余裕綽々の国際指名手配犯は窓を閉めて、少しだけ速度を緩めた。それでも時速八十キロメートル、桐乃はハラハラしているこの時間が――不思議と心地良いもののように思え始めていた。

 黒川がラジオを流し始め、聴いたことのない洋楽が流れ始める。日本にいながら日本にいないような感覚と、まったく別の世界で生きているはずの人間が、まさに平凡且つ普通の自分の隣で口笛を吹きながら高級車を運転し、警察をまいている。

 流れ行く景色よりも、車内の景色が桐乃の脳裏に深く、深く刻み込まれていく。

「ちゃんとハンカチを手首に巻いていてくれたから、人質に見えただろう。これから俺はアジトに帰るから、どこで降ろしたらいいかな? 言ってくれたらそこで降ろすよ」

 黒川の言葉に桐乃は返答することを躊躇った。騒がしい世界を歩む誰それが休まることなく縦横無尽に闊歩している世界に――今まさに自分がまき込まれて、存在している。平凡且つ普通の人生という道しか歩んでこられなかった自分が、世界を飛び回る噂の怪盗の隣に座っている。

 何かが変わろうとしている。

 しかし、ここで彼と別れることになれば、その変わろうとしているきっかけを失うことになる。

 今までの平凡で普通の人生を振り返る。何の取り柄もなく、家族からも疎まれ、お嬢様なんて小馬鹿にされて、広いはずの世界が狭く感じられて、息苦しい。

「お嬢ちゃん?」

 黒川一士。彼の傍にいたら、この世界はどう自分の瞳に映るのだろうか。

 好奇心ではなく、救済の叫び。

「止まったら、また追い付かれるかもしれないわ」

「……ふうん?」

 涙を拭って、桐乃はぎゅっとシートベルトを掴んだ。

「自分から巻き込まれにいくか……面白いねえ、普通、死にたくないって逃げ出すもんだろうけれど」

 ちらっと桐乃を見てきた黒川に、桐乃は真っ直ぐ前を向いて目を逸らさずに耐える。

「……事情あり、か。ま、俺としてもこのじゃじゃ馬を休ませるのはあまり好ましくない判断だ。それに、これ以上タイヤをすり減らすのも姫月嬢に悪い。いいだろう、人質役として最後まで付き合ってもらおうか」

 そう言って黒川は直線道路を一気に駆け抜けていった。後方にパトランプの渋滞が起こっているのをサイドミラーで見て、桐乃は冷静さを取り戻そうと小さく何度も深呼吸を繰り返した。

 ドキドキが止まらず、息苦しい。しかし、今まで感じていた息苦しさとは違い、映画でよくある怒涛の展開の連続に呼吸をすっかり忘れてしまったときのような息苦しさだ。

 映画、まさに今まで観てきた映画の中にいるような感覚にぶるっと身体が震えた。空の青さが、今までにないくらいに眩しく見えた。

 

 すべてを棄ててもいい、そんな気持ちにさえさせるほどの青さだった。


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