◆
「黒川一士の本名を知る者は多い。実際、警察の一部の人間は奴の本当の名前を知っていて、世界中探してみれば結構な人数が奴の本名を答えることができるだろうよ」
「有名人だった、ということですか?」
「まあ、有名人だな。業界的には、な」
長めのベンチ、互いに端へ座り、会話を進める。緑広がる夕暮れの公園には子供たちが楽しそうに笑いながら遊んでいる。暗く淀んだ世界を知らない無垢な笑顔を前に、自らその世界を望む桐乃は自分の異常さに顔を歪めた。
「本名は『
「椎名家……」
「知らなくてもおかしくはない、何せ二十年以上前にこの世から消え去った一族だ。当時は今みたいなネット社会じゃない、しかも情報のほとんどは紙の上、消そうと思えば簡単に消せる時代だった。だから、黒川一士の正体は一部の者しか知らない。知っていても、口を割ることはない。それは何故か。簡単な話だ」津屋は煙草をふかしながら言った。「家族を失った、一士のためだよ」
一士のため。
家族を失った。
言葉の意味を桐乃が探る前に、津屋が答える。
「二十年以上前から発生していた猟奇的殺人の被害に椎名家は遭ったんだ。一士はその時パーティーで集まっていた親族、家族に守られて生き残った唯一の人間だ。つまり、あいつは身内を全員失ったんだ」
黒川の過去が、津屋の口から語られていく。
「犯人は逮捕されたが、椎名家は一士以外が死亡した。失意茫然、きっと精神的に終わると当時の人間は思ったのだろうが、奴は違った」興奮した様子で、津屋は煙草の煙を吐き出す。「資産のほとんどを経営していた貿易会社の資金に残し、他の者に経営を託し、姿を眩ませた。奴は家族を奪われたことで『奪う人間』を心底恨むようになり、屋敷も何もかもを売り払って行方を眩ませている間、世界中を飛び回ってありとあらゆる技術を習得して回っていたそうだ。それはどうしてなのか。今の黒川を見ていればわかることだ。奴は自分がすべきことを悟ったんだよ」
「自分が、すべきこと……」
「奪う者から奪い返すこと、それは即ち奪う者への容赦ない制裁を意味する」
胸がざわめき、頭に浮かんだ、黒川の笑顔が呼吸を苦しめる。
「『奪われたものを奪い返す』ことを信条として奴は動き出した。あいつの情報がなかなか漏れないのは、奴の強力な信念と捻じ曲がることのない固い信条に、奴を知っていた連中が惹かれたからだ。あいつは無意識に世界中を飛び回って技術を習得する際に、出会った人々を惹き付けていたんだ。だから、奴はあらゆる方面から支援を受けるようになった。もちろん黒川が頼んだわけではない。勝手に、逃亡時の手助けや隠ぺい工作、資金援助などをするようになっていったんだ。そして黒川一士が椎名嗣であることは、彼ら彼女らの間だけの情報となり、ほとんど隠ぺいされているというわけだ。黒川一士の最大の武器は、銃でもナイフでも強靭な肉体でもない。類い稀な人望の厚さだ」
そこまで話し終えると、津屋は携帯灰皿に煙草をねじ込み、立ち上がった。
桐乃と同じような家系に生まれ、そしてその家族を失った彼。津屋の話だけでは見えてこない凄絶な人生と比べると、自分の人生の悲惨さなど小さいものだ。黒川の浮かべる笑顔の裏側に触れてしまい、奪う側の人間への憎悪が見えてきた。
奪うことの意味、奪い返すことの意味。彼が今に至った理由。覚悟もなく不用意に入り込もうとした愚かさに桐乃は唇を噛んで涙した。すると、津屋が目の前に来てニヤッと笑った。
「こちら側に来ようとしているようだが、甘いよ。甘々だ」
そう言った津屋の目の色が変わり、上空で数十羽のカラスが鳴き始めた。あまりの不気味さに身体が硬直する――思えば、彼は情報屋で、あちら側の世界の人間だ。しかし、黒川と長期契約をしているからといって『仲間』ではない。桐乃にとってはただの知り合いなのかもしれないが、彼にとって、桐乃は。
「情報料は軽く見積もって五億といったところか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます