第32話

「なんかあったの? なんだか今日はご機嫌ねえ?」

 もしかしたらうちの母は超能力者なのかもしれない……

「いや、別に特にはないかな。ちょっと売店に行ってくるよ」

 こんなときはとにかく撤退だ。ボロが出ると今日の案件は母好みのため躊躇いなくぐいぐいこられるだろう。

「分かりやすいわね、あんた」

 ニヤニヤしながら言ってくる母を一瞥して僕は逃げるように病室を出た。



 

 キスをしたのだ。初めてのキスを。


 彼女に緊張を悟られぬよう淡々と言葉を並べ立てたが、実際は吐くかと思うほど緊張していた。

 その結果、僕は口ではなく頬にキスをした。


 彼女が求めていたものとは違うようだが、今の僕にはこれが限界だ。

 思い出すだけで心臓がバクバクと騒ぎ出す。



 まさか、生きているうちにこんなことになるとは思いもしなかった。


 彼女も同じことを思っているだろう。



 心臓が強く脈打つ。


 あぁ……僕は生きているんだ。


 明日も明後日も、ずっとずっと生きたいと強く願っている。

 強く願うだけでは僕の余命は延びないのだが。


 こんなことを考えるのも久しぶりだな。


 君との距離が近づくにつれて、『死』というものが自分から離れていっているような感覚に陥ってしまう。


 実際には、病気は進行し僕の体を今この時も蝕み、刻一刻とその瞬間は迫ってきている。


 だけど、もうそれほど恐怖はない。

 そのことを考えなくなったことがその証拠だ。

 目を背けている訳ではない。目の前の死よりも僕を惹き付けるものがある。


 今は、今だけは、ただこの瞬間を君と楽しむことに夢中で、君のこと以外は考えられなくなっている。


 本来、信頼し合った仲でもいずれ別れは訪れることが多いのだろう。

 だけど、僕らに限ってどちらかが離れていくことはない。


 僕には君しか、君には僕しかいない。

 文字通り互いに代わりがきかない存在となった。

 

 それは素晴らしいことのように聞こえるが、裏を返せば『その瞬間まで』という爆弾を抱えているのである。

 お互いに離れることはない。だけど、どちらかが消えることはある。それも唐突に。


 その変えようのない運命を今一度胸に刻み、唇を奪わなかったことを深く後悔した。

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