清子さんと魔法菓子・2『清子さんの職業体験』
店に出た
混雑していることもあり、清子は客との物理的な衝突を警戒した。そして、商品の詰まった箱に衝撃を与えないよう、慎重にゆっくりと予約客の方に向かっていく。付箋に書いてあった名前を呼びかけると、初老の男性がすぐに答えた。
「どうもね。見ない顔だけど、もしかしてアルバイトさんかい?」
「は、はひっ、はっ、えーっと、職業体験、です」
男性は常連なのだろうか。清子が「お買い上げ、ありがとうございました!」と必死に挨拶しながら商品を渡す時も、微笑みながら受けてくれた。
「俺も中学くらいの時に一度言ったことがあるよ、懐かしい。近所で評判の定食屋さんで……って、仕事の邪魔をしちゃ悪いね」
と、思い出に浸りかけていた男性客は、我に返ってお礼を返してくれた。それを見送った後、清子は振り返って背筋がゾッとした。他にも待っている客が、少し待ちくたびれた顔でいたからだ。
一生懸命謝罪を入れてから、清子はカウンターの奥へと慌てて戻る。そして次の商品を手にしたところで、八代に肩を軽く叩かれた。
「まあまあ落ち着いて。お客様の横を通る時は、失礼しますって、優しく大きな声で断りを入れてから通れば、ちゃんと道を開けてくれるから」
「はいっ! すいません、ありがとうございます!」
「そんくらい声が出るなら安心だ。いってらっしゃい!」
と、背中を押され、清子はまだ動きは固いながらも、さっきよりスムーズに予約客の元へ辿り着けた。
予約客への対応がひとまず終わり、次に任されたのはイートインへ注文された商品を運ぶことだった。
お盆に商品を乗せてみて、清子は思わず歯を食い縛った。見た目以上にバランスを取るのが難しい。家で食事を運んだりする時とは違い、緊張がそうさせているのか。
「三番テーブルのお客様に、よろしく」
カウンターから出ると、まだ客足の衰えない店内が広がっていた。気分はまるでやや急な流れの川に飛び込むような感じだ。
焦りでパンクしそうな頭をなんとか抑えながら、清子は声をかけてから人波の端へ回り込んでいく。中にはやたらテンションの高い子供もいて、ちょっかいを出されないかつい警戒してしまう。
何事もなくイートインまで辿り着き、ほんの少し安堵してから、机で談笑する客達に向き合う。
しかし清子はここにきて、大事なことを忘れてしまっていた。
「何番テーブルって言われたか、忘れちゃった。ど、どうしよう」
悩んだあげく、清子はとりあえず挨拶することにした。
「失礼致します!」
一斉にイートインに座っていた客の視線を集め、清子はすっかり石化してしまう。しかし、すぐにお客の方から「うちです」と声をかけてくれたので、清子も間もなく我に返った。
肝心な所でお客の厚意に頼ってしまった。それが情けなくて、清子はすごすごとカウンターに戻っていく。
落ち込んだ様子を見かねてか、八代がまた優しく肩を叩いた。
「接客業は笑顔が基本。良い笑顔を持ってるんだから、せっかくの武器を捨てちゃうのは勿体無いぞ!」
「あ、えっと、その、恐縮です!」
「……こいつは、逆に緊張させちゃったか」
と、八代は困ったように背中を丸めたが、早々に笑顔を取り戻すと、清子を鼓舞した。
「まだしばらくは慌ただしいだろうけど、もうひと踏ん張り乗り切ろうか!」
「は、はいっ、なんとか踏ん張ります!」
八代の笑顔に力を貰ったのか、清子も自然と笑顔を作れるようになっていった。
それからは八代の指示でいろんなものを運んだり、お菓子を入れる箱を作ったり、息つく暇もない時間を過ごした。
ようやく仕事に慣れたのだろうか、ピークを過ぎて客足が落ち着いてくると、自分から指示が欲しいというようになった。
八代はその心意気を買って、店の掃除を任せることにした。混雑の影響か、床には落ち葉や塵埃、小さな屑などが目立ってきた頃だった。
「お掃除は得意だと思いますので、お任せください!」
なんで推定なんだと八代は笑ったが、張り切っている清子の様子を喜ばしく思っているようだ。
清子はひたすら掃き掃除に専念する。未だにどこか欠けた気がする記憶への不安を払拭するかのように。
