現代番外編
伊智子のバレンタインデー
背の低い少女が、チョコレートの棚の前で立ち止まった。
バレンタインギフトコーナーと題されたそこには、大量のチョコがギリギリまで積まれている。
チョコを見る少女の目は虚ろで、少し隈ができていた。やがて彼女は、突き動かされるようにチョコへと手を伸ばす。
そこへ、ボーイッシュな短髪の少女が飛び込んできて、背の低い少女の腕を素早く掴んだ。
「こら、何やってんの
伊智子と呼ばれた少女は、目を丸くして自分の掴まれた腕を見る。そして相手を確認すると、虚ろな目のままもう一方の腕で敬礼のような手を作った。
「おや、
「何が奇遇だ。アンタが逃げたから探しに来たんでしょうが!」
と怒鳴りながら、科子と呼ばれた少女は伊智子の耳をぐっと引っ張った。
そんな二人に続いて、髪が長くて温和そうな少女が肩で息をしながら追いついてきた。
「し、科子ちゃん、伊智子ちゃん、どうかしたの?」
「見ればわかるでしょ
科子が説明してから鋭く睨むと、伊智子は不気味な笑顔を浮かべつつ、弱々しく答えた。
「へへへ、キヨチー先生、ワタシはもう限界っすよ……」
「あそこまで作ったんだし、もうちょっと頑張ろうよ、伊智子ちゃん」
「もういいもん、ワタシ弱い子だもん。だから妥協します」
と、市販のチョコに手を付けようとする伊智子を、科子が軽く叩いて止める。
「とりあえず場所変えよう、ここじゃ迷惑だから」
こうして三人は、訝しい視線で警戒する店員に会釈しつつ、そそくさと店を後にした。
あまり流行っていない古い喫茶店で、三人は一服することにした。一服と言っても、伊智子だけは机に突っ伏しているが。
「アタシ達だって手伝ってるのに、ちょっと目を離した隙にこれだから……まったく信じられないわ、アンタって奴は」
「あのねぇ! 家族やお友達へ義理だけ配ればいい貴方達はいいですよ? でもワタシはね、家族だけじゃなくて使用人の分まで作るんですよ。しかも手作りとか宣言しちゃったうえで! そんなん元から無茶だったんだよぉー!」
と、伊智子は頭を抱えた。彼女の家はちょっとした金持ちで、使用人を複数雇えるほどの裕福な家庭だった。もっとも、伊智子の姿には金持ちらしい華やかさはないが。
そんな彼女はバレンタインを控えた三連休に、生まれて始めての手作りチョコに挑戦しようとしていた。元々料理には自信があったのでそこまで苦労はしないだろうと思っていたのだが……料理と菓子作りとでは全く勝手が違ったのだ。
「金に物を言わせた感じになるのが嫌だから、手作りにしようって言ってたくせに。半泣きでアタシ達を呼び出して手伝わせて、あげく隙を見て逃亡? 後先を考えなさすぎ」
「そ、そんなこと言って、ナッコは全部市販で済ませてるじゃん!」
「アタシは身の丈にあった買い物をしただけ。本命がいるなら別としても、義理でそこまで頑張る必要ないし」
「うっ」
平然と言い返され、伊智子は言葉も出なかった。どうして自分は義理チョコで頑張ろうなんて言い出してしまったのか、と、自分を殴りたくなる気分だった。口は災いの元とはこのことなのか。
「わ、私は余ってた材料を無駄なく使えたから、ちょうど良かったよ?」
伊智子にとって、清子はアメ、科子はムチであった。よって、伊智子が甘えるのは必然的に清子となる。わざわざ席を移動してまで頬擦りする伊智子を見て、科子は呆れと怒りの混じった眼光で睨んだ。
しかし、こうして喫茶店でお茶していても、バレンタインの準備が出来るわけではない。
「でも、せめて
清子の言う砂城とは、
年が近い伊智子にとっては兄のような存在……になるはずなのだが、彼女の意識としては隣に住んでいる変な人、くらいの認識でしかない。
伊智子自身も変人であり、それを自覚しているが、砂城だけには言われたくないというくらい、彼もまた変わり者だった。いつも無神経にへらへらと笑っていて、話し方も実に呑気なうえ、知性の欠片も感じないような男だ。
少なくとも異性として魅力を感じる要素はないが、少なくとも感謝していることに違いはない。よって、彼には特別なものを作ってあげたいとは考えていたのだが……。
「アイツなら、食べられるものならなんでもいいと思うんすけどねぇ。花より団子、団子より車だし」
彼が運転手としてやっていけるのは、三度の飯より車が好き、というほど車を愛していたからだ。それで家業を継ぐのを嫌がって勘当され、途方に暮れていたというのだから、筋金入りだ。もし伊智子の父が拾わなかったら、今頃野垂れ死んでいたかもしれない。
「むしろ、感謝されるべきはワタシだと思うんですけど、お二人さんはどう思いますかねぇ?」
「はいはい、自分でやると決めたんだから、最後までやる。こっちは呼び出されてまで来てるんだから、中途半端は許さないよ」
「ふぇー」
「変な声あげてもダメ」
三人は、喫茶店の会計を済ませて、調理場として使っている清子の家へと戻った。
チョコ作りは、連休だけでは終わらなかった。そこで彼女達は平日の放課後も清子の家に集まって、チョコを作った。
ずっと文句を言っていた伊智子も、結局使用人や家族の分まで手作りする元気を取り戻した。しかし、肝心の砂城のために作ったチョコは、何度も失敗した。
