覚悟


 自分の世界の息苦しさは、いつまで経っても慣れることはない。そして、離れてくれることもない。昨日のことがすべて夢だったかのように、目を覚ました世界は相変わらず重苦しいものだった。

 学校に行って、授業をぼんやり受け、昼食を済ませ、サークルに顔を出し、とくに活動することなく帰宅する。ふと、帰り際に旅行代理店の横を通りがかる。海を跨げば違う世界があるのかもしれないが、そこにも自分の居場所がないことぐらいは用意に想像できる。

 何もない、取り柄もない、才能もない。平凡で普通の人間。一瞬でもあちら側に自分の居場所があるのではないかと思ってしまったことが、ずっと引きずってしまっている。もう二度と戻れない場所が、自分の望む世界だった。

 黒川は今頃、ダイヤを手に入れるために作戦を練ったり、準備を進めたりと忙しくしているのだろうか。鳴瀬は相変わらずギャンブル依存しているのだろうか。今日も笑顔を絶やさず、由良は黒川達のサポートに徹しているのだろうか。

 四六時中、考えることは自分の情けなさだ。もっと強引に、強気になって留まることができていれば、もしかしたらあちら側に残ることができていたかもしれない。

 もっと居たかった、ずっと居たかった世界は、目の前にありながら、手の届かない場所にある。手を引いてもらえなければ、自分は足を踏み入れることすらできない――

「……もう、駄目なのかな」

 いつしか『あちら側の世界に行きたい』という思いは『彼ら、彼女らに会いたい』という思いを生み出していた。黒川に、鳴瀬に、由良に、会いたい。願い、乞い、帰宅途中のバス停で――桐乃はある人物を見かけた。間違いない、と自然と脚が動く。

「津屋さん、ですよね?」

 駆け寄り、コンビニから出てきた男に声をかける。情報屋の津屋、ほんの少ししか顔を合わせていないが、間違いなく津屋だ。すると、彼は周囲を見渡してからニッと笑った。

「天嵜製薬の御令嬢が俺みたいな奴に平然と街中で話しかけないほうがいいぞ。生きる世界が違うんだからよ」

「その世界に私は……」

 言いかけた口を閉ざし、再度開く。

「教えてほしいことが、あるんです」

「まあ俺は情報屋だから、金さえ積んでくれれば情報はくれてやるよ。ただ、黒川の旦那とは長期契約を結んでいるから、あまり口を滑らせるわけにはいかないねえ」

「その黒川さんのことを、教えてほしいんです」

 小さなきっかけでも、桐乃があちら側に干渉することのできるチャンスになるかもしれない。もちろん、黒川たちの住まう世界にも自分の居場所がないかもしれないことぐらいはわかっている。わかっているからこそ、抗おうとしている。変えたい、変わりたい。強い気持ちが、自然と桐乃を動かしている。

 津屋は渋った顔をしてコンビニの袋から煙草を取り出した。

「ついて来な。ここは目立つ。そうだね、この先の公園のベンチにでも行こうか。間を空けて座っていれば怪しまれんだろう」

 へへ、と笑って津屋は歩き出し、桐乃は一瞬だけ迷ったが、すぐに津屋の後を追って歩き出した。


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