記憶


 黒川が言うことは正しいことばかりだった。家柄もよく、下手な生き方をせずに無難な生き方さえすれば波風立たない生活がこれから先も待っている。普通に、平凡に、生きていくことができる。羨ましがられるほどに穏やかな人生。しかしそれが、桐乃にとっての苦痛なのだ。

「……小さい頃から何の取り柄もなかったんです。大学もレベルのかなり低いところしか受からなくて、家族からは白い目で見られてきました。どうしてお前はそんなに出来が悪いのか、って言われ続けて、挙句、本当に自分たちの子供なのかって、実の親に疑われました」

 吐露した悲痛な過去に対して、黒川は背を向けて腰に両手を当てた。由良はジッと桐乃を見つめていて、そんな中、桐乃はぼろぼろとこぼれ始めた自分の涙を何度も拭い、言葉を紡いでいく。

「だから、黒川さんと出会って、騒動に巻き込まれたこのひと時は特別な時間に思えてしまったんです。まるで映画の中に飛び込んでしまったかのような感覚が、本当に嬉しかったんです。何かが変わるかもしれないって、期待しちゃったんです。でも、黒川さんの言うとおり……私は、そちら側の世界には、立ち入っちゃいけないのでしょう。私みたいな何も持たない小娘にとって、無謀な行動だったのかもしれません」

 しゅんと項垂れ、何度も袖で涙を拭っていると、由良が真っ白なタオルを差し出してきた。「ありがとうございます」とかすれた声で受け取り、思い切り顔をごしごしと拭う。

 僅かな時間ではあったが、確かに非現実的な世界にいることができたのだ。これが自分の人生にどういった影響を与えるのだろうか、そんなことを考えながら桐乃は悔しい思いを噛みしめ「お邪魔しました」と呟いた。

 黒川は大きく息を吐き出して、書類を手に取る。「由良、後は頼む」と黒川が歩き出した直後、その書類からするりと一枚の写真が抜け落ちてきた。まるで桐乃に吸い寄せられるように写真は桐乃の太ももへ。鼻をすすりながら写真を返そうと――手に取った写真に写った男の姿に、桐乃はフラッシュバックを起こしたかのように、数十分前の記憶が呼び覚まされた。

「この人……」

「知っているのか?」

 写真を受け取ろうとしていた黒川の手が止まり、由良と顔を見合わせてから桐乃に視線を戻した。空気が変わったと感じた桐乃は、正直に話すべきだろうと、写真を黒川に返してから話した。

「杠さんのお宅の地下駐車場、あそこで黒川さんがハイビームで目くらましをしたじゃないですか。あの時の警官の中に、この人がいました」

「おいおい、俺はまったく気が付かなかったのに、よく記憶していたな」

「昔から変なんですよ、私」立ち上がり、借りていたカーディガンをソファーの背もたれにかける。「刺激的というか、興奮状態だったり特殊な状況に陥ったりしたときだけ、妙に記憶力がいいんです。映像として残るので、後になって頭の中で再生できたりするんですよ。音はないので、本当に映像だけですね。日常生活ではまったく使えないので、今日みたいに刺激的な非日常的光景は、鮮明に記憶しています。ですので、この人がいたことがすぐにわかった、ん……です……」

 桐乃が自分の役に立たない部分について話していると、黒川の目の色が徐々に変わり始めていた。何かおかしなことを言っただろうかと心配になってきた桐乃は、あたふたし始める。

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