怖い。

 死にたくない。

 それなのに、桐乃は黒川の問い掛けに頷くことも答えることもしなかった。

 黒川は、自分の家族を殺された。もしかしたら、この現場のように、血だまりができていたのかもしれない。それでも、彼は乗り越えてきた。乗り越えて、ここにいて、この世界で生きている。思い上がるつもりはない。しかし、彼にできたことを『自分にはできない』と決めつけることが、桐乃にはできなかった。したくなかった。諦めたくはなかった。

「……強情と呼ぶべきか。まったく、困ったお嬢様だ」

 黒川はぽんぽんと背中を叩いて由良を呼ぶ。

「お嬢ちゃんをアジトへ。無理矢理でもシャワーを浴びさせてから温かい飲み物でも飲ませてあげて」

「かしこまりました……今回の失態、本当に申し訳ありませんでした。後始末はこちらで手配致します。ただ、収穫はありました。黒川さんにお伝えしておかなければならないことがあります」

 桐乃は由良に支えられて起き上がり、泣きじゃくる。鳴瀬が「見せてしまって悪い」と謝ってきて、首をぶんぶん振って、今度は桐乃が「ごめんなさい」と謝った。

「……虎波生絲はこちらの予想通りのようです。まだはっきりと断言できませんが、意図的に欠けた情報、そしてアーサー・シャーロットに近付いたこと、不和さんが関わっていることを考えると、彼はやはり……それに、ダイヤが狙いではない、とのことですから」

「そっか、じゃああいつの狙いはあっちか」

 無表情で言った黒川がぽんぽんと桐乃の背中をもう一度叩いてきた。先に歩き出した黒川の後を鳴瀬が追い、由良に連れられて桐乃は歩いて行く。背後にできた血だまりが地面に滲む音が微かに聞こえて、桐乃の脳裏に映像が流れる。

 そこに映った黒川、桐乃を見る瞳は、どこか儚く感じられた。



 かび臭い倉庫の扉を開き、煙草の煙をもくもくと上げる灘源一郎は椅子に座る。追っていたグリケルト・バーボン、クランチ・ハーバーが何者かに殺害された。黒川一士に繋がる情報を得ようとした矢先の出来事に、黒川の仕業ではないかと一瞬でも思ってしまった灘は自分に嫌悪感を抱く。

 確かに黒川一士は人を殺した過去はある。対象はすべて犯罪者に限るが、れっきとした重罪だ。しかし、黒川が自分にとって邪魔という理由で、快楽的な意味で、私利私欲で、人を殺したことはなかった。誰かを守り、助け、救い、奪い返すため。だからこそ、今まで支援者という存在に黒川は支えられてきたのだ。

 信頼を失うような真似をするとは考えにくい。さらに現場に残されていた拷問器具だ。黒川は一瞬にして人を殺し、その鮮やかさを目撃した警察官は目を奪われてしまったという。それを恥じて辞職した刑事は何人もいた。殺すことを目的に動いていない黒川が、わざわざ拷問器具を用意してまで殺害するとはまず考えられない。

 ならば、このタイミングで両組織の頭目を殺害した人物、もしくは組織はいったい。

「怪しいのはアーサー・シャーロットとオーガスト・フレデリック……残虐性で言えばオーガストだが……裏社会の連中が集結し、政府も警察もぴりぴりしているんだ。騒動を起こすメリットはない。やるなら静かにばれないように、ひっそりと……目を付けられれば厄介だろう」

 しかし、現時点で考えられるのはその二つの組織による犯行だ。それとも第三者による犯行か。どちらにせよ、何かが起ころうとしていることは確かだ。灘は灰皿に煙草をねじ入れ、開いた扉に視線を向けた。

「ただいま戻りましたー」

 呑気な声で入って来た虎波に対して、灘は軽く睨む。

「アーサーとオーガスト、双方に何か動きはあったか?」

「何すか、すごい怖い顔して」

 おっかないおっかない、と虎波は持っていたビニール袋からプリンを二つ取り出した。

「動きも何も、むしろ眠っているみたいに静かっす。あ、これ夜食っす。甘いモノ食べて頑張りましょー」

「……お前なあ」

 二人の頭目が殺されたことはすでに虎波にも連絡を入れてあった。それだというのに、こののんびりとした、いや、この呑気な様子は、調子を狂わせてくる。

「あ、でも一つ情報掴んだっすよ」

「どんな情報だ!?」

 机に勢いよく手を衝き、煙草の吸殻の山が崩れる。プリンを一口食べた虎波はスプーンで文字を描くように動かす。

「明日午後五時に出港する豪華客船エイブリー号、そこで催される船上パーティーなんすけど、どうやらパーティーは表向きで、本来の姿はオークション」

「オークション?」

「いわゆる『表に出ないお宝』を競り落とすオークションっす」

「なるほど……盗品か。だとしたら黒川が動き出してもおかしくはないな。日本に戻って来た理由も納得がいく。よし、明日乗り込むぞ。手続きをすぐに」

 上着を手に取って捜査本部を出ようとした灘を虎波が呼び止めた。

「先輩も聞いたことがあると思いますけど、各国御用達の商会が一枚噛んでいるみたいなんすよ。下手にこっちが動いて何かあれば上からどやされるどころじゃなくなるっすよ」

 虎波の言う商会は、各国政府と繋がりのある巨大商会のことだ。下手に首を突っ込めば首が飛ぶどころの話ではなくなる。世界中を巻き込んだ戦争に発展する可能性は十分に考えられる、それほど厄介な商会――組織だ。

 しかし、黒川が狙いそうな盗品、それがオークションにかけられるために豪華客船へ集められたとなれば、何もせずに黙って海岸から眺めているわけにもいかない。どうするべきか、取っ手に手をかけたまま固まっていた灘に、扉の外から声が掛けられた。

「虎波くんの言う商会はそのオークションから手を引きましたよ」

 穏やかな口調でありながら怪しげな雰囲気を放つ、笑顔を絶やさない不和警視は軽く扉をノックして中へ入ってくる。

「名だたる裏社会の組織が関わってくると知ってリスクが高いと考えたのでしょう。あちらだって争い事は避けたいところ。大きな権力は扱い方で身を滅ぼすものです」

「となると、我らが黒川逮捕のためだと申告すれば正当な理由で乗船することも可能かもしれない……!」

「そういうことです」

 ニコッと笑った不和は「盗品オークションに警察官が入れるわけがないでしょう?」と二枚のチケットを手渡してきた。

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