七転八倒の末、ようやく伊智子が手がけた人生初の手作りチョコが完成した。
「いろいろご迷惑をおかけしまして、その、この借りは……」
ばつが悪そうに肩を竦める伊智子に対し、二人はあっけらかんと答えた。
「こんなことで一々借り作ってたら、伊智子の友達なんてやってられないでしょ」
「うん、美味しいチョコをちゃんと作れた。それが一番私は嬉しいよ」
そのように言ってくれる友達が居ることに、伊智子は改めて感謝をした。
「私の親友が二人で、本当に良かったよ……これはワタシからのお礼のチョコ」
と言って、伊智子は懐から綺麗に包装されたチョコレートを取り出した。お礼だと言って渡されたそれを見て、科子と清子は戸惑った顔になった。
やがて、事情を理解した科子は、訝しげに目を細めて、推理を伝えた。
「保険に買っといた奴を少しでも処分したいだけでしょ、これ」
「……」
伊智子は、ゆっくりと科子から目を逸した。
バレンタインの朝、伊智子は家族と使用人全員にチョコを配った。娘が作ってくれたチョコというだけで、両親は使用人が見ている中で大泣きした。
しかし、砂城個人のために作ったチョコはまだ渡さなかった。三人で頑張って作ったチョコなので、みんなで渡そうということになったからだ。
「今日は三人とも車でお出迎えして欲しいなんて、珍しいっすねお嬢さん。あははー!」
今日も朝から何が楽しいのか、彼は終始笑顔だった。運転している時の彼は、いつだって上機嫌だった。使用人の先輩からこっぴどく叱られ、萎れた花のように落ち込んでいたとしても、車の中にそれを持ち込んだりはしない。
否、車を運転出来る喜びで、嫌な気持ちが全て吹っ飛んでしまうのだろう。羨ましくなるくらい単純な構造をしていた。
「もう何年になるっけ」
「え、何がっすか?」
「うちに来てから」
「んーと、えーっと。忘れちゃいました。ま、どうでもよくないっすか? ははっ!」
だから、こんな質問にも頭が追いつかなくて、砂城は適当に答えてしまうのだ。
「流石、良いご身分ですことねー」
少し気取ったような口調で、伊智子は嫌味混じりに返事をしたが、彼は朗らかに笑ったままだった。
伊智子は今でも覚えている。小学校を卒業した夜、家族全員で行きつけの老舗を貸し切り、顔馴染みの店主達と祝った帰り、砂城は椿家の車を舐めるように見ていたのだ。
使用人達に引き剥がされると、彼は今生の別れの場面に遭遇したかのような、悲しそうな顔をした。
「あの人、面白そう」
それを面白がったのが、伊智子だった。
実際、傍から見ていると面白いため、伊智子は自分の見る目に狂いはなかったと思っている。運転に関してずば抜けていたのは、流石に想定してはいなかったが。
途中で清子と科子をそれぞれの家で拾い、スムーズな運転で学校へ到着する。うっかり寝てしまいそうになるくらい丁寧かつ迅速な運転技術は、正に天賦の才だなと伊智子はいつも思う。
「では、いってらっしゃーい!」
作法もへったくれもない見送りの言葉をかける砂城だったが、三人は揃って振り返り、立ち止まった。さしもの砂城もキョトンとして首を傾げる。
少し驚いた様子の彼を見て、三人は顔を合わせてから大きな包みを渡した。砂城の首がゆっくり深く傾いていく。
「今日は何の日でしょうか」
「え? うーんと……あっもしかして今日って、祝日で学校休みっすか?」
三人は、申し合わせたようによろけた。この男は、学校に入っていく生徒達の姿が見えないのだろうか、と伊智子は呆れ果てるばかりだ。
「お前さんよ、この包み見てもなんだかわかんねぇべ?」
少し哀れんだような声音で伊智子は問いかけるが、砂城はまだピンと来ていないようだ。やがて業を煮やしたのか、科子が「バレンタインデーでしょ」と伝えると砂城は気のない声で「あー」と返事をした。
もしかして、本気でまったく興味がないのだろうか、伊智子は少しだけ不安になったが、別に義理なんだからどうでもいいかと思い直す。
そして、手作りチョコを自分よりずっと背の高い砂城に掲げながら、堂々と告げる。
「なんと、このお嬢様たるワタクシが、こちらのご友人二名とともに、チミのために作った、バレンタインのチョコでございますことよー!」
「え、俺にっすか?」
少し気取った台詞を無視し、砂城は呆けた顔で包みを開け放ち、中身を見て目を見張った。まるで子供のような、キラキラ輝いた目だった。
「わー、ハンドルだ! すっげー!」
車のハンドルに見立てたチョコを見て、彼は子供のような笑顔を見せた。裏表がないからこそ、彼は誰が見ても嬉しいのだということが見て取れて、作った三人も嬉しい気持ちになる。
――あれ、なんだか、思ったよりも嬉しいぞ。
伊智子は思わず自分が素直にニヤついていることに気付いて悔しいような恥ずかしいような、複雑な気持ちになった。しかし、悪い気分ではない。
「よーし、早速付け替えてみようかな!」
「いや、食べるためのチョコだっての!」
朝の校門前で、科子の鋭いツッコミの声が轟いた。
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