第30話教会で怒鳴っていたのは……


 先日、家族と親せきで近場の観光地へ一泊旅行に出かけた。

海の近くの風光明媚な場所で、ライターをやっている親せきの一人がお得なプランをネットで見つけ出したそうである。

おいしいお刺身とお肉のコースに舌鼓をうち、肌がすべすべになる温泉で英気を養ったあくる日。付近の観光名所巡りをし、古くからあるキリスト教の教会へ赴いた時の事である。


日本のキリスト教に貢献したある人物の記念教会である。

キリスト教徒ではない私たちは、完全に観光目的だ。外で写真を撮り、周辺をうろうろしていただけ。


 帰り際にすっとユーダが近づいてきて、こっそり耳打ちした。


「お侍さんが 怒鳴っている」

 へっ?

「お侍さんがすごく怒って大きな声で怒鳴っているのが聞こえるんだよ」

 なんて言っているの?


「仏教徒がキリスト教会に来るなあああ!! 」

 ――と、怒っているそうである。


昔のまま、ずっとこの辺りにいるんだろうね。

「入り込んで来てるんだよ。聖域になってないよね」

「記念に建てられたみたいだし、そんなに威力は無いんじゃない? 」と不敬なことを言ったり。


 そのお武家様はキリスト教弾圧の歴史の真っ只中にまだいるんだろうね。

怒っているという感じからして、キリスト教を弾圧する方というよりも、嫌キリスト教なのだろうか。

お参りに来る人間が多いと勘違いして怒り狂っているお武家様に、「ただの見物客だよ。観光なんだよ」と説明したいが、理解しないだろうなあ。


 一般的に学校の歴史で習うキリスト教のイメージに「迫害を受けるキリスト教」というのがある。

しかし、ネットを散策するようになって、それとは全く逆の視点があることを知らされた。


キリスト教の布教を名目にその国に入り込み、侵略の足掛かりにする輩たちがいたということ。

イ○ズス会がカルトと認識されていること。

勿論、心強く純粋な殉教者たちの物語は悲劇そのものだと思うし、あってはならないことだ。しかし、浅い根拠でそのような重大なことが行われたとは考えにくい。


イエスキリストもキリスト教も悪くない。

けれども、それを侵略の道具にするものがいたとして、それを止めるにはキリスト教を根絶やしにするしかない。そのために…苦渋の選択として取られた方針だったのではないかと思う。勿論、やり方は残酷だった部分もあったようだけど。どちらにとっても不幸な事である。


ついでにいうならば、自分の信仰を侵略という悪事の(悪いことだと思っていないんだろうが)隠れ蓑に使って平気であるのなら、すでにその人間は本来のキリスト教徒ではないということになるね。

何も知らない殉教者たちだけがもっとも美しく、もっとも哀れな存在だったのだろう。

彼らの愛があの世で伝わっているといいけれど、確かめようがないな。


 直接関係はないけど、以前、私の好きなあるストイックなアスリートの話をユーダとしたときに、

「日本人はスピリチュアルなものへの親和性が高いから目に見えない存在に愛されやすい」というようなことを言っていた。

あらゆるものに道を見出し、精進してゆくひたむきさ、素直さは日本人の仕事への取り組みからも伺える。

たとえ、自称無神論者であっても、「一心神に通ず」って言うくらいだ、知らず知らずに向こうから愛されることだってあるかもしれないな。


善や悪ですら意味をなさない絶対的な神なるものが、天の上がどこかできちんと裁いてくれているといいけど。

形ばかり美しい教会の前で、そんなことを考えた。





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