第16話 硬貨のウラガワ

 急に鳴り始めたのか、それとも鳴っていたことに今気づいたのか。

 コトコトと何かが煮立つ音がして気になって目を開けると、途端に視界が白く染まって反射的に目を閉じてしまう。眩しい。

 昨日寝るときにカーテンを閉めてなかったのか、それとも明かりを消し忘れたのか――あれ、わたし昨日、どうやって帰ってどうやって寝たんだっけ?


「ん……んぅ~……んー?」


 目を開けないまま怠けた身体を無理に動かして、いつもそうしているのと同じように、セットしてすらいない目覚まし時計に伸ばした手が空を切る。重いまぶたを無理くり開けて目覚まし時計を探すけれど、それらしいものは見当たらない。というか、目に入る光景がおかしい。わたしの部屋じゃない気がする。


「ん、ん~……んん!?」


 見慣れないも何もあぁそうだ、そもそもここわたしの部屋じゃない!


 ようやっと思考がそこに辿り着いて、昨日のことが急激に思い起こされていく。そうだ、わたしは生駒くんの住む部屋に招かれてご飯を食べた後、疲労が祟ってかそのまま寝てしまったんだった……。

 リビングでわたしが寝落ちしたはずの座った足の低いソファから、隣の寝室のベッドに寝ながら移動できる能力がわたしにあるとは思えないので、きっと彼が運んでくれたんだろう。……あの細腕の何処にそんな力があるのか分からないけれど。


 と、ここでさっきから聞こえていた音がまた気になって、そちらに意識を向ける。半分寝ていた時には分からなかったけれど、これは高校に上がって一人暮らしを始めて以来久しく聞いていなかった、朝食をつくる音だ。


 ベッドから降りて襖を開けると、そこにはすぐにリビングがある。真正面には昨日わたしと生駒くんで晩ごはんを食べた低いテーブルとソファ、そこに座って見やすいように設置された小さいテレビとテレビ台。

 そして左を見ると、一段上がって設置されたシステムキッチン。そこから、わたしが起きたことに気付いた彼がこちらを見ている。


「おはよう生駒くん。ごめんね、運ばせちゃったみたいで」

「……いや、別に」


 いつもよりやや低いトーンで返ってきた返答で、彼が”どっち”なのかを悟る。

 彼はわたしがいつも話している、背負い込みがちで不器用な”生駒くん”ではなく、その生駒くんの