2.礼蔵、宿敵と出会う

 二階の住人について、礼蔵れいぞうは以前からは大まかなことしか知らされていない。確か祖父にいつぞや聞いた時は「気まぐれで拾った根無し草」と言われたことだけは記憶している。

 礼蔵が昔ここに通わされていた頃にはもう居たらしいのだが、その姿は一度として見たことがない。確か看板には害獣駆除の仕事をしていると書いてあったはずだ。

 礼蔵はここに来てからほとんど外出していないが、上階からは生活感どころか人の気配すら感じ取れない。意識してみると不気味な状況だと思った。

 何かとても嫌な予感がしたが、子供が一人で住んでいるわけでもあるまいし、何か困ったことがあったら自分から来るだろうと、礼蔵は放っておくことにした。

 今の礼蔵は、店番までやらされているうえ、引っ越しの荷解きなどは完全には終わっていない。所詮代理でしかない大家の仕事など、求められない限り背負い込みたくなかった。

 余計なことを考えて疲れた礼蔵は、気分転換にと会計の横に備え付けられたテレビを何の気なしに点けた。

 テレビがまず映し出したのは、ワイドショーの特集コーナーだ。テーマは狙い澄ましたかのように「孤独死」である。

「……いやいやいやいや、上の人確か二〇歳ちょっと過ぎだったはずだろ。うちのジジィならいつ干物になっても不思議じゃないからまだしも」

 ――最近、若い人の孤独死って実は増えているんですよ。

 大学病院の医者が、テレビ慣れした様子でリポーターに解説している。座りすぎは身体に大きな悪影響を与えるという説明と同時に、近年はデスクワークメインな人間が多いと語る。

 結果、突然体調を大きく崩し、最悪死に至るケースもあるのだという。ゾッとしたが、二階の住人は害獣駆除を商売にしているのだから、外での仕事をしている以上、無縁な話だろう。

 と思って、礼蔵に新たな不安が沸いてくる。上の住人は、お世辞にも商売が上手く言ってるとは思えない。今まで顔を合わせなかったのは外に出る機会が極端に少ないからではないかと。

 それに追い打ちをかけるように、テレビは再現VTRを流し始めた。程々に近所付き合いをしていた若者が突然死を迎えるという内容で、最後は役者がパソコンに向き合っている途中、突然苦しみ始めて床に倒れてしまった。

