礼蔵くんとペアチケット

 礼蔵れいぞうは、自室で頭を抱えていた。

 机の上にあるのは、近くにロードショーとなる映画の試写会の招待券だ。

 ヒューマンドラマを目指した海外映画で、国内のコアな映画ファンも上映を待ち望んでいたという。コマーシャルでは、今話題の天才子役が主演と銘打って宣伝していて、今やあどけない少年の笑顔をテレビで見ない日はない。

 礼蔵は、そんな映画のチケットと睨めっこしながら、目を見開いている。

 はっきり言って、礼蔵はこの手のお涙頂戴な映画に興味はない。ただ、祖父が適当に応募した試写会チケットが、運良く当たってしまったのだ。

 しかし、肝心の応募した本人はもうこの国にはいない。また仕入れと称して外国へ旅をしているのだ。元々この国出身でないせいなのか、はたまた旅行好きなせいか、祖父が自らのビルに帰ってくる時間は非常に短い。

 礼蔵の家の事情はさておき、応募した本人が「くれてやる」と手紙を残して旅立ったので、チケットはあっさり礼蔵の所有物となった。

 別に興味が無い礼蔵は、大学の映画好きの人間に売り捌いてやろうか、という邪な思いが浮かんだ。しかし、ふと笑顔が眩しい清楚な少女、原居はらい清子きよこの顔が頭を過 ぎり、考えを改めた。

 むしろこれは、清子とより仲良くなるチャンスなのではないかと。




 礼蔵は現役の大学生である。祖父からビルの管理というか監視役を命じられ、さらに自宅で営業している海外のガラクタを転売同然で売り捌くろくでもない商売の店番までさせられている。

 おかげで勉強をする時間が減っていてイライラしていた時、やってきたのが原居清子という少女だった。

 人に安心と元気をくれる天使のような笑顔。手を合わせたくなるくらい真面目で慈愛に満ち溢れた性格。礼蔵の目に映る清子は、いつも後光が差しているようだった。

 そんな礼蔵と清子を阻む壁が一つだけある。二階で害獣駆除の事務所を営む家賃滞納者、羽村はむらという目障りな男だ。

 怠惰が服を着て寝言をほざいているような人間だが、どんな因果なのか、清子はその事務所の助手として雇われてしまった。

 雇う余裕があれば先に家賃を払え、と言いたいところだったが、礼蔵は清子がこのビルに通う理由になるとして、渋々を装いつつ了承した。それから清子は、仕事外でもこのビルへ遊びにくるようになった。

 最初は名字でしか呼べなかった礼蔵も、おかげで時本人から「名前で呼んでください。その方が私は慣れているし、好きなんです」と言われるくらいの中になった。というわけで堂々と下の名前で呼んでいるのだが……。

 はっきり言って、それ以降はまったく進展がなかった。

 その一方で、雇い主である家賃滞納者との仲は順調に深まりつつあるように、礼蔵には見えた。最近は、いつも金欠で飯を食うにも困っているという奴のため、自炊させようと一念発起したくらいだ。清子に言われたこともあり、礼蔵も渋々必要な品を提供したが、心中穏やかではなかった。

「自分で作った料理で食中毒にでもなって、一週間くらいもがき苦しめ!」

 そんな呪詛をたくさん込めてから渡したことは、礼蔵だけの秘密である。

 これだけ通い妻のような真似をしておきながら、家賃滞納者と清子の関係は雇用関係以上、恋人未満という微妙な位置で推移していた。ちなみにこの評価は清子の友人であるボーイッシュ少女、科子しなこからの評価であるが。

 ここらで一つ、自分の存在感と男としての価値をアピールして、あの粗大ゴミよりも厄介なろくでなしに差をつけなくては、と思っていた時、最高の武器が礼蔵の手に舞い降りたのである。

「ついに僕が、で、で、で、デートを、せっちぇ!」

 言い慣れない言葉に動揺し、礼蔵は思いっきり舌を噛んだ。

 さて、少女に一目惚れするくらい直情的な要素のある礼蔵だが、本来はなかなか慎重な男である。

 まず礼蔵は、このまま嬉々として清子に映画のチケットを渡すのは、得策でないと考えている。清子の性格なら、ああいったヒューマンドラマは好きそうに見えるが、落ち着いた性格でもあの手の映画が苦手という人は十分いる。

