杠姫月嬢

 大理石でできた玄関を抜けると真っ青な空が飛び込んできた。壁一面の窓から望む景色は素晴らしいもので、夜になればさらなる美景――夜景に息を?むであろうと、桐乃は豪華絢爛な内装や装飾、飾られた絵画や陶器を見渡した。どれもこれも一級品ばかり。これほどのものを揃えられる堅気ではない相手となると、桐乃が今まで会って来た相手とは全く逆の世界に住む人であることは間違いない。

「すぐに嬢は参りますので」

「ああ、すまない」

 そんな相手と会う直前だというのに、青年は動じることもなく桐乃の手を引いてソファーに座った。座り、そこで手を離されて一気に不安が押し寄せてくる。

「大丈夫、何も怖がることはないよ」

 そう青年は言うが、それは無理な話だ。まさか、まさかこんな事態になるとはさすがに桐乃も想定していなかったのだ。

 用事に付き合う程度、その程度だと軽く考えて、軽い気持ちでついて来てしまったことを後悔していると、真っ白な扉が開き、色気たっぷり、風呂上りなのか、ローブを纏った女性が現れた。化粧っ気がないというのに美しい肌が逆に危ない香りを放ち、少し眠そうな目元や鎖骨に見え隠れする黒子が色気を増している。

 青年が立ち上がり、桐乃も一緒に立ち上がる。軽くお辞儀をして、青年が「急に押しかけて申し訳ない」と笑顔で言った。杠姫月嬢は無愛想にしていたが、どこかそわそわしながらソファーに深く座った。青年が座り、桐乃が座る。ジッと桐乃を見つめてくる姫月に、青年が口を開いた。

「彼女を連れてきて正解でした。裏社会において、絶世の美女と名高い姫月嬢、男一人で訪れるにはハードルが高すぎますから」

「なるほど、そういうことか」

 棘のある声で姫月は桐乃から目を外し、青年の持つケースへと目を向けた。そして、軽く青年を睨み、艶めかしい脚を組んだ。青年が動き、ケースをローテーブルに乗せる。

「ご確認を」

 ケースを開け、青年は中身が見えるように姫月のほうへとケースを動かした。中に入っていたのは古びた懐中時計だった。光沢のある銀でできた懐中時計。龍と虎だろうか、描かれた獣が威嚇し合っているかのような装飾が目を引く。そっと手に取った姫月が懐中時計を開く。その瞬間、眠たげだった眼がゆっくりと開き、気のせいではない、涙が彼女の瞳を潤ませた。

「いかがでしょうか?」

「ええ……間違いなく、祖父の形見です。裏に彫られたサインが何よりの証拠です」

 涙を拭う仕草もまた色っぽく、ほんのり頬が桃色に染まり一層色気が増していく。黒服の男がハンカチを持って来て姫月に手渡し、涙を拭った姫月は打って変わって柔らかい表情を浮かべる。それを変わらぬ笑顔で見ていた青年が立ち上がって窓へと歩み寄り、外を眺めながら語り始めた。

「今から十五年前に起こったハイジャック事件。殺人事件で国際指名手配されていた犯人は逃亡手段として飛行機を使用し、ハイジャックを実行した。その際、乗客の金品を奪い取り、その中に姫月嬢のお祖父様が偶然乗り合わせていた。飛行機は着陸予定の空港とはまったく別の空港へ向かい、着陸。待機していた仲間と合流した犯人は金品を手に逃走、その時、犯人が仕掛けていた爆弾で、乗員乗客全員がその後起こった大爆発で死亡。犯人は三年後に逮捕されたものの、盗まれた金品はすでに闇の中、探すにしても表の取引現場に姿を現すことはなかった。故に、十五年間、その懐中時計はありとあらゆる人の手に渡り、巡って来た。そして今、こうして持ち主の唯一の家族であるあなたの手元に届いたわけだ」

 くるっと回転して振り返った青年に、姫月が小さく頷いて立ち上がる。

「奪われた金品のほとんどは闇市で取引された後にブローカーの手で世界中に渡り歩くこととなった。その懐中時計はロシアンマフィアの手からアジア議員の手に、それから中南米に渡り、その後もう一度ロシアへ渡った。最後の持ち主はロシアでも名高い名家の当主だったよ。少しばかり手こずったけれど、まあ結果オーライだ」

「……噂どおりの男だな、黒川一士」

「噂なんざ知らないね。興味もない」

 話がよく呑み込めていない桐乃は置いて行かれまいと急いで青年を追った。

「報酬は?」と姫月。

 青年はニヤッと笑った。

「車を貸してくれるかい?」

 どうしたのだろうと桐乃は窓に歩み寄り、見下ろす――赤、赤、赤。赤いランプが駐車場を埋め尽くし、ぞろぞろとパトカーから降りてくる警官がこの億ションへとなだれ込んで来ていた。

 意味が分からず、桐乃が混乱状態で青年を見る。不敵な笑みを浮かべた青年が「俺も有名になり過ぎたようだね」とぼやいた。

「直通で地下駐車場へ、黒のシボレーよ」

「助かる」

 車のキーを投げて寄越した姫月は桐乃を見て「いつもこんな感じで大変でしょ?」と微笑んでから黒服の男に案内を指示した。いつも? と桐乃は姫月が青年のパートナーか何かと勘違いしていることに気付いて訂正しようとしたが、それを阻むように青年が動いた。

「何かあれば連絡ちょうだい、力になるわ」

「助かるよ」と青年は走り出し、手を掴まれた桐乃は「お邪魔しました!」と引っ張られながら手を振る姫月に言った。

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