「大袈裟な、他ならともかく、うちは流石に気づくわ」

 自分以外誰もいない店内で、礼蔵は独りごちる。自分を安心させるための一言を肯定してくれる相手はいない。

 ――私が昔住んでいたアパートでも、昨日まで元気だった学生さんが急にぱったり亡くなってしまって、ぞっとしました。

 コメンテーターが自分の経験談をあれこれと話し出す。しんみりとした雰囲気を醸し出すコメントの数々に、礼蔵は半笑いしながら顔を青くしていく。

 ――近所付き合いが希薄になっていく今だからこそ、この問題は決して他人事ではないように思えますね。

 という締めの言葉とともにコーナーが終わると、礼蔵は背中を強く叩かれたように立ち上がった。

「やっぱり、引っ越しの挨拶は大事だ! 僕は間違っていた!」

 返答のない独り言を大声で口にしながら、礼蔵は急いで外出中の札を作り、店の扉に貼り付けた。




 名前は羽村はむら正貴ただき。年齢は二三歳と礼蔵より八歳年上だ。害獣の駆除を専門とする個人営業の仕事をしている男で、祖父曰く「唐変木」である。

 これが、礼蔵の手元にある二階住人の情報の全てだ。それ以外は会ったことがないので顔すらもわからない。

「同じビルに住んでて、どうしてこんなに情報がないんだ」

 ある意味黒木田くろきだも似たようなものだが、意外と大家は入居者の素性を探らないのが普通なのだろうか、それか祖父が適当なだけか。

 店舗のある二階に続く階段は、何故か空気がひんやりとしていて薄気味が悪かった。そういえば三階で引っ越し作業をしているはずの黒木田の気配もない。

「なんなんだ、このビルは」

 まるで安っぽいホラー映画の世界に放り込まれたみたいだと苦笑いしつつ、礼蔵は事務所という名の玄関扉まで辿り着いた。

 扉には、害獣駆除の事務所だと示す小さな看板が貼り付けてあった。これがなければ倉庫か、あるいは空きテナントと見紛う静けさである。

 綺麗好きで余計なものを持たない主義なのか、と思ったが掃除があまり行き届いているのは言えなかった。玄関の小窓を守る鉄格子は薄汚れているし、玄関前も小さなゴミがちらほらと目につく。

 ズボラな性格が感じ取れる一方、そこに人が住んでる生活感自体が見えてこないのは、やはり薄気味が悪いことこの上ない。

 いざ目の当たりにすると最悪の結末を想像して気が引けたが、いざという時のマスターキーも持ってきた以上、覚悟を決めなくてはならない。息を呑みながらも礼蔵はノックして住人を呼び出す。

「どうされたんですかー?」

「うびゃあおお!」

 礼蔵の悲鳴と、扉へその身体をぶつけた騒音がビルの廊下に響いた。

「驚かせてしまいましたかー、ごめんなさいねー」

「く、くくく、く、黒木田さん?」

 そこには紙袋を両手一杯に抱えた黒木田が、相変わらず無垢な様子で微笑んでいた。相変わらず気の抜ける空気に安堵した礼蔵は、そのまま溶けるように床へ座り込んでしまった。

「大変! 大丈夫ですかー? すぐお水持ってきますよー」

「いや、結構。ちょっとビックリしただけですから。お気遣いなく」

 なんとか平静を取り戻して立ち上がる礼蔵を見ても、黒木田の心配そうに眺めていた。

「あー、そちらの方はー、今お留守みたいですよー? さっき挨拶しにいったんですけどー、お返事がありませんでしたからー」

「あ、そうだったんですか。いやぁ助かりました、僕もちょっと挨拶しにきたところで」

「あー、もし連絡がついたら私にも教えてくださいねー。お引越しのご挨拶はちゃんとしないとー」

 と言い残して去っていく黒木田を見送ってから、礼蔵はホッとして扉の方を振り返る。

 背後には、小窓からこちらの様子を伺う男の顔が見えた。

「……」

「……」

 あまりの恐怖に、今度は全く声が出なかった。悲鳴を上げたくても、声帯が金縛りにあったかのように、口からは乾いた吐息しか出てこない。

「あ……あ……」

「あ、じゃなくて。人の家の前で何騒いでんだ、アンタは」

「あ……?」

 一瞬幽霊の類と勘違いしたその男は、生きた人だった。無精髭を生やして髪の毛はやや暑苦しいくらいに伸びている。礼蔵を睨む目は生気が薄く、どこか虚ろな印象を受けた。

「えっと、あなたは?」

「ここの住人に決まってるだろうが。というか扉の看板が見えないのかね」

 ぶっきらぼうに返されて、礼蔵は少しむっとなる。どうやらこの男が羽村正貴という男らしい。

「まさかアンタ、今の騒ぎで看板を落としたか?」

「い、いえ、そんなことは」

 ツンケンとした態度に気圧される一方で、こんな暗くて陰険な性格の男が住人なら、気配を感じないのも当然と、謎が解けて一安心する気持ちもあった。

 それはさておき、こんな相手でも大家代理として来た以上、挨拶はしておかねばならない。礼蔵は改めて姿勢を正して向き合う。

「いろいろゴタゴタしましたけど改めて、僕の名前は……」

「もういい。また新聞の勧誘でしょ? 取らないって言ってんだから、いい加減諦めろっての」

 と、羽村が小窓を閉めようとするので、礼蔵は慌てて引き止めた。

「ちょっと待ってください! 玄関前で騒いだのは謝りますけど、僕はそういうのじゃないんですって」

「どこの新聞のバイトさんか知らないけど、よくもまぁ飽きもせず差し向けてくれるよ。先週は勧誘のオッサンよこして、二時間も押し相撲取らせやがってさ。扉が壊れるかと思った」

