怪盗

 黒服の男に案内を受けてエレベーターに乗り込み、一気に地下駐車場へ向かう。その最中に、桐乃はさすがに訊いておかなければ整理がつかないと青年に声をかけた。

「あの!」

「どうした?」

 落ち着いた様子の青年は両手に黒い手袋をはめて耳に黒服の男と同じような無線インカムを取り付けていた。呼吸を落ち着かせつつ、状況整理を兼ねて訊ねる。

「あの女性は何者なんでしょうか? そもそも、あなたはいったい」

 青年が「そういえばそうだった」と笑って懐から――拳銃を取り出した。その拳銃を見た瞬間、桐乃の身体は硬直した。初めて見る拳銃、それを持った青年。目が泳ぎ、青年の言葉がこもって聞こえる。

「杠家は代々世界各国の要人の盾となる護衛を育成する組織、その中枢を担ってきた家系でね、彼女がその杠家の十代目だ」

 エレベーターが地下駐車場へ到着、扉が開いたのと同時、黒服の男が先に降りて様子を確認する。「足音が近い、お早く」と指を駐車場中央へと向けた。黒のシボレー・コルベット。桐乃が記憶している姿と異なることから、おそらくカスタムカーだ。

 座席に乗り込み、シートベルトをした青年に遅れて桐乃もシートベルトを装着。すると、青年が白いハンカチを取り出して「そいつを両腕に巻いて、拘束されている体でよろしく」とエンジンをかけた。爆音が地下駐車場に響き、黒服の男の合図を見て、青年は「舌噛むなよ」と言った直後――ジェットコースター、初速から最高速度に達したかのような感覚に桐乃は涙目になりながらシートベルトにしがみ付いて歯を食いしばった。タイヤから煙が上がり、青年は素早くハンドルを操りながらシフトレバーを素早く動かす。二車線ある地下駐車場道路を一気に駆け抜ける。

 親指を立てて黒服の男に目配せをした後、青年はスロープから姿を見せた警官に向かってハイビームで目くらまし。間を縫うようにして車を走らせ、スロープを一気に駆け上がった。


 現在速度、八十キロ。


「ちょっと待っ……!」

「口は閉じてなって」

 青年の呑気な声など耳に入るわけもなく、スロープはさながら発射台、地下駐車場からさらに加速したシボレーは、危険と判断した警官が避ける中、ロケットの如く地上へ飛び出した。

 浮遊感を全身で感じながら、浮かべた涙は空中へ飛んでいく。真っ青な空に飛び込むような奇妙な感覚の中、空中を飛ぶシボレーの下、警官たちの驚き顔が桐乃脳裏にはっきりと刻み込まれた。そして着地と同時に突き上げる衝撃が臀部から脳天に響き、桐乃は思わず呻き声を上げた。

「よし、とりあえずは脱出成功だな」

 ドリフトの遠心力で身体がいうことの利かない中、青年は公道に飛び出すとさらにアクセルを踏み込んでシフトレバーを操作、ギアを上げていく。今度はシートに身体が押し付けられ、もはや午前中までの穏やかな日々が遠い過去のように桐乃には思えてならなかった。

「さて、さっきの質問にちゃんと答えておかないとね」

「え? 何ですか?」

「まあまあ、落ち着いて」

 なんて言いながらルームミラーを確認した青年は「これはなだだな」と呟いて軽やかにシフトチェンジ、サイドブレーキ、クラッチ、ブレーキ、アクセルを華麗な手捌き足捌きで処理、自由自在、曲がり角をドリフトしながら綺麗に曲がると懐から拳銃を取り出し、笑って青年は答えた。

「さっき言ったよね。俺は黒川一士、偽名だ」

「偽名!?」

「まあ名前は飾りさ。きみは新聞を読まないタイプかい? 偽名とはいえ、結構知れ渡っている名前だと思っていたんだけどね」

「新聞?」

 激しい運転に頭の中がこんがらがりながらも、桐乃は毎日目を通している新聞記事をいくつか思い出す。黒川一士。その名前に心当たりはなく、記憶にもそれほど残ってはいなかった。しかし、青年の言葉が僅かにあった記憶を呼び覚ました。

「世間では俺のことを怪盗だの言っているようだが、まあ正直な話、別に怪盗と名乗った覚えはないんだよ。日本は久しぶりでね、やっぱり空気が美味い」

「怪盗……!」

 世界中を駆け回る怪盗が日本に舞い戻って来たという噂――まさか、と桐乃は青年のほうを見て目を丸くさせた。にこやかに笑顔を浮かべるこの青年が、ここ数年、世界中を騒がせている怪盗。あり得ない、と思いたい気持ちと、あり得るかもしれない、という現実が交錯する。

「去年まではロシアに、ああ、さっきの懐中時計を奪い返しに行っていたんだ。前の年は南米と欧米を往復しなきゃならなくって大変だったよ。その前は確か北欧の貴族との間でごたごたして何度か死にかけたっけか。さすがに生身で戦車を相手にするのはまずかった。せめて防弾チョッキを装着すべきだったと後悔したよ」

 後悔などと言っておきながら青年は笑みを崩さない。


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