登山を始めてから五年が経った頃、高校生だったなつめは久しぶりに父親と登山に向かった。その時、会社の部下である男性も一緒に登ることとなったのだが、登山口から頂上まで、なつめは一言も発することができなかった。彼は――嵩地たかちは、なつめにとって、焦れる男性のイメージそのものだったからだ。

 なつめは当然、性格的に積極的ではない。おかげで話はおろか、自己紹介すら父親に任せてしまったほどだ。印象的に最悪だった、しかし、嵩地はなつめがそういう子であることを察したのか、頷くことぐらいしかできないなつめに対して、優しく接してくれた。一人でしゃべらせてしまっていても、ちゃんとなつめが頷くだけで充分な話に持っていってくれた。きつそうにしていたら、すぐに声をかけてくれた。本当に素敵な人で、焦れる男性としてずっと意識してきた――だが、結局は父親の部下で、上司の娘という立場であることはその先も変わることはなかった。

 時々、なつめの自宅に父親が彼を連れて来ることがあったが、その時も会釈するだけで自分の部屋に逃げ込んでいた。仮にきちんと会話ができたとしても、自分に自信のないなつめに、勝機などないことは至極当然、わかりきったこと。

 そんな彼が今、目の前にいる。

「登山口で会った時、少し顔色が悪かったのが気になってね。中腹まで登ったけれど、引き返してきたんだ」慣れた様子で、嵩地はなつめの足首をテーピングで固めていく。「腫れも少ないし、骨折はしていないだろうけれど……うん、とにかく、下山したらまず冷やさないとね。靴紐はしっかりと結んで、足首が動かないように」

 言われたとおりに靴紐を固く結び、がっちり固定された足首はさっきよりも痛みが少なく感じられた。それよりも、胸がばくばくと弾けそうなぐらいに高鳴っているほうが、なつめには気になって仕方ない。

「なつめちゃん、調子が悪い時は引き返すことも大事だよ。無理をしたら、楽しい登山も楽しめなくなる」

 屈んで顔を見ながら叱ってくれる嵩地に頷き、反省する。ご尤も、まさにそのとおり、自己管理の甘さが引き起こした怪我だ。わざわざ気になって下山してきてくれた嵩地には、本当に申し訳ない気持ちだった。だが、彼は付け足すように微笑みながら言う。

「でもわかるよ、逆に、調子が悪いから登りたい時ってあるよね。俺もその口だ、ストレスが溜まると、どうしても山に登りたくなる」

 腰を上げて空を見上げた嵩地につられて、なつめも見上げる。木々の隙間から見える空は、さっきよりもどんよりとしている。一雨来そうな、そんな黒い雲も見える。

「何かあった? 話、聞くよ」

 言われて、思わず口を開きそうになる。それをすかさず、制止する。閉口し、黙り込む。

 

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