 リサーチするに越したことはない、と礼蔵はその日から行動を開始した。




 礼蔵がまず向かったのは、清子達の通う学校の最寄り駅にある商店街だった。

 ちなみに今の礼蔵は普段とは正反対の格好である。サングラス、やたら大きい麦わら帽子、そして極めつけにアロハシャツと短パン。これらは全て、祖父の私物である。いつもビルの管理や店番でこき使われているのだから、これくらいで文句を言われる筋合いはない、と頭の中で言い訳をして勝手に拝借している。

 老人趣味のファッションに身を包むことへの恥はあった。しかも夏手前の微妙な時期にこの軽装備は肌寒い。だが全ては清子の好みを調べるためだ、と礼蔵は我慢しているのである。

 しばらく適当に時間を潰していると、見覚えのある三人組の姿が見えてきた。清子と、その友人の科子と伊智子しなこだ。

「段々暑くなってきたと思ったら、またちょっと涼しくなっちゃったね」

「確かに、夏服はまだ早かったかもしれないかも」

 と、ボーイッシュな少女の科子が、身を縮こませつつ言った。そう聞いて見てみれば、科子だけは半袖で、他の二人は未だに長袖である。

「そんなこと言っちゃって、ナッコって半袖で一年中過ごして、小学校の健康賞みたいなのを狙ってたクチでしょ?」

「アタシを何だと思ってんの、お前は。確かにそういうのは男子に居たけど、アタシは冬場だったらしっかり着込んでたっての」

 小学生並みに背が小さい少女である伊智子が、茶化すように言う。しかし科子は軽く一蹴した。

 当たり前だが、映画の趣味がわかるような話題はしていない。せめて昨日見たドラマの話とかをしてくれれば、と礼蔵は歯噛みする。

 途中で三人は近場のコンビニに立ち寄った。さっきの話の流れから、話題が大きく変わるとは思えないが、一応確認しようと礼蔵も後に続こうとする。

「あのー、失礼ですがー?」

「はい、なんでしょわぁぁぁ!」

 声をかけられたので振り返り、礼蔵は思わず叫んでしまった。長い髪を右側だけ三つ編みにした女性が、こちらをニコニコと眺めていたからだ。

 礼蔵は、この女性と面識があった。というか、自分が管理しているビルで暮らす女性、黒木田くろきだが立っていたからである。

 ビルの三階という立地が悪い物件で、一風変わった喫茶店を営業している人だが、二階の滞納者と違って家賃が滞ったことはない。

 いつも温和を通り越して脱力感すらある笑顔が特徴で、性格もそれに見合ってのんびりとしている。

「驚かせてしまってすいませんねー。お店の場所をお尋ねしたかったのでー」

 どうやら黒木田は、礼蔵の変装に気づいていないようだった。よって彼は、あくまで他人としての態度を貫くことに決めた。

「ぼ……ミーも最近引っ越してきたばかりで、この町のことよく知りませんの、でーす。なのでお力にならないと思うカナー。あは、ははははは」

 なんとかごまかしてみると、黒木田は少し困った顔をしながら、素直に諦めて去っていった。

 しかし、黒木田は何を探しにやってきたのだろうか。

 確かに自分達の住む商店街は寂れていて、軒並み廃れたジャンルの店は潰れている。痒いところに手が届かないからこそ遠出をしてまで探しているのだろう。逆に言えば、届かなすぎて黒木田のお目当ては見当もつかない。

 礼蔵の元を去った黒木田は、やがてコンビニから出てきた清子達と鉢合わせになった。すると、コンビニの近くで何やら話し始めた。

「レンタルビデオ屋さんを私探しているんだけどー。でもここ辺りはあまり来ないからー、場所がよくわからなくてー」

 断ってしまったが、礼蔵の記憶によると確かここのレンタルビデオ屋は地下階にあったはずだ。潰れたライブハウスの跡地に作り一時期は栄えたが、ビデオソフトが次世代化すると波に乗れず、客足は遠のく一方らしい。

 近々閉店するのではないか、と礼蔵も顔を出す地元の商店会では噂されている。何故そんな噂をするかと言えば、商店会同士で陰口を叩きあっているからだ。同時に反面教師にしているのだから、抜け目がない。

