「そんな……五億って……」

 不用心過ぎた。黒川や鳴瀬、由良たちがあまりにも平穏な雰囲気を放っていたため、勘違いをしてしまっていたのだ。彼ら彼女らは例外であり、目の前の津屋はあちら側の世界に生きる人間を相手取っている商人なのだ。

「まさか、情報屋の情報が無料で手に入るだなんて思っちゃいねえよな?」

 カラスの鳴き声が不気味に響く。脳内を引っ掻き回し、どうするべきなのか、思考が定まらなくなっていく。やはり、自分はあちら側の世界に踏み込むべきではない。そう思った桐乃が悔しさに目を閉じた、その時だった。

「――俺の目の前で女を苦しめるとはいい度胸だな、津屋」

 津屋の背後、金髪が風で揺れ動く。津屋が顔を引き攣らせて冷や汗をだらだらと掻き始めて「待った、待った! 冗談、冗談だから!」と両手を挙げ、いひひ、と笑った。鳴瀬琴音は津屋の肩越しに桐乃のほうへ微笑みかけた。

「代金は俺が持ってやるよ。だが如何せん、現金主義じゃねえんだ。鉛玉でいいか? いくつ腹に欲しい?」

 おそらく、津屋の背中に鳴瀬が拳銃を突きつけているのだろうと桐乃は察した。津屋の汗は止まらず、挙げた両腕はぷるぷると震えている。

「金は取らねえ! だからそいつを引っ込めてくれ!」

「ああ、いいよ。十秒やるからさっさと失せろ。黒川に情報垂れ流したことを話しちまうぞ?」

 ひいっ、と恐怖に満ちた表情を浮かべた津屋は、持っていたコンビニの袋を放り棄てて走り出した。公園の茂みを突っ切り、通りがかったタクシーに乗り込む。逃げていく津屋を面白おかしいと言わんばかりの笑い声で見送る鳴瀬は、ひいひい言いながら腹を押さえ、桐乃の隣に座り込んだ。

「ああ、ちなみに偶然だよ? 俺はたまたまここを通りがかっただけ。別につけてきたわけじゃないよ?」

 微かにあのカジノ内の臭いが鳴瀬から漂い、呆れと緊張の糸が解れたことで、全身から力が抜けてしまった。桐乃は薄ら涙を浮かべて「ありがとうございます」と鳴瀬に頭を下げる。

「ああいう奴と関わるのは細心の注意を払わないとな。一ついい勉強になっただろう?」

「はい……鳴瀬さんは、負けても勉強しないみたいですけれどね」

「はははは! ばれた?」

 二十万喰われちゃった! と鳴瀬は肩を落として俯いた。少しだけホッとした桐乃だったが、この安堵が危険なのだ。彼もまた、殺し屋と呼ばれる男だ。しかし――彼は桐乃の心を読んだのか、にかっと白い歯を見せて笑うと、脚を組んで嬉しそうに言った。

「俺を警戒するのは正解だけど、もう俺たちは友達みたいなものじゃん?」

「友達?」

「俺にとっては恩人でもある。昨日は本当に助かったよ。五百万の損失はガチでやばかった」

「ギャンブルやめたらいいんじゃ……」

「やめられたらいいのにねえ」

 呑気なことを言って、鳴瀬はぴょんと跳ねるようにしてベンチから起き上がった。

「まああれだ、せっかくまた会えたんだから、昨日のお礼も兼ねて今夜、一緒に飲もうぜ」

「……でも」

「友達が友達と酒を飲んで何が悪いよ。なあ? そう思うだろ、由良」

 由良? と桐乃は振り返る。ベンチの真後ろ、いつからいたのか、由良は桐乃の背後でじっと鳴瀬を機械的な目付きで見ていた。それから桐乃に視線を落とし、微笑む。

「鳴瀬が勝手なことをしないか、監視していたのです。あなたの監視ではありませんから、ご安心を。黒川さんの情報を知ったからと言って、私は何も致しません」

「でも、鳴瀬さんには黒川さんの情報を教えたら殺されるとか言って……」

「軽い口を持つ鳴瀬くんを、ということです」

「わあ、俺って信用されていねーな」

 鳴瀬が拗ねるようにしてしゃがみ込み、ベタに指先で地面をなぞり始める。そんな鳴瀬に苦笑いを浮かべつつ、桐乃は周囲を見渡して、それから由良に訊ねる。

「黒川さんは、いないんですね」

「ええ。明日、本格的に動くのでその準備と、津屋から得られなかった情報の収集を。私の仕事は大方終えましたので、鳴瀬くんの監視をしているのです。間違っても変なことをして牢屋にぶち込まれるようなことがあれば、明日に支障が出ますので」

「本当に信用ねーな。まあいいよ、どうせ俺は黒川と違って信用なんて無いも等しいし。ほら、飲みに行こうぜ、お嬢ちゃんは二十歳だっけ?」

「一応、今年二十歳に」

「なら問題ないね。由良も一緒に来るだろ?」

 由良は頷き、歩き出す。鳴瀬も歩き出し、桐乃は少し迷った。付いて行っていいものなのか、決めかねる。間違っているのか、正しいのか、その選択肢に迷う。このまま誰も居ない家に帰って、また一人でぽつんと過ごす。そんな光景に身体が強張った。

 あそこには居たくない、と桐乃は二人の後を追った。

 怖いと感じた。

 死すらも感じた。

 それでも、あの家に帰って得られるものは地獄であり、思い出されるのは最悪な日々だけ。

 背後に忍び寄る影から逃げるように、桐乃は走った。


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