――面白いとも思えない、しかし彼らにとっては面白いのであろう話を二十分近く聞かされたなつめは、ようやく休憩を終えた初老グループから解放された。休憩のはずが、いつも感じている疲労感にグループの姿が見えなくなってから、なつめはぐったりとベンチにもたれかかる。すると、見上げた先、紅葉のドーム、全方向が真っ赤に燃える秋の色に染まっていた。登り始めた時には緑色残る中途半端な紅葉だったが、この辺りから先はしっかりと紅葉している様子だった。

 自然と口が緩み、ゆっくりと瞼を下す。こぽこぽと音を立てて流れ落ちてくる湧き水の可愛らしい音色、時折吹く小風が揺らす木々のざわめき、揺らした脚が触れる落葉の擦れる音、遠くに響く小鳥のさえずり、心落ち着く土の香り、少し肌寒い秋空、木漏れ日の温もり、全身を包み込んでくれているかのような優しい空気――登山が好きになった理由は、疲れ切った心を癒してくれる、この空間や時間があるからだ。

 初めて父親に登山へ連れて行ってもらったのは小学五年生の時だった。最初はとくに興味もなく、虫とかいっぱいで気持ち悪い、そんなことを思っていた。しかしいざ登ってみると、世界は違って見えた。体力のないなつめには苦行とも言える登山だったが、その中で、自然に囲まれた場所にいる自分に普段の偽物の笑顔がないことに気付いた。普通に、何気なく、自然と笑っていた。その時は登山客の少ない低山だったこともあり、父親となつめの二人だけの山。聞こえてくるのは自分の乱れた呼吸音、鼓膜に響く心音、落ち葉を踏みしめる音、時々聞こえる鳥の鳴き声。

 父親は昔から寡黙だったこともあり、まるで山の中に自分一人しかいないかのような感覚に、妙な安心感を覚えたことを今でもはっきりと思い出せる。肌に水が合うように、なつみには山が肌に合っている、そう感じたのだ。

 しばらくして瞼を開く。足音が後ろから聞こえ始めた。次の登山客がこの休憩所に来ると考え、手早くザックを背負い直し、休憩所を早足で立ち去る。まだ五分の一程度、下山時間を考えると、このペースでは山頂に着いたとしても帰りは暗くなる可能性が高い。装備は一応整えてきたものの、夜の登山は未経験。途中で引き返すか、それともペースを上げるか。迷っている時間も勿体ない、とにかく登りながら考えようと許容範囲内で少しだけペースを上げて――変な音が耳元に響く。

 小さな石が堆積した水の引いた小川、そこに足を踏み入れた直後のことだった。立ち止まり、嫌な汗が噴き出す。じわりじわりと足首から痛みが込み上げ、熱を持ち始める。ふらつき、近くに生えた大木に寄りかかる。まさか、と思いながら、なつめは右足首を軽く動かしてみる。鋭い痛みに、目を思わず閉じてしまう。やってしまった。油断し、足元への注意を怠ったせいだ。なつめは痛みを堪えながら、座れそうな場所を探す。少し濡れているが、ちょうどいい岩を見つけて腰掛ける。お尻がじんわりと冷たくなっていくが、我慢できる。我慢できないのは、この足首の痛み。

 完全に捻ってしまった、捻挫。今まで怪我をしたことがなかったこともあり、なつめには軽くショックでもあった。雑念が多過ぎたのか、それとも焦り過ぎたのか。どちらにしても、やはり調子が悪かったのは気のせいではなかったということだ。

 後方、下のほうから登山客が登ってくる。捻挫していることを気付かれたら軽く騒ぎになりかねない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る