黒川一士


 向かった先は映画館の入っているショッピングモールから少し離れた高層マンション、否――億ションだ。

 ロビーに入るとコンシェルジュのいるフロントへ青年が向かった。

杠姫月ゆずりはひめき嬢に伝えてもらいたい。懐中時計についてお話があると」

 女性のコンシェルジュが名前を訊いて来て、青年は「そうですね……黒川一士くろかわはじめとお伝えください」と付け足した。本名なのかどうかも怪しい青年の口ぶりにコンシェルジュは隠そうにも隠しきれない不信感を漏らしつつ受話器を持ち上げた。電話での確認の最中も青年は桐乃の手を離さなかった。いつの間にか腕ではなく手を握られていた。気付いて桐乃がどぎまぎし始めると、コンシェルジュが丁寧にお辞儀をして「こちらへ」とエレベーターへと案内してくる。

 コンシェルジュがモニター横の隙間にカードを差し込むとモニターに番号が表示され、部屋番号を入力する。エレベーターが到着し、扉が開く。

「杠様がいらっしゃる最上階まで直通となっております」

「どうも」と青年はケースを一度床に置いてからチップをコンシェルジュに手渡した。エレベーターに乗り込んで扉が閉まると、上昇、鉄の箱はぐんぐん天空へと近付いて行く。

「普通、こういう待遇を受けると動揺の色を見せるものだけれど、きみは違うね。慣れているのかい?」

 青年の笑みに戸惑いつつ、緊張の糸が張り詰めたままの桐乃はぎこちない口調で答えた。

「慣れているというわけではありません。ただ、こういったマンションや邸宅に住まわれている方々とは色々とご縁がありますので」

「なるほど、きみはどこかのご令嬢か」

「そんな……たいそうな人間ではありません」

 しゅんとして俯くと、ちょうどエレベーターが止まった。青年に引かれて降りると広々としたフロア、大きな扉がに鎮座していた。

「まあ事情は何であれ、胸を張っていてもらえると助かるよ。これから会う杠姫月嬢は少々特殊な職業に就いているんでね、機嫌を損ねたらハチの巣にされちまうかもしれん」

「ハチの巣!?」

 表現からして明らかにこれから会う相手が堅気の人間ではないとすぐに桐乃は判断、ぴんと背筋を伸ばし「うん、そんな感じで」と青年に頷かれる。すると扉が開き、姿を現したのはいかつい顔をした大柄な男だった。サングラスに黒服、耳に取り付けられた無線インカム、胸ポケット辺りの膨らみ。危険な臭いしかしない風体に反射的に脚が震え出す。

「どうぞ」と低い声で案内され、青年が臆せず笑顔で進む。当然、手を引かれている桐乃も前に進まざるを得なかった。


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