 老人達の井戸端会議はさておき、コンビニの前では清子と伊智子の二人きりになった。すると、ふいにレジの方を見た清子が、口を開いた。

「あ、あの映画っていつもCMやってるよね」

「ん? ああ、ラウピスくんが主演する奴かー」

 伊智子が今口にしたのは、正に礼蔵が前売り券を手に入れた映画の主演子役だ。

「私、伊智子ちゃんが誘ってくれないと、あんまり映画を見に行く機会がないけど、テレビでやってると見ちゃうなぁ」

 礼蔵はこっそりとガッツポーズをした。とりあえず嫌いなジャンルという線はなさそうだ。

「へぇ、きよちーって実は年下好き?」

 が、そのガッツポーズはすぐに震えへと変わった。

「別にそういうわけじゃ……そもそも、あんまり私は役者さんに詳しくないから」

 という清子の反応に、礼蔵は心底ホッとして脱力する。

 後顧の憂いは無くなった。あとは次に清子がビルを訪れる時に、思い切ってペアチケットを渡して誘ってみよう。

 そう思った時、少し寒い風が吹き、礼蔵は凍えて震え上がった。

「うぅ、寒っ」

「あ、科子ちゃんおかえり」

 同じく、寒さに震えている科子が、身体を擦りながら帰ってきた。黒木田がいないということは、ちゃんと送り届けることができたようだ。

 妙に寒がる科子を見て、伊智子は面白がってかクスリと笑った。

「ちょっと、何で笑った」

「いやいやいやいや、天下のナッコさんが、まさか体温調節にしくじるなんて、と」

「なんで無駄に買い被ろうとしてるのさ、コイツめ」

 と、科子は軽く伊智子の頭を小突いた。オーバーに痛さを表現しようとする伊智子に、清子は苦笑いするしかなかった。

「最近は気温の差が激しいし、服選びが難しいのは当然でしょ。ほら、あそこにも南国帰りみたいな人いるじゃん」

 と、急に指を刺された礼蔵は、思わず避けるようにそっぽを向いてしまった。これではあまりにも不自然過ぎる。

 一度意識されると、この姿はあまりにも目立ちすぎた。三人から注目されているのもそうだが、周囲もその声を聞いてか視線をちらちら向けているのを感じる。

「あの人は雰囲気も外国の人っぽいし。余計に大変だろうね……」

 礼蔵はこの国の育ちだが、ハーフなのであながち間違いではない。よりによって清子に見破られそうになり、気恥ずかしさが余計に増してくる。これ以上分析されるといよいよ身分が割れそうだ。