掃除が一段落したところで、八代が時計を見ながら声をかけた。
「お疲れさん、一旦休憩にしよう。うちは休憩室がないから、蒼衣にも声をかけて一緒に休憩取っちゃって」
「いえ、まだ大丈夫です。ほとんどお役に立てていないのに、休んでなんていられないです。蒼衣さんだけでも先に……」
行動を始めようとする清子を、八代はすぐに引き止めた。
「無理はしないでくれ、って俺は最初に言ったつもりなんだけどな。それに休むのだって仕事の一つだ。それに、蒼衣と一緒に行って欲しいって事情もあるし」
「でも、喫茶コーナーのお客様もお帰りですし、せめてテーブルの片付けだけでも」
「初めてなのに、
八代がお世辞抜きで感謝していることは、清子にも伝わってくる。それでも清子の後ろめたい気持ちは拭えず、素直にその言葉を受けられなかった。
「職業体験は今日一日だけじゃないんだし、明日もっとできるようになればいいんだ。それに、初めてで全部上手くいっちゃったら、教える方の立場もないじゃん?」
そんな清子の後悔や罪悪感を、八代は読んだかのように言い当てた。
変にムキになってもその方が相手の迷惑になる。己の安易な意固地さを恥じた清子は身を縮こませ、休憩に行く旨を伝えた。
八代もホッとした様子で、清子を送り出した。
「ごめんね、休憩のためにわざわざ外に出ることになっちゃって。空いていればうちの喫茶スペースでも良かったんだけど」
「……」
「えっと、清子さん、大丈夫?」
「はい! お構いなく!」
素っ頓狂な返事に、蒼衣は苦笑いした。しかし当の清子はそれどころではなかった。
パティシエ姿から私服姿になった蒼衣の印象は、別人とまでは行かないまでも大きく異なった。
つやめく長髪が解放された瞬間、清子は思わず感嘆の声をあげた。長髪の美男子の甘いマスク……テレビドラマくらいでしか見たことがないその美貌に、思わず見惚れてしまう。
この美しさに心動かされない女性はまずいないだろう。清子も当然例外ではなく、頭の中にはベタな王子の姿をした蒼衣の姿が浮かんでいた。
実際の蒼衣の私服は、一転して華やかさを意識していない地味な感じだ。逆に言えば、そんな平凡な服装も彼が着ればアイドルの上手な着こなしに見えてしまう。
すっかり心拍数のあがってしまった清子だが、そんな動揺を抑えようと顔を伏せてしまった。あまり眺めていると、夏の陽気も相まって今度こそ倒れてしまいそうだ。
「こういう時は近くにある公園か、商店街の喫茶店で休んでるんだ。清子ちゃんはどこにしたい?」
「はっ! は、はいっ? えっと、どうしましょうか」
そう言いながら、清子は自分の財布と相談しようとポケットに軽く手を入れる。しかし、出てきたものは、自分の学生証だけだった。おや、と思ってもう一度探ってみるが、それ以外には何も入っていない。
頭から血の気が引いていく。しかしここでパニックした姿を見せたら蒼衣に気を遣わせてしまうと、清子は空笑いしながら再度ポケットの中身を確認する。
やはり、財布はどこにもなかった。自分の所持品がスマホしかないことに今更気づき、清子は静かに愕然とする。
ここがどこかもわからないのに、交通費の用意すらない。スマホは改めて見ても圏外のままだ。
一気に孤独感が増したことで背筋に寒気が走った。胸の高鳴りはすっかり冷却されてしまう。
「どうかした?」
「な、なんでもないです! 私、お弁当を買って公園で食べてきます! 蒼衣さんはどうぞお気になさらず!」
蒼衣の心配を他所に、清子はコンビニを探しながらそそくさと駆け出した。少しして、目に入ったコンビニに勢いで入る。
しかし金は一銭もないので買い物はできない。心の中で何度も謝りながら、清子は店の商品を適当に眺めていく。
「あれ?」
見回りながら、清子は何度も首を傾げた。見たことも聞いたこともないメーカーや商品が並べられている。そういえばこのコンビニの名前も聞き覚えがない。
一部の地域にしかないコンビニはいくつもあるし、自分が知らないだけかと最初は思っていた。しかし不安になって飲み物のコーナーへと移動し、違和感は確実なものへと変わっていった。
