扉の奥は葉巻の香りが漂ってきそうな雰囲気に包まれ、ランプの灯りに近い暖色の灯りが渋さを醸し出している。映画でよく見るマフィアやカモッラの部屋のように古いアンティークや家具がいい味を出している。サングラスと帽子を外した桐乃はコートを脱いで変装を解いた黒川に「適当に腰掛けて」と言われ、緊張しながらもソファーに座った。

「この部屋はさっきの男の趣味嗜好の塊のようなものでね、そのせいで奥さんに逃げられちまったんだ」

「へ、へえ……」

「何せ、そのソファーだけで二千万するからね、奥さんも怒るわ、当然」

 苦笑いしか浮かべられず、とりあえず話題を逸らそうと、周りを見渡す。確かにお金をかけなければ揃えられない高級家具やアンティークばかり。目移りするわけではないが、そわそわしていた桐乃の前に甘い香りのする紅茶の入ったティーカップが置かれた。向かい側に座った黒川も同じティーカップを手に持っていて、軽く口を付けてからスッと目線を桐乃に向けてきた。

「人には人の事情っていうものもある。それにさっきは手伝ってくれたし、逃走時の人質役もやってくれたから感謝はしておくよ。ただ、透き通った山水と、ヘドロ混じりの汚水が長いこと一緒にいるわけにもいかんだろう」

 黒川の言いたいことがわかり、しかし桐乃は言い出せずに手に取ったティーカップをそっとテーブルに戻した。

「この後、仲間にお前を家まで送らせる」

「いえ……その」

「安心しろ、顔が割れているからって何もしやしねえって」

「そういうことでは、ないんです」

 きゅっと唇を固く結び、そんな桐乃を見て、黒川はため息交じりに紅茶をぐいっと飲み干した。黒川が空になったティーカップを置き、胸元のネクタイを緩めると、入口の扉がゆっくりと開いた。顔を向けた桐乃とは対照的に、黒川は見向きもせず、そのままネクタイを首元からするりと抜き取った。

「黒川さん、次のリストになります。津屋様からの情報もまとめておりますので」

「ありがとう、由良ゆら。悪いけれど、彼女を家まで送ってやってくれ」

 黒川がそう言って、部屋に入って来た一人の女性から書類の束を受け取った。あどけない雰囲気を滲ませる彼女は深々とお辞儀をするとニコッと笑った。

「失礼ですが、住所を」

 黒川から由良と呼ばれていた女性が白紙の紙とペンを置かれ、しばらく渋っていた桐乃だったが、粘ったことで生まれた沈黙に耐え切れず、仕方なく、諦めて住所を書く。すると、由良が首を傾げて黒川のほうを見た。

「彼女、天嵜製薬の娘さんでは?」

「天嵜製薬?」

 書類から桐乃のほうへ視線を移動させた黒川は目を丸くさせて口角を上げる。

「ここ数年で一気に業績を上げてきた製薬会社だったかな? 確か会長の名前は天嵜光之輔……来年喜寿を迎えるはずだから、お嬢ちゃんの父上じゃなくて、お祖父さまに当たるのか。お嬢ちゃんって呼び方は正解だったわけだ」

 興味津々な目を向けられた桐乃は俯き、ティーカップへ目線を落とす。

「総資産は五千億近いと聞くが、どうしてまたそんなお嬢様が、俺みたいな奴の住む世界に巻き込まれようとするかな」

「黒川さんが巻き込んだのでは?」と由良に言われ、黒川は「それもそうだな」と笑った。

「そういえばお嬢ちゃんは俺に訊きたいことがあるんだったよな? だから俺に声をかけてきたんだろう?」

 そういえば、と桐乃は恥ずかしさを堪えながら、訊ねることにした。

「エンドロール……最後まで観ていらっしゃったのがあなたと私だけだったんです。だから、同じ思いで最後の最後まで映画を観ていたのかな、と……ちょっとだけ、期待しちゃって」

「ああ……そういうこと」

 脚を組んで、黒川はワイシャツの上二つのボタンを外しながら、静かな口調で答えた。

「映画は二、三時間で物語としての形を成さなければならない。もちろん続編云々もあるにはあるが、単発の映画がほとんどだ。そのニ、三時間の物語は何ヶ月も、あるいは何年もの時間をかけて制作されている。何十人の場合もあれば何百人ものスタッフ・キャスト・関係者が一つの物語に関わっている。それが俺には人間が生きる人生の縮図のように思えるんだよ」立ち上がり、両腕を広げて目を閉じる。「俺の人生に関わったすべての人が、俺の物語を彩り、形作っている。ある時は妨害し、ある時は成長を促し、ある時は愛情を注ぎ、ある時は憎しみを抱かせる。例え関わっていなくとも、間接的影響を俺が受けていないとは断じて言えない。根拠も証拠もなくとも、可能性はゼロではない。もしかしたら今日、映画館で一緒に観ていた他の連中だって、俺の人生に大きな影響を与えている、もしくは与える存在かもしれない。わくわくするだろう! エンドロールを最後まで観るのは、そういった面白さが隠れているからさ。あの物語にどれだけの人間が関わったのか、それを俺は純粋な好奇心から知りたい。さて、長たらしい回答で申し訳ないが、これが俺の答えだ。満足していただけたかな?」

 演説口調の黒川に惹き込まれてぽかんとしていた桐乃は、何度も小刻みに頷いて見せた。何だか嬉しそうに微笑む黒川は広げていた両腕を下したが、下した直後、物悲し気に言った。

「俺の仲間に映画好きがいないからねえ、ちょっとだけきみとは話が合いそうだから嬉しいんだけど、しかし如何せん、住んでいる世界がまるで違う。言うなれば、例えるのであれば、スクリーンに映し出された登場人物が俺で、観客としてスクリーンを前に座っているのがお嬢ちゃんだ。悪いことは言わない、お家柄もいいのだから、荒れ狂う大嵐がひしめき合う航路をわざわざ通ろうとはしないことだ。巻き込んでおいて無責任かもしれないけれどさ、間違いなくこれ以上踏み込めば後悔するよ。血なまぐさい世界に、お嬢ちゃんは来るべきじゃない」


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