みんなここで、また明日 ~羽村さん外伝~

灯宮義流

開幕エピソード『三人の放課後』

 高校の校舎内に、甲高いチャイムの音が鳴り響く。一部の生徒がそれに歓喜の声をあげて、担当教師に咎められている。

 二年B組ではすぐに担任が現れ、そそくさとホームルームを始めていた。何か急いでいるのか、教師は連絡事項がないことをしっかり確認しつつ、簡単な挨拶を済ませて号令をかけ、解散となった。

 学校生活から解放された生徒達は各々部活に行ったり、寄り道に思いを馳せたりしている。

 ざわつく教室の中、一人の女子生徒だけは教室の脇に立ってノートを睨めっこしていた。

 背中辺りまで伸びる程の長い黒い髪が目を引く少女だ。険しい顔で勉学に勤しんでいるが、その顔立ちからは素朴さと品の良さ、そして穏やかさが伝わってくる。先程の授業の復習なのか、ノートを見ながら赤ペンで印を付けている。

 少しして、同級生らしい女子が横から現れた。ショートボブのやや明るい色の髪に、学生鞄を肩に背負う姿は、とてもボーイッシュだった。人によってはサバサバした印象を受けるほどに。

清子きよこ、日直の仕事終わったから、帰るよ」

「え? あ、うん。早かったね科子しなこちゃん」

「まあ、最後に日誌を先生に返さなきゃいけないけど、ね」

 清子と呼ばれた少女は、同級生の科子の呼びかけに応じて、慌ててノートを片付ける。一見すると面識のなさそうな二人だが、そのやりとりを見れば、付き合いの長さと仲の良さは一目で伝わってくる。

「そういえば、伊智子いちこちゃんは?」

「無性に甘いジュースが欲しくなった、って言って学食に行った。まったく、日誌届けたら拾いにいかないと」

 短くため息をつきながら、スマートフォンでメッセージを打つ科子に、清子は苦笑いで答えた。




 この学校の学食は、授業終了後でも普通に営業している。部活に力を入れている学校なだけあって、運動部員のために夕食時まで開けているのだ。おかげで何かと残業しがちな教師達もしばしば利用している。

 しかし、今は三時のおやつ時で、人はあまりいなかった。メニューにはデザートもいくつかあるが所詮は学食、自由を手に入れた生徒達を誘うほどの魅力は出せていなかった。

 そんなわけで、二人は職員室に日誌を届けた足で、今は閑散としている学食に移動した。しかし着いてすぐ、唖然とした顔になってしまう。

「さあてナッコ、右と左、どっちがいい? あ、選んだ後は目を瞑ってねー」

 小学生にしか見えない低身長の少女が、開口一番そう問いかけてきた。両手を後ろに隠して、不敵な笑みを浮かべながら。

 一体どういう趣向なのかわからないらしい清子は、おどおどしながら問いかける。

「あのその、伊智子ちゃん。どういうこと?」

「いやいや、きよちーは今関係ないからね。今はナッコに聞いてるんよ?」

 と、伊智子は怪しい笑みを浮かべながら科子に流し目を送る。背は小さいが、清子よりも漆黒なイメージを受ける髪は腰辺りまで届くほど長い。何より意識を引くのが、眠そうに細められた目である。脱力しているというより、不敵な印象を受ける目付きだ。

 迫られた科子は、顎に手を当てて少し考えるようにした後、両腕を静かに振り上げた。

「どっちのげんこつが良いかって話? いいよ、それじゃ……」

「ちょ、ちょちょちょちょっとタンマ! 科子さんストーップ!」

 伊智子は髪を振り乱しながら、首だけで全力の否定の意志を訴える。

「よく考えましょうかナッコさん? なんでワタシがナッコさんに聞いてるのに、そういう話の流れになるのかな?」

「とりあえず私が嫌な思いをしそうだから先制攻撃をと思って」

「ワタシが今までナッコに酷いことしたことありますか!」

「海外旅行のお土産とか言って、メチャクチャ臭い果物を渡してきた奴が言う台詞か」

「そ、そんな昔のことっすよ、ナッコさー……」

 抗弁しようとした途端、科子の眉間にシワが寄ったのを見て、伊智子は口をきゅっと締めた。

「とりあえず、時間を無駄にしたくないから、強制捜査開始」

「え? いひゃぁ!」

 持ち上げられていた科子のげんこつが、伊智子の両腕を捉え、彼女の持っていたものを強制的に開示させる。その右手には今人気のオレンジソーダが、左手には名前も聞いたことのないような、謎のジュースが握り締められていた。