「いや、新聞とかは関係なくて」

「扉閉めようとしたら急に足突っ込んできてさ、咄嗟にチェーンかけたから良かったものの、しかもあのオッサン汗臭くて……思い出したらまた気持ち悪くなってきた」

 礼蔵の言葉などまるで聞く気がない羽村は、大きくあくびをしてから小窓に手をかけた。

「また寝るから、もう人の家の前で騒ぐなよ」

 取り付く島もないまま会話を打ち切られた礼蔵は、呆けた顔でしばらくその場に突っ立っているしかなかった。



 夕方、祖父からの国際電話を受け、礼蔵は要件を聞く前に上の住人への文句をぶちまけた。祖父に怒っても仕方ないことだが、誰かにこの苛立ちをぶつけなくては気が収まらなかった。

 家の前で騒いでしまったことに罪悪感がないわけではない。しかし、その謝罪も含めて話すことはいろいろあったのに。そもそも自分が適当にあしらわれること自体、プライドを傷つけられたような思いだった。

「終わったか? これが国際電話ってことを忘れんなよ」

 という祖父の冷めきった言葉を返された礼蔵は、口に石でも詰められたような顔になった。

「アイツは死なない程度に見舞ってやりゃいい。それよりお前、ちゃんと町内会の新緑しんりょくさいの話し合いに出てるか? はぁ、それを確認したいから電話したってのに、なんでガキの愚痴を聞かなくちゃならんのか」

「知るか! というかいろいろ初耳だぞ!」

 それを聞いた祖父は、孫の無知さを嘆くようにため息をつく。そして、四月の中旬から五月の中旬まで続く「みどりの月間」にちなんで、五月の頭に開催する小規模な祭だと伝えてきた。

 そして、その祭の実行委員として自分の代わりに働けというのである。ちなみに、バイト代などは一切出ないという。

「いやいや! 僕がなんでボランティアまでカバーしなくちゃいけないんだ! 今はジジィの店番だって押し付けられてるんだぞ! 僕の春休みを返せ!」

「爺ちゃんが社会勉強の場を提供してやってんだ。友達いねぇなら休みの間は暇だろうが。ありがたく暇潰しに使え」

 勝手に独りぼっち扱いされて言い返そうとしたが、礼蔵の口から反論の言葉が出ることはなかった。

「一人でやるのが面倒って言うなら、上の唐変木を呼んでこい」

「僕が行って言うこと聞くような奴か? 今日だって門前払いされたばかりなのに」

「ヘッポコが。取っ掛かりが欲しいってんなら、一つ切り札を使わせてやる」

「大袈裟な……そんな個人を縛れるものって、何があるって言うんだよ」

 祖父の言葉を疑いながらも、礼蔵は言うことに従って、戸棚に閉まってある一枚の書類を取り出した。

 内容を見た途端、礼蔵の険しかった顔が怪しげな笑みへと変わっていった。




 羽村との一悶着から二日後のこと。

 小鳥が囀り始めた早朝、ビルの二階から足音が聞こえてきた。

 ようやく気温が春めいてきた季節ではあるが、まだまだ朝は肌寒い。そのせいか足音の主も寒さに声を震わせている。

 その人物が降りてくる気配を見計らい、その行く手を塞ぐように礼蔵はひょっこりと現れた。相手は驚いて階段上で少しよろけたが、間もなく体勢を持ち直した。

「あ、いつぞやの新聞勧誘の眼鏡」

「眼鏡で悪かったな」

 階段上で羽村が指差しながら驚く姿を見て、礼蔵は初めてその全体像を見た。よれよれのワイシャツに使い込んだスラックスという組み合わせが、よりこの男から退廃的なイメージを香らせる。体型は痩せぎすな感じだが、何故かひ弱な印象は受けない。