 とりあえず、必要な情報はしっかり得られたことだし、長居は無用である。礼蔵は、あくまで「さりげなく」をアピールしつつそそくさと商店街を後にした。




 二日後、清子は二階の家賃滞納者の事務所を目指してやってきた。今日の荷物的に見ると、どうやらまた自炊に役立つ料理を教えに来たらしい。

 いつもなら羨ましいと歯軋りする礼蔵だったが、今日はむしろ緊張していた。手にはもちろん、試写会のペアチケットが握り締められている。

 一度、上の事務所に入ったら、清子はしばらく出てこないし、帰りは醜いアラサーが見送りに出てくるので、話しかけづらくなる。

 二人きりで話すならば、こうして訪れた今を置いて他にない。

「清子さん! い、いらっしゃい」

「あ、礼蔵さん、こんにちは」

 清子は挨拶を返しながら、屈託のない笑顔を見せた。礼蔵にとってはこんな些細な表情すら、身体が消し炭になりそうな衝撃となる。

 と、礼蔵が幸せのあまり硬直しているうちに、清子はそのままビルの中に入ろうとしていた。

「ちょっと待って! 少しだけお話を!」

「はい、なんでしょう?」

 必死に引き止めた礼蔵は、呼吸を整えてから清子と向き合う。しかし、相手の目をしっかり見ようとする清子の真っ直ぐな眼差しは、冷静になろうとする礼蔵をかき乱す。

 試写会の招待券を握り潰しかけてようやく我に返った礼蔵は、まず話を切り出す。

「実はですね、映画の試写会チケットが手に入りましてね」

「試写会、ですか? あ、これよくCMをやってるあの……」

 清子は物珍しそうにチケットを眺める。礼蔵自身もそうだが、反応からして清子も試写会とは縁がなかったようだ。これは好奇心も作用して、良い返事が貰えるかもしれない。

「本当はうちのお祖父様がいくはずが、生憎都合が合わず。しかしせっかくのペアチケットなので、誰かを誘おうと考えていまして」

 と言ってチケットを差し出すと、清子が首を傾げた。

「もし興味があれば、清子さんも一緒に」

「あー清子ちゃんこんにちはー」

「……良い所で」

 せっかく話を切り出した矢先に、突然黒木田からの横槍が入ってきて、礼蔵は何もないところで躓いた。

 どうやら黒木田は買い物に出かけるらしく、買い物バッグを手にぶら下げていた。すぐに立ち去るだろうと思いつつ、不貞腐れた顔で礼蔵が腕を組んで待つ。

 すると、急に腕が細い手で掴まれた。

「これはラウピス・エランくん主演の新しい映画の試写会チケットじゃないですかー礼蔵さん、どうやって手に入れたんですかー!」

 黒木田が珍しく興奮して、礼蔵の腕を掴んでいた。掴まれた当人は面食らって、頷くことしかできなくなっている。

 子供のように目を輝かせる黒木田の姿など滅多にない。傍らにいた清子も驚いている。

「えっと、このチケットは……」

「いいですねー、羨ましいですねー。一昨日にー、丁度ラウピスくんの映画借りて見てたところだったんですよー」

「そ、そうだったんですか。すごいファンなんですね」

 レンタルビデオ屋を探していたのはそのためだったのか。まさか意外なところに映画ファンが居たとは。同じビルで暮らしている礼蔵も知らない情報だった。

 黒木田の私生活はかなり謎に包まれているし、詮索する気もなかったが、あまりにもタイミングが悪い。

「感想一杯聞かせてくださいねー、とっても楽しみにしてますねー、本当は一緒に見に行きたいくらいですけどー、ペアチケットですものねー。はぁ、行きたいですー……」

 話しながらどんどんテンションが下がっていく黒木田の姿を見て、礼蔵の心に罪悪感が生まれる。

 正直言って清子と出かける口実に使おうとしていただけで、礼蔵自身この映画に興味はない。本来ならこういう興味のある人間が手に入れるべきチケットなのだろう。

 だが、清子との幸せな時間を思い浮かべつつある礼蔵にとって、黒木田は邪魔以外の何者でもない。

 なんとか追い払わなくては、と思考を巡らせようとして、礼蔵は少し冷静になる。

 ここまで見たがっている黒木田を差し置いて、清子にチケットを渡したら、自分はどう思われるだろうか?

 大体そんなことをしようものなら、清子が先に断りそうなものだ。黒木田と二人きりでデートだなんて、振り回されたあげく、興味のない映画を見る羽目になるのがオチだろう。

 非常に悩んだ後、礼蔵は一つの結論を出した。

「ちょ、丁度良かった! ペアチケットを誰かに渡そうと思ってたんですけど、これで二人見つかった!」

「え、私にもって、礼蔵さんはどうするんですか?」

 清子は驚きつつ、礼蔵のことを案じたが、当人はヤケクソ気味に笑って返答する。

「実は僕、あんまり映画に興味がなくてね! 清子さんが受け取ってくれるなら一つ捌けるって思ってたんですけど、黒木田さんも欲しがっていただなんて! これで無駄にならずに済みますよ!」

 空笑いをしながらそう伝えても、清子は不安そうに礼蔵を見ていた。ここまできたらもう勢いで渡そうと、無理矢理二人の手にチケットを掴ませた。

「それじゃあ僕は仕事があるので、当日二人で楽しんできてくださいね! では!」

 未練が残る前に、礼蔵はさっさと話を切り上げて店の中に飛び込んだ。

 そのまま奥に引っ込むと、飛び込むかのようにカーペットへうつ伏せになる。

「なんでこうなるんだぁぁぁ!」

 そして礼蔵は、倒れ込んだまま拳を床に打ち付けた。




 数日後、礼蔵はぐったりした様子で大学から帰ってきた。途中で黒木田とばったり出会い、散々映画の感想を聞かされたのである。

 試写会に行くのは二人揃って初めてだったようで、おまけに主要な俳優達がわざわざ登壇したこともあり、二人揃ってかなり興奮したらしい。

 そんなテンションの高い清子を見てみたかったぞ、と空に恨み言を吐きながら、自宅の扉を開ける。

 ふと、ポストの中に何かが入っていることに気づき、礼蔵は力なくそれを開けた。

 中にはビニール袋と、置き手紙が置いてあった。

「なんだ? 試写会のチケットありがとうございます。ささやかですがお礼に焼き菓子をご用意したので、宜しければ食べてください。清子……清子さんの手作りお菓子だと!」

 大慌てで礼蔵がビニールを開けるとタッパーが入っていて、蓋をあけると甘い匂いを香らせたクッキーが並んでいた。

 自分のために、清子がお菓子をこんなに作ってくれた。その事実を頭で何度も復唱した後、その中の一つを摘んで口の中に入れる。

 じっくり噛み締めながら、礼蔵は静かに震えた後、タッパーを天高く掲げた。

「僕の流した涙は、無駄ではなかった! ありがとう!」

 礼蔵は神に感謝するかのように、空へ向かって叫んだ。その後ろを、上階から降りてきた家賃滞納者……羽村が、思いっきり目を細めつつ通り過ぎたことにも気づかず。

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