 科子は静かに、そして冷たい目で伊智子のことを睨み付けた。ジュースを見た清子もぞっとしたものを見た顔で身を縮こませる。

「えーっと、新しい遊びを考えたんですよ。天国の地獄ゲーム! みたいな……」

「有罪、よって刑に処する!」

 と言って科子は、謎のジュースをひったくって清子にさりげなく渡すと、伊智子の後ろに回り込んで羽交い締めにした。

 あまりの素早い動きに、見ていた清子も、そして拘束された伊智子本人も一瞬気づかなかった。やがて、自分の自由が奪われたことに気付いた彼女は、力一杯抵抗する。

「は、離せぇ! ワタシをどうするつもりだぁ!」

「アンタ自身にそのゲテモノジュースを飲んでもらう。さあ清子、伊智子に飲ませてやって」

 いきなり渦中に巻き込まれた清子は、弱々しく驚きの声をあげた。

「そ、そんないきなり言われても、できないよ!」

「それなら蓋を開けて、アタシにジュースを渡してくれるだけでいいから。コイツは一回容赦なく懲らしめてやらないと!」

 と言いながら、科子はさらにキツく伊智子のことを拘束した。ジタバタとしながら弱々しく抵抗する伊智子は、潤んだ瞳で清子に訴える。

「きよちー! 心優しいきよちーなら、そんな酷いこと友達にできないよね? ワタシはただ、新しい味覚をナッコに提供してあげようと……」

「あ、コイツめ、清子の甘さに付け込んで!」

 調子のいいことを言う伊智子に怒った科子は、羽交い締めにしながら下手人の口を引っ張った。

「清子! 伊智子がこれ以上悪ノリしないためにも、さあ!」

「ぎよぢー、ワダヂをだずげでー!」

 正にこれは、友情の板挟みだった。清子は見るからにおろおろとした様子で謎のジュースを握り締める。

 科子の言う通り、こうしてふざけすぎるのが伊智子の悪い癖なのだろう。一度痛い目に遭わないとさらにエスカレートするかもしれないと考えるのは当然だ。

 とはいえ、伊智子の企みはほんの悪ふざけだし、どの道厳しい罰を与えるのはやりすぎ、と言われればその通りだ。

 両者の気持ちを汲み取ってなのか、清子はなかなか決断が下せないでいる。

 やがて、目を回したようにフラついた後、決心がついたのか、缶の蓋を勢いよく開けた。

「きよちー! そんな殺生なー!」

「よし清子、後は私に渡してくれれば……」

 と、手を伸ばした科子だったが、缶が渡されることはなかった。

 何故ならそのジュースを、清子がそのまま口を付けてしまったからだ。

「えっ……清子?」

「な、何してんのきよちー!」

 予想外の行動に驚く二人だが、当の清子はまるでコーヒー牛乳を飲み干すように、身体を反らせながら飲み干していく。もはや二人からは、制止する言葉も何も出てこなかった。

 清子は、ぷはーと力なく息を吐いたかと思うと、少し青ざめた顔と困惑した瞳をを二人に見せたかと思うと、すぐ目を回して倒れ込んでしまった。





 保健室へ連れて行かれた清子は、三〇分程してようやく起き上がった。

 保険医の見立てでは、特に身体に大きな支障は出ていないとのことで、科子と伊智子は深く安堵した。気を失ったのは、恐らく緊張し過ぎたのが原因とのことだ。

 三人は「アンタラのせいで残業だよ、もう」と冗談を言われながらも見送られた。

「ゴメンね清子、無茶ぶりして困らせたあげく、具合悪くさせちゃって」

「ワタシの方もごめんよきよちー。まさか倒れるだなんて想像できず……」

 申し訳なさそうにする二人に対して、清子は弱々しいながらも優しく笑みを浮かべた。

「もういいよ、二人とも。何度も言ったけど、馬鹿なことをしたのは私だから」

 そんな友人の顔を見て、さしもの伊智子も反省の色を見せている。一方の科子はたっぷりとため息をついた。




 ようやく校舎から出ると、沈み行く太陽が見えた。新年度が始まってしばらく経つが、まだ四時前だというのに、遠くの風景はもう夕方の色を見せつつある。

「春限定メニュー、食べ納めしそこねた」

 科子がふとつぶやいた。今日は三人で行きつけのファミレスに行き、春にしか提供されないスイーツを食べながら雑談でもしようと約束していたのだ。

 しかし、清子がこんな状況では、とても飲食店にはいけない。保険医もなるだけ早めに帰宅して静養しろとのお達しだ。

