと、目を瞑って少し身体を震わせた少女が、必死に腕にしがみついていた。確か名前は原居清子といったか。

 邪魔をするならまずコイツからと思ったが、それより前に男子が殴りかかろうとしているのが見えた。

 振り払って相手をしてやろうと思ったが、すると清子は一転して科子と男子の間に割り込んできた。

 必死に首を横に振るのを見て、どうやら彼女なりに喧嘩を止めようとしているらしいことがわかった。

 ところが、味方ではないと悟った男子は清子ごと科子に危害を加えようとした。目を必死に瞑り、唇を噛み締めて痛みに耐えようとする清子を見て、科子はその手を取った。

「走って!」

 最早関係のない人間とは言えないにせよ、彼女の殴られる姿は見たくない。科子は反射的に教室から飛び出していた。そしていつも開いている裏門から、学校をも抜け出してしまったのだ。

 これが二人にとって、人生初のサボりだった。




      *




「なんで喧嘩を止めたのかって聞いたら、アタシのためだって言ってた。相手に暴力を振るったら、きっとアタシが悪者にされちゃうからって」

 拳を下ろしてベンチに戻った科子は、なんとなく昔話を始めていた。羽村が清子のことを想像以上に理解していないことを知ったから、少しでも教え込んでやろうという気持ちが働いたのだ。

 よく見るとベンチに寝そべっていた羽村は、いつの間にか身体を起こして科子の話に耳を傾けていた。

「あの頃の清子は、まだ戸籍上は清子っていう名前じゃなくて、そのことで結構馬鹿にされてた頃だったんです。そんな時、私が名前のことでからかわれているのを見て、居ても立っても居られなくなったんだろうって」

「たまに大胆なことをしでかすのは、昔からだったわけね……」

 と、羽村は少し嬉しそうに苦笑いする。悔しいが、科子としても同じ気持ちだった。

「清子は誰にでも優しすぎて心配になるような子です。でも、どうでもいい人の所に足繁く通うほど馬鹿じゃありません。アンタはもう、それだけ大事な人になっているんです。受け入れる気がないなら、はっきり拒否してやってください」

 自分で言葉にしてみて、改めて羽村に対する科子の晴れない気分がはっきりとした。

 清子の態度に裏があると思っているか何か知らないが、この男の人間関係に対する考え方の卑屈さが嫌だったのだ。

 突然科子の気持ちを聞かされた羽村は、深く俯いてから答えた。

「俺にできるのは、清子くんの気持ちを素直に信じることだけだよ。親友の君と違って、あれこれ立ち入れる仲じゃない身なわけだから」

 その言葉に科子がキョトンとするが、羽村は構わず続ける。

「俺はありのままでいることでしか、応えることはできない。来る者は拒まず、去る者は追わず」

「……なんか、すごい間違った開き直り方してる気がするんですけど?」

 その問いかけに、羽村は少しずつ勢いを弱めていく雨を眺めながら、微笑みつつ答えた。

「そんな間違ってる俺じゃなかったら、きっと清子くんと出会ってすらいないだろうから。だから俺は、自分なりに今を大切にしようと思う」

 いつぞや面と向かって話した時とは違って、前向きな気持ちを感じる答えだった。

 清子がいつか自分を見捨てたら平然と受け入れる、といった心構えは相変わらず気に食わない。だが、少なくとも羽村は差し出された手は素直に受け入れる気持ちにはなっているように見えた。

 駄目な男に懐いてしまったせいで、清子は日々を無駄にしている。そんな風に科子はどこかで二人の関係を訝しがってきた。

 思えばそんな疑りこそ、清子のことを信じていないみたいな気がして、科子は親友として悔しい思いになってしまった。

 親友にしかできない距離感もあれば、年の離れた雇い主と従業員という関係でしか、得られないものもある。

 科子はどこかで、羽村という男に嫉妬していたのかもしれない。子供が友達を取り合っている時のような、とても幼稚な嫉妬心を。

 情けなさで少し目が潤んだが、前髪から滴り落ちる水滴が、それを上手く隠してくれた。

「お、今度こそ止みそうな気配が」

 と、羽村が鼻をヒクヒクさせながらつぶやくと、雨音は急激に収まっていき、ジリジリとした日差しが戻ってきた。まるで早送り映像のような移り変わりだ。

 科子が見上げると、雲はまだ空を覆い尽くしているようだが、ひとまずさっきのような豪雨はすぐには来ないだろう。

「この様子だと、またいつ土砂降りになることやらだ。さっさと帰るとしますか」

「そうですね、お互い体調を崩して清子を心配させないように」

 科子の言葉に羽村は深く頷くと、軽く手を上げながら小走りで行ってしまった。

 その様子を静かに見送り、髪に纏わりついた水分を両手で払いながら、科子も出発する。

 雲間から差し込んでくる日差しが、周囲の湿気をより際立てるようだった。

 夏休みになれば、バイトのない日はなんだかんだいって、清子や伊智子いちことつるんで遊びに行くことになる。でも今年は羽村もいるし、どれだけ遊びにいけるのだろう。

 いっそ、暇潰しに自分も羽村のことを冷やかしに行こうか、とも思う。普段バイトでどういうことをしているのか、一度見たかったのもあったことだし。

「……あの人のこと、暇人呼ばわりできないな」

 思いつきで考えた予定の不毛さに、思わず科子は一人で苦笑いしてしまった。

 



「おーい! 科子ちゃーん!」

 空を見上げながら夏の気候を感じていると、自分を呼ぶ声がして、科子は前方に視線を戻す。

 思わずキョトンとした、どうしたことか、慌てた様子の清子がこちらに駆け寄ってきていたからだ。

「清子? どうしたのそんな慌てて」

「科子ちゃんが雨にやられて大変だって、羽村さんから聞いたから。身体寒くない? 大丈夫?」

「……あのオッサン、余計なことを」

 と、悪態をつく科子の頭に、清子は鞄から取り出した綺麗なタオルを被せる。母親に面倒を見てもらっているような感じがして気恥ずかしくなった科子は、表情を見せたくなくて俯いた。

「……アタシのことを教えた当人こそ平気なの? すぐ風邪こじらせるような人なのにさ」

「ここからはそこまで遠くないから大丈夫、って言ってたけど少し心配……道草しないで帰ってくださいって、言ってはおいたけど」

「言うことをちゃんと聞く人だっけ、あれ」

 と思わず不信を口にすると、清子は目に見えて心配そうな顔をした。少し様子を見ていこうと科子から提案すると、清子は少しだけホッとした顔になる。

「もし鼻水垂らしてたら、ネギでも突っ込んでやればいいんだから」

「絶対ダメ、食べ物を粗末にするのは!」

 少し頬を膨らませる清子の顔に思わず笑い出しながらも、二人は羽村の営む害獣事務所へと足を向けた。




 事務所に向かうと、着替え途中で上半身裸の羽村が居た。それに取り乱した清子が鞄を顔面に投げつけて卒倒させる惨事が起こってしまった。でもそれはまた別の、とても些細なお話。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る