礼蔵の昔話
1.礼蔵の出戻り
母親は礼蔵を産んだ後にすぐ亡くなり、父は生まれる前から稼ぎのために世界中を飛び回っていた。たまに帰ってきても無口な父親はほとんど口を利かず、食事の時間にしばしば礼蔵の頭を撫でるのが精一杯の愛情表現だった。
いつも顔を突き合わせるのは祖父にして一応育ての親でもあるコルフ・ラッカルトだけ。
そんな不器用な父親は、息子の成長を見届けることなく命を落とした。
祖父の故郷でもある異国に出張し、銃撃戦の流れ弾に運悪く頭部に当たってしまったのだ、と礼蔵は伝えられた。
祖父に連れられて父達の故郷にやってきた礼蔵は久々に父の顔を見た。白くなった父の顔は、どうにもしっくり来なかった。ただ銃で穴が開いた頭とは思えないくらい、綺麗な死に顔をしていた。
「自分のせがれの晴れ姿くらい、ちゃんと見届けてから死ね。馬鹿息子が」
自身の息子にそう吐き捨てる祖父の姿は、どこか悔しげに見えた。
父の遺骸が棺に収められ埋葬されるのを見送った後、コルフは礼蔵の肩を叩いてつぶやいた。
「しっかり歩け。親がいなかろうが、お前は先に進まなくちゃならねぇ」
そう言われて礼蔵はようやく自分がふらついていることに気づいた。ほとんど顔も見たことのない親が死んでも関係ないと思っていたのに。
「だがな、ガキがつまらねぇ我慢をすんな。子供なら思いっきり泣け」
「……」
「大人になると泣きたくても我慢しなきゃならねぇ時がわんさか増える。遠慮なくぱーっと泣けるのは子供のうちだけだぞ」
普段はただ口煩いだけの祖父の言葉に、礼蔵は声を殺して涙をこっそりと流した。それを見て祖父は「可愛くねぇガキだ」とだけつぶやいて、ずっと肩を抱いていてくれた。
小さい頃から面倒を見てくれた、と言っても祖父のコルフは金の工面以外はろくなことをしてくれたことはない。少なくとも礼蔵はそう常々思っている。
学校のこともあり、礼蔵はしばらく父の遺した、子供一人には大きすぎる家で暮らしていた。面倒を見ていた祖父は「顔見に行くのはかったるい。うちに来い」と言ったが、通学が煩わしくなるのが嫌で、礼蔵は頑なに断った。
祖父が所持しているビルはかなり古く、大きな地震が来たらすぐ崩れそうなじめじめした所だ。近所に住む同年代の子供からは「お化けビル」などと呼ばれるくらいだから、礼蔵とて好き好んで暮らそうとは思わなかった。
よって祖父は食事や睡眠はこちらで取り、朝起きると自分の持っているビルに戻るという生活が続いた。
そのせいか、祖父は休みの日になると逆に礼蔵をビルに無理やり連れ出し、家事や雑用を次々と押し付けてきた。
子供相手でも容赦がなく、祖父と暮らす間はそれが嫌で仕方なかった。特にビルの一階で経営している祖父の雑貨店を手伝わされるのにはうんざりしていた。
本人は輸入雑貨店と称しているが、実際は旅行で手に入れた地方や外国の土産など、珍しいものを集めては、見せびらかすついでに売り物にするというものだ。悪く言えばニッチな転売屋である。
そんな褒められた商売ではない中、礼蔵はまだ子供なのによく店番を任されていた。滅多に客は来ないが、興味本位で見ていく客は大勢いた。しかも値段は祖父が気まぐれで決めてしまうので値札がなく、礼蔵は毎日苦労して取ったり貼ったりを繰り返した。
店の商品を片付ける時、見た目によらず重いタンスを背負わせられた時は、大声で抗議したこともあったが、当人は聞く耳持たずだった。
翌日、礼蔵は腰を痛めて一日中手を当てていたので、同級生から「老人ホーム」とよくわからないあだ名も付けられた。
この時、礼蔵はこの祖父から一日でも早く離れようと決心した。
もうこれ以上祖父の勝手に付き合いたくないし、親のいない自分は早く自立する必要がある。そう考えた礼蔵は、この年でも実家から離れる手段を模索した。
それから人一倍勉強し、クラスでガリ勉とからかわれながらも、中学はこの付近では一、二を争う名門私立学校へと入った。希望者に対し寮生活という選択肢を用意していたことが、選択した一番の理由だ。
父の持ち家は入学資金の足しにするため、相談して売り払うことになった。もう戻るつもりもなかったし、礼蔵はいつまでもセンチメンタルな思い出に浸るような人間ではなかった。
ここまですれば、あの理不尽で身勝手な祖父と距離を置ける、そう喜んで、礼蔵は笑顔で家族に別れを告げた。
中学時代は、礼蔵にとってあまり良い思い出がない。自ら選んだはずの寮生活が、ライフスタイルにまったく合わなかったのが一番大きかった。
元から愛想がないうえプライドが高い礼蔵は、時折ルームメイトと衝突した。少しでも親睦を深めたいと考えるルームメイトは、コミュニケーション能力の高さで学校生活を立ち回ってきたような少年で、同室の礼蔵にもそれを求めた。
しかし顔もよく知らない相手と学年トップの座を競うくらい、勉強第一だった彼にとっては迷惑な話だった。
一度は管理者が怒鳴り込むほどの激論を交えたが、最終的にお互い必要以上の干渉はしないと取り決めをして、礼蔵の願いは叶った。
しかしそれがキッカケで礼蔵は完全に孤立した。共同生活が基本となる寮生活において、誰とも協調せずに暮らすというのはどう考えても無理だったのだ。
一人だけ粋がっていると周囲からも煙たがられた礼蔵は、居心地の悪さすら感じる程、爪弾きにされるようになってしまった。
結局卒業までの三年間は維持で我慢したが、高校は別の学校を受験することとなり、同時に自宅通学に戻ることとなった。
喧嘩別れのように家を出た手前、家主である祖父に相談するのは気まずかったが、案外あっさり祖父は孫を受け入れた。その企みが透けて見える声音に、礼蔵はまたうんざりしながらも、どこかホッとしていた。
約三年ぶりに古ぼけたビルに帰ってきた礼蔵を待ち受けていたのは、少し勝ち誇った顔をした祖父だった。こうなることはわかっていたとばかりの表情に、礼蔵はこれ見よがしに歯軋りしてみせた。
「三年間、立派に意地張り続けたのは褒めてやる。さて、卒業記念と入学祝いに、アルバイトをくれてやろう」
「久々に戻った孫に言う台詞がそれか?」
「正月すら顔見せなかった奴が何言ってんだ。それとも爺ちゃんにハグして慰めてもらいたかったのか?」
帰ってきたのは失敗だったか、と礼蔵は一瞬後悔した。しかし文句すら口にするのも憚られた寮生活に比べれば、声を出せるだけマシだ。
勝手知ったる己の身内。他人を相手にするよりも家族が相手というのは、礼蔵にとって実はずっと気が楽だったことをその時に知った。
コルフは、孫が帰ってきて早々に遠出をすると言い出し始めた。一人の時はなかなか遠くへ出かけられなかったから、これからは老後の楽しみを満喫するのだという。
礼蔵にとってそれ自体は好都合だった。面倒なことを押し付けてくる祖父と離れられるのだから、実質一人暮らしのようなものだ。そう考えてニタニタしていると、コルフは笑顔で鍵を渡してきた。
「俺がいねぇ間は、お前が雑貨屋の店番と、このビルの大家代理だ。ちゃんと仕事しなかったらバイト代どころか生活費もやらんぞ」
結局面倒事を押し付けられるのか、と礼蔵はため息をついた。
「こんなビルで商売したがる奴がいるなんて、信じられない……」
「その減らず口、五寸釘で止めてやろうか?」
この祖父が言うと洒落にならないので、礼蔵はおとなしく口にチャックをするジェスチャーをしてみせる。
「まあ、二階の唐変木は俺が拾い上げた奴だから話がちょっと違うんだが、幸いもうすぐ三階のテナントも埋まるからな。いろいろ忙しくなるな」
「他人事みたいに言うな。大家ならフラフラしてないで、ちゃんと役目をこなせよ」
「悪ぃな、こちとら人を待たせてんだ。もう数時間後に俺はもうこの国にはいねぇ」
いっそあの世に旅立ってくれた方が助かるぞ、と悪態の一つでもつきたい気持ちだったが、礼蔵はぐっと我慢してそれらの仕事を引き受けることになった。
「せっかくの春休みが、こんなオンボロと睨めっこで費やされるのか」
ふと愚痴を漏らした途端、額に小石が飛んできた。地獄耳めと思いながら、礼蔵は出かける祖父にそれを全力で投げ返した。
一週間後、一人の美人が訪ねてきた。
雑貨屋で商品の整頓や掃除をしていた礼蔵は、来訪者に思わず見惚れてしまう。平和の象徴のような笑顔を向けられた時には、持っていた割れ物を落としそうになったくらいに。
背は礼蔵と同じくらいとやや高い。長く綺麗な黒髪はいくらか後ろでまとめられ、お下げになっている。スッキリとした綺麗なうなじがちらりと見えると、礼蔵の心拍数は反射的に上がってしまった。
「こんにちわー、大家さんはご在宅でしょうかー」
ドキドキしていた礼蔵は、そのゆったりとした口調に脱力しかけた。高鳴っていた胸の鼓動も、彼女が一声発しただけで緩やかになってしまった。
「
今居る雑貨屋に強盗が入っても、黒木田が声をかければ気力を失って帰ってしまうのではないか。そんな変な想像が浮かぶくらい、緊張感の欠片も持ち合わない女性だった。
それはさておき、要件は入居の挨拶だった。既に当人同士で孫である礼蔵に任せるということは話が付いていたらしく、話はスムーズに進んだ。
ただそんな中、礼蔵は少し気になったことがあった。彼女が開くという店舗の名前に、喫茶店と記されていたことだ。
それ自体は特に不思議があるわけではない。が、このビルの立地は勿論だが、何よりテナントの場所に対する違和感が拭えないのである。
完全に興味本位で、礼蔵は図々しさを自覚しつつ真偽を確かめることにした。
「喫茶店を開くってありますけど、本当に?」
「そうですよー、礼蔵さんも是非来てくださいねー!」
両手をしっかり掴まれた礼蔵は思わず心臓が破裂しかけた。思えば寮生活ではきれまで以上に異性と縁がなく、これが久方ぶりの雑談であった。
「い、いいい、行くか行かないかはともかく! ビルの三階で喫茶店なんて珍しいなと思って」
「それはそうですよー。だって高い所はー、見晴らしがいいじゃないですかー」
あまりにズレた答えに、礼蔵は変な笑いが出た。確かに高い所はそれだけで見晴らしがいいかもしれない。だが、少しでも視点を下げれば見えるのは寂れた商店街だけで、しかも建物自体は年季の入った小さく薄暗い雑居ビルだ。
この人は本当に商売する気があるのだろうか。疑問がまったく拭えなかった礼蔵は、さらに質問をぶつけた。
「いや、喫茶店って普通気軽に入れるのが売りなわけで、三階でエレベーターもないうちだと、お客が入りづらいかもしれないですよ?」
礼蔵の知る限り、喫茶店の多くは一階に店を構えている事が多い。気軽に扉を開けてコーヒーを一杯、ついでに何かデザートでも嗜む……そういう気楽に利用できる場だからこそ、軽率に入れる空気感は大事だろう。
なのに、わざわざ二つも階段を昇って、多くの人がお茶を一杯嗜みに行きたくなるだろうか。一般論を考えれば、礼蔵なら迷わず首を横に振る。
しかし、黒木田は相変わらず無垢な笑顔のまま返答した。
「そんなことないですよー。むしろ穴場感があって素敵じゃないですかー」
穴場かどうか、それを決めるのは客な気がしないでもない。それとも礼蔵が知らないだけで、実は喫茶店業界では有名な人なのであろうか。
「前にお店を出していた経験があるんですか?」
「いいえー、今回が初めてですよー。あ、おばあちゃんのお茶会のお手伝いなら何度もやったことありますからー、ぜーんぜん平気ですー」
何が平気なのかよくわからないが、謎の自信を持って店を開く黒木田に、礼蔵は愛想笑いを返すしかなかった。
「それに安心してくださいねー。絶対爆発や火事なんて起こしませんからー」
「どうしていきなり物騒な話に飛ぶんですか!」
そんな不吉なことを口にしたりして、大家代理を散々不安にさせ振り回した黒木田は、ウキウキしながら三階へと昇っていった。
訝しげに黒木田を見送って一息ついた後、礼蔵は何か忘れているような、と思いにふける。
そしてふと首を上げて自分の頭上を見て、ようやく自分が失念していたことを思い出した。
そういえば礼蔵はまだ、自分がここに来る前から二階で暮らしている住人に、この一週間一度も会っていなかったのだ。
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