以降もあちこち商品のコーナーを周っていったが、ジュースやアイスにも見覚えのある商品は一つもなかった。
どれもこれも見覚えもないし、聞いたこともない。異様な状況に清子は言い知れぬ恐怖感に苛まれ、そそくさとコンビニから退出した。
ふと建物の壁に住居表示の板が見えて、なんとなく目を向けてみる。そして清子はますます驚いた。
「どうしてか私、名古屋まで来てるの?」
それは、まだ一度も行った記憶のない県の名前だった。
蒼衣がさっき口にしていた公園を見つけ、清子はベンチに座った。そして深くため息をついてから、思いっきり頬を抓ってみる。
「うぅ、痛い」
涙目になるだけなのですぐにやめ、清子はまた大きく息を吐いた。とりあえず落ち着いて状況を整理しなくてはいけない。
どうして自分が名古屋にいるかがわからないが、少なくとも自分の住んでいる土地からはかなり離れていることはわかった。しかし、誰かと旅行ですらやってきた記憶はない。
確かに友達の誘いで遠出をしたことがあるが、都会よりも山や海といった空間が多かったはずだ。
「友達」
その言葉が浮かんだ直後、ぼんやりとしていた記憶の一部が晴れた気がした。そして、顔や名前が段々と記憶から引き出されていく。
「科子ちゃんと伊智子ちゃん、そうだ。私、どうして今まで忘れていたんだろう」
学校ではずっと一緒に過ごしている友達の二人、休みの日でも暇さえ会えばいつも遊んでいたのに。
自分は一体どうしてしまったんだろう、友達のことを忘れてしまうなんて、友達として恥ずかしくないのか。
胸からこみ上げてくる感情を飲み込もうと、清子は全身を強張らせる。まだ仕事の時間は残っているのに、泣いて気落ちなどしていられない。
「大丈夫かい?」
歯を食い縛る中、突然声をかけられた清子は思わず身構える。しかし、相手を見てすぐに警戒を解いた。
「あれ、蒼衣さん?」
「驚かせてごめん。なんだか様子がおかしいから心配になったんだ。隣いいかな?」
清子は呆けた顔のまま頷いた。猛烈な孤独感で溺れそうだった現状、蒼衣の気遣いは正直言ってありがたかった。あまり無用な気遣いはさせたくなかったが、自分でもどうしていいかわからない今、少しでも力を借りたかった。
とはいえ、この荒唐無稽な話をどう説明したらいいかがわからない。
「何かあったなら教えて欲しいんだ。もしかして、うちでの仕事、そんなに辛かったかな?」
「とんでもないですよ! 今までこういう所で仕事した記憶はなかったので、全てが新鮮で……上手くできないところもたくさんありましたけど、楽しいです」
蒼衣の憶測を清子は必死に否定した。
「いいえ、そうじゃないんです。その、自分でも信じられないことが身の回りでたくさん起きていて、全部飲み込めていないんです」
何故か欠けている記憶、見覚えも行く予定すらないこの土地。何が起こっているのか、清子は憶測すら立てられていない。
「それでも構わない。僕は期待に答えられるかわからないけど、よければ清子さんの不安な気持ちとかを打ち明けてくれると嬉しい。短い期間といっても、僕達は仕事仲間なんだから」
八代も蒼衣も見た目通りの、あるいはそれ以上の優しい人達だと、清子は身に沁みて感じていた。
まだ二人とも会って半日も経っていないし、蒼衣に至っては仕事前に少しやりとりをしただけだ。そんな短い間でも、蒼衣の人柄の良さは伝わってくるし、今も信じて全てを打ち明けて良い気になっていた。
もし笑われたとしたらショックだろうが、何も言わずにこの問題を解決できないよりは良いはずだ。清子は決意を固めて蒼衣の目を見た。
しかし、横槍を入れるかのように、お腹が鳴る音が公園に響き渡る。瞬間、清子の顔は真っ赤になってしまった。
「話をする前に軽く何か食べようか?」
「あの、実は私、今まるで手持ちがなくて」
「大丈夫、僕の奢りだから。それにここじゃ暑いから」
確かに昼を越えたとはいえ、日差しはまだまだ暑かった。何より空腹感は蒼衣の御厚意を受けろと訴え始めていた。
清子はやや遠慮しがちではあるが、その厚意を受けることにした。
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