――数分前。灘が銃を撃つ直前に遡る。


 銃口を向けた灘に桐乃は両腕を広げて対峙していた。

「そこをどくんだ。俺が用のあるのはそっちの男だ」

 灘源一郎、彼は警察官で、間違った行動はとっていない。邪魔をしているのは桐乃のほうだ。だが、どくわけにはいかない。引くわけにもいかない。この世界に自分の意思で飛び込み、加わったのだ。黒川一士の側に立っていることに変わりなく、敵対すべき存在なのだ。しかし、立ち上がった黒川は、桐乃を押し退けて背後へと動かした。

「お久しぶり、灘のおっさん」

「両手を挙げて、そのまま床に伏せろ。抵抗せず大人しく投降しろ」

「……投降しろと言われて、今まで散々逃げ回って来た俺がそう簡単に大人しく投降すると思うかい?」

 ちっと舌打ちをしてから、灘は銃を握り直し、じりじりと近付いて来る。

「……今や、世間では美名や美称としてお前の名は広がっている。だが、例え世の意見がそうだったとしても、俺はお前を逮捕することにも躊躇しない。バッシングを受けようとも、支援者による報復受けようとも、俺は黒川一士という名の悪党を終わらせてみせる!」

 正義という言葉が桐乃には彼のイメージとして浮かんだ。しかし、どこか違う。確かに正義という言葉がしっくりくる、熱血系の警察官だ。黒川を逮捕すべくここまでやって来て、こうして対峙し、銃を向けている。それでも、その銃を向ける灘を見て、桐乃は言い知れぬ違和感に襲われた。

「黒川一士は美名でも何でもないよ……灘、訊きたいことがあるんだ。ずっと前から、アンタが俺を追うようになってからずっと、訊きたかったんだ」

 灘の銃が微かにぶれる。

「逮捕することにも躊躇しない、それはきみの本心から出た言葉かい?」

「何?」

 睨む瞳が僅かに揺らぐ。

「灘源一郎、きみは貧困街に生きる子供が飢餓の末に裕福な家に盗みに入るのをどう思う? 盗みに入った子供を鉄パイプで叱り付ける大人は悪いことをしているように見える? その様子を見ていた第三者が子供を守るために鉄パイプを持った大人を殺めることは間違ったことだと思う?」

 黒川の問いに、桐乃は灘と黒川を交互に見る。追い詰められているのは黒川のほうで、追い詰めているのは灘のほう。それは変わらないはずなのだが、黒川の口調、雰囲気、表情、声の強弱等が、場の空気を覆っていくかのように――支配していくかのように、二人の立場が逆転していく。灘は冷や汗を流し、銃口がぶれ始める。

「俺の言いたいことはさ、ただ一つ、きみの握る銃は誰を守りたいのかが定まっていない、きみはまるで不明瞭の権化だということだ」

 確信を衝かれたのか、それとも場の空気に飲まれつつあるのか――桐乃は黒川の意図が読めなかった。灘は黒川を追う厄介な存在のはずなのだ。これではまるで。

「俺に銃を向けて、それで救われる命もあるだろう。だけど、その命を救うためにきみは銃を握るのかい? 終わらせる、この言葉は実に奥が深い。黒川一士おれを終わらせた先に、きみは何を見据える? 未来に何を伝える? 後世に何を遺す? きみは、何をどう変えるのか、それをはっきりとさせないままに引き金を引くのかい? 何が起こるかはわからないなんて無責任なことを当たり前のようにしてしまうのかい? さっきも言ったように、きみは不明瞭の権化だ。正義も悪も、過去も未来も、人も人でないモノも、見当も何もつけずに無分別に傷付けてしまう」

 不安感が桐乃を襲う。黒川の言葉が細胞一つ一つに、まるで優しく語り掛けるように入り込んできては触れてくる。向けられている相手が自分ではないというのに、桐乃は自分に問いかけられているように感じた。もしや、と桐乃は黒川の後ろ姿を見つめる。

 彼の強さはすでに見てきた。圧倒的な力、高度な技術、知識。しかし、目に映るものばかりに気を取られていたのだ。

 彼の神髄は、ここにある。

 言葉だ。

「揺さぶりをかけようとしているのだろうが、無駄だ」

 震えて、照準を合わせる余裕がなくなったのか、灘の銃は完全に揺れ動いている。顔を僅かに痙攣させながら、何かを必死に堪えている。

「仕方ない……じゃあ、とりあえず撃てる拳銃を持ったほうがいい。それじゃあ撃つ覚悟があってもその覚悟が空を切るだけさ。逡巡するきみは、まだ闇夜にいる。俺が鬼手仏心の如く、月夜の下へ誘ってあげよう」

 そう言うと、黒川はずんと前に進む。気圧されたのか、灘が反応できないままに黒川は灘の目の前へ瞬時に移動、手首の関節をひねり上げて有無も言わせず、抵抗も抗いもさせず拳銃を取り上げ――自分の拳銃を代わりに握らせた。

 わけがわからず呆けている灘に黒川は取り上げた拳銃を指先で掴んで揺らして見せる。

「何の真似だ、って思うだろう? いやなに、俺もそっちの事情を考えてあげたまでだよ。無暗やたらと警察は銃を撃っちゃ駄目らしいじゃないか? 映画みたいにバンバン撃ったら見た目格好よく見えるけれど、適正な使用でなければ問題になるご時世だそうで。始末書やら状況報告書をまとめたり、昇進にも影響が出たりして、ものすごく面倒なことになるんだって聞いたことがある。その銃は俺のだから全弾撃ち尽くしても構わないよ。そうだ、予備のマガジンも渡しておこう。これで報告する必要もない。敵さんに銃を借りて撃ちました、なんて誰も信じないし思わないしさ」

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