「ずっとここで待ってたのか? 最近の勧誘って酷ぇことさせるな。バイト代の割に合わないだろ」

「だから違うって言ってんだろ。僕はここの大家代理、コルフの孫の礼蔵だ」

 と堂々と名乗りながら、礼蔵は一枚の紙切れを取り出す。羽村が目を細めてそれを確認すると、腹に一撃を食らったような顔をした。

「なんと、お爺さんのお孫さんでしたか、いやはや本日はお日柄もよく」

「良いご身分ですなぁ、随分と家賃を滞納してるじゃないか」

 不自然すぎる話題転換を即座に制止する。そして家賃の滞納額と期間がバッチリと記された書類を突きつけると、羽村は観念したように肩を落とした。

「お孫くん、俺だっていつも悪いと思ってる。特にここ数年はほとんど居候みたいな状態だからね。でもお宅のお爺さんは心の広い御方で、許してくれているんだ。俺もすぐ払えるような立派な若者になろうと努力している最中で」

「その爺さんが、この書類の存在を僕に教えてくれたんだよ」

「あんのジジィ! 何が目的だ! このクソガキに俺を手懐けさせるためか!」

 クソガキ呼ばわりにカチンと来たが、礼蔵はあくまで落ち着いて話を続けようと平常心を心がける。

「そのクソガキに手懐けられたくないなら、弱みなんか見せなければいい。自業自得だ」

 が、口からつい嫌味が漏れ出てしまった。羽村は礼蔵を睨みつけるが、咳払いをして気持ちを落ち着かせた。今更余裕のあるところを見せようとするかのように。

「まあまあ、なんとかくん。ここは穏便に話し合いましょうや」

 羽村は話を切り出しながらさりげなく書類を奪おうとするので、礼蔵は羽村にひったくられないように避ける。コピーなので盗られてもそんなに痛くはないのだが。

「なんとかじゃない、礼蔵だ。この一件であの家を追い出されたくないんなら、僕の指示に従ってもらう」

 そう言って礼蔵は、わざと書類をひらひらと揺らす。コピーを必死になって奪い取ろうとする姿に、少し楽しくなってきてしまったのだ。

 すると羽村は悔しがってこれ見よがしに歯軋りする様を見せつけてきた。その時々で表情や態度がころころ変わるので、礼蔵はこの男がわからなくなってきた。

 気を取り直して礼蔵が要件を伝えようとすると、羽村が指差しながら叫んだ。

「あ、それジジィから押し付けられた仕事だろ! 俺に丸投げしようなんて、考えが汚いぞ、冷蔵庫!」

「なっ、誰が冷蔵庫だ貴様!」

「うっさい! 弱みにつけ込んで人を操ろうなんて冷酷な奴、冷蔵庫の化け物だ!」

 礼蔵は開いた口が塞がらなかった。洒落にならないレベルで家賃を滞納している男の態度とは思えない。あげく吐き捨てた悪口は、幼稚極まりないにも程がある。怒りと困惑が綯い交ぜになって、言葉が出るまで間が空いてしまった。

 どうやら論破したと思っているのか、胸を張る羽村の表情を見て、礼蔵もようやく反撃する。

「子供か! ちょっと祭で面倒事を引き受けるだけで、溜まりに溜まった家賃を少しはチャラするってジジィは言ってるんだぞ? 貴様、文句言える立場だと思ってんのか!」

「ここじゃ新参なのはお前なんだから、少しは先住民に気を遣ったっていいだろ!」

「言ってることが駄々っ子より酷いぞ……小学生に戻って一から常識を学び直せ!」

 そう言い争っていると、ビルの入り口に人の気配を感じた。揃って振り返った二人に待ち受けていたのは、肌を刺すような冷たい水だった。

「朝からうるせぇぞガキども! 喧嘩ならその辺りの公園でやってこい!」

 初老の男性に叱られた二人は、水を与えられたのにも関わらず、萎れた花のように頭を下げた。



 翌日から、二人仲良く風邪を引いて数日寝込んだのは言うまでもない。

 そしてこの日以来、ラッカルトビルと名付けられた雑居ビルから、しばしば子供のような大人の喧嘩が聞こえるようになったという。

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