「あー、今それを言いますか、ナッコ」

「食べ物の恨みは怖いってことを知れ」

「なぁに、ワタシが一声駄々をこねれば、我々三人のためだけに特別提供してくださりますぜ」

 伊智子が腕を組み、小さな身体で精一杯胸を張りながら言う。しかしそれを聞いた科子は、呆れた顔を見せるばかりだ。

「いつも庶民ぶりたいとか言ってるお金持ちさんは、どちらさんでしたっけ?」

「お友達のためなら、こだわりなんていくらでも捨ててやりますぜ。今回は大方ワタクシのせいなのは否定できないし」

 後半、伊智子は早口で目を逸しながらつぶやいた。そんな二人のやりとりを聞いているうちに、清子の顔色はどんどん和らいでいった。

 校庭では、まだ運動部員が練習をしていた。野球、サッカー、陸上部などといった部活が日替わりで活動しているが、今日は野球部がバッティング練習をしていた。病み上がりの清子に当たっては大変だと、科子と伊智子は過剰なまでに清子を気遣った。

 最も、背の低い伊智子がいくら両手を広げて壁になろうとしても、清子の腰辺りまでしか守れないのだが。

「あ、そうだ。今日のお詫びっつーにはなんだけど、ウチの迎えを呼んだから、二人も送ってあげちゃいますぜ」

 と、伊智子が思い出したように言い出した。先程から仄めかしてはいるが、彼女の実家は大金持ちだ。本人の言動や雰囲気からあまりそうは見えないが、実家は豪邸で、たくさんの使用人を抱え、別荘をいくつも持っている。

「あれ、伊智子ちゃん。砂城すなしろさんが今日は非番だから、歩いて帰るついでにファミレス寄ろうって、みんなで話してたんじゃ……」

「運転手風情が好きに休みを取ろうなんて、おこがましいってもんだよチミィ。それにアイツ、仕事だろうが非番だろうが、車乗ってりゃ幸せな奴って、知ってるっしょ?」

「あの、伊智子ちゃん、そういうの最近はブラック企業って言われるの、知ってる?」

 などと話していると、噂をすればなんとやら、スーツ姿の青年が車の屋根に手を乗せてたそがれていた。やや古ぼけてはいるが綺麗な乗用車で、彼は愛おしそうにしばしば屋根を撫でていた。

「あ、お嬢さん達だ。オーイ、迎えに来たっすよー! あはっはっはー!」

 陽気な笑い声をあげた青年は、まるでこの世の幸せを全て手に入れたかのような笑顔を見せつつ、三人に元気よく手を振り始めた。

 心配していた清子も、流石にキョトンとしてしまうくらいの能天気さである。一方、主人である伊智子は、少しうんざりした顔で「やれやれ」と両手を天秤のように広げた。

 砂城に、清子が少し具合悪めだと伝えると、それはもうメールで把握済とのことで、三人揃って後ろに席へと乗せられた。清子が窓側なのは言うに及ばずである。

 中古車のエンジンがかかり、動物が唸るような音を立てる。外見は古く見える車だったが、振動はほとんどなく、その音もまるで新車のような響きだ。

「砂城さん、これ本当に中古車なの?」

「いやー、科子ちゃんにはわかっちゃう? エンジンだけは新しいのに載せ替えてあるんだよね! いやー、貯めたお給料の大半が消えたけど、最高に満足!」

 そう言って走り出した車は、揺れが最小限に抑えられ、実に快適な走り心地を実現していた。やや具合を悪くしていたはずの清子は、むしろ眠気に襲われているようだった。

「砂城さんの運転ってさ、すごいんだけど。なんかこう、眠くなる……」

「まあ、それくらいの腕がなきゃ、うちの父さんも雇ってないっすからね。他の家事は本当に全部ダメだし」

 聞こえるように嫌味を言った雇い主の声は、運転手には一切聞こえていない。メルヘンな熊の童謡を口笛で吹く姿には、二人も毒気を抜かれてしまう。

「それじゃあ砂城、それぞれの家に着いたら起こして」

「アイアイサー!」

 元気の良い返事をする運転手の後ろで、後部座席の三人は肩を寄せ合って一人、また一人と眠りに落ちていく。

「予習は、帰ってからで、いいよね……」

 真面目な優等生である清子すらも、その眠気と勝負をする気力は失せてしまった。

 砂城の運転する車は、軽快に住宅街の方へと走り抜けていった。

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