過去エピソード

原居清子が生まれた日

 五時の鐘が鳴り、外灯がちかちかと灯り始めた。

 空が闇の色に染まっていく中、公園のベンチには一人の少女が座り込んでいた。

 小さなリュックを背負い、目を真っ赤にして、震えながら膝の上で拳を握っていた。

 少女は母親の言葉を思い出す。

「きっと迎えは来るから、そこで待っていてね」

 その言葉を信じて、少女は待ち続けた。しかし三歳になったばかりの彼女には、「迎えが来る」と「迎えは来る」の違いは理解できなかった。

 母が自分を迎えにくることがもうないと、察することも。

 やがて、街中に夕方を知らせる鐘の音が鳴り響く。身体の芯を揺らすような甲高い音は、少女にはスイッチが入ったように立ち上がり、公園を出てしまった。

 ようやく言葉をある程度使えるようになった幼子には、あまりにも酷な状況だ。彼女は母親以外の家族を知らない。父は、母が目を輝かせながら話しているのを聞くばかりで、写真すら見たことはなかった。

 少女は、歩いていれば母親と会えるのではないかという淡い期待を抱いた。

 しかし、よく見るとそこは住み慣れた町ではなかった。以前住んでいた町も似たように住宅が密集していたが、ここはそれと違って遠くに山が見えた。そんなに大きなものではないが、少なくとも彼女が今まで住んでいた「都会」にはなかったものだ。



 少女は歩きながら、ぼんやりと今日辿ってきた出来事を思い出す。確か母親は、父親に会いに行くと言って、身支度を始めた。置いてきぼりは嫌だと騒ぐと、母親は少し眉間にシワを寄せながらも、リュックと外着を用意してくれたのだ。

 でも、父親が居ると言う家に向かうと、母親は脱力して膝をついた。鍵は空いていたが、もぬけの殻だったのだ。

 母親が狂ったように家の中をかき回した後、何か見つけたのか、犬の悲鳴のような声を出して喜んだ。そして少女を見ると、無理矢理手を引いて近くの公園まで引っ張り出して、ベンチに置いていったのだ。



 

 母親を探そうと少女は歩き始めたが、目前に見える闇が怖くて、無意識に地面を向いて歩いていた。足元は空よりもっと暗かったけど、大きな暗闇を見るよりはマシだと思ったからだ。

 しかし、少し歩いていると、大きな足が少女の行く手を阻んだ。見上げると、彼女より遥かに大きな男が見下ろしていた。

「君、こんな暗いのに、何をしているんだ」

 重苦しい声をかけられた少女は思わず尻餅をついた。

 灰色に見える白髪混じりの髪、厳つい顔、やせ細っているが屈強な体つき。どれを取っても威圧感があった。

 少女はあまりにも怖くて返事すら出来なかったが、男は腕を組んでじっと彼女を睨むように目を凝らした。

「黙っていちゃわからんぞ。何か教えてくれ」

「お父さん、怖がらせてどうするんです」

 すると、声をかけた男は急に後ろから引っ叩かれた。

「何をする。俺がいつ怖がらせた」

「腰を抜かしてるじゃありませんか。まったく、いつまで警察官の気分でいるつもりですか。OBさん」

「ぬぐぐ……」

 色褪せたセーター姿が何故か似合う中年女性だった。女性は、男に呆れつつ、怖がる少女を優しく介抱しようとする。

 少女は最初こそ少し警戒心は見せたが、どこか落ち着く温かい匂いを感じで、少涙ながらにその胸に飛び込んだ。

「なっ……」

 自分とは正反対にあまりに素直な態度だったためか、男はがっくりと肩を落とした。



 無愛想な男……原居はらい飛次郎とびじろうは、元警察官だったコネを活かしつつ、少女の身元を割り出すことには成功した。その間は、原居夫妻が少女の面倒を見ていたことから、すっかり打ち解けていた。

 結局、少女の母親の行方は知れないままだった。海外に行ったことだけはわかったそうだが、以降の消息はぱったり途絶えてしまったらしい。

 それから、飛次郎とその妻である慈恵いつえは、少女を養子に迎えることにした。身寄りとの連絡が付かなかったせいでもあるが、それ以上に二人は少女を得体の知れない人間に預けたくない、という思いに駆られたのだ。

「ウチは子供に恵まれなくてね。でも、孤児を預かるにしても一人を選ぶなんてとてもできなくて。だけど、あなたとは何か縁があったと感じたのよ」

 少女には言っている意味の半分も理解できていなかったが、少なくとも慈恵が自分と暮らしたいと思っているということだけはわかった。

「まあ、これからは改めてよろしくな。――――」

 飛次郎が昔の名前で呼んだ時、少女はその名前は嫌だと言い始めた。

 それよりも、二人に新しく名前を付けて欲しいと、少女はそう願った。

「そういうことなら」

「おいおいそんな安請け合いをして、手続きだってそんな簡単じゃないんだぞ」

「なんとかなりますよ。それに、確かにこんな名前じゃ読みにくいものね」

 と、慈恵は笑って答えた。保証はなかったけれど、少女はなんとなくその「大丈夫」という言葉を信じたくなった。




 少女が原居清子きよこという名前を正式に名乗れるようになったのは、彼女が小学校四年生になるまで待たなくてはならなかった。

 しかし、新しい名前が名乗れなかった頃から、清子はずっと清子のつもりで生きてきた。辛い経験したことを糧にして、清い子に育って欲しいという義父母の率直な気持ちが籠もったこの名前が、大好きだったからだ。

 それは、本当の母が付けた名前が、記憶からすっかりと消えてしまうくらい。




「お父さん、お母さん、いってきます」

 原居清子となってから早一〇年以上、あっという間に彼女は高校生になった。

 義父母はすっかりシワが増え、頭も白髪だらけになって、見た目こそ年相応にくたびれてしまった。特に飛次郎は古希のお祝いをする年齢に達してしまった。

 が、娘と暮らす時間を少しでも伸ばしたいと、健康に気を遣っているおかげか、医者から褒められる程、二人は今でも元気だ。

「気をつけて行きなさい、清子」

「清子、今日はお友達と遊んで帰ってくるの?」

「何を馬鹿な、すぐに帰ってきなさい」

「お父さん、学生の本分は友達との思い出作りにもあるんですよ」

 見た目に以上に昔気質で心配性な義父と、伸び伸びと娘のことを信頼して見守ってくれる義母……。

 そんな二人の思いをひしひしと感じながら、原居清子は毎日幸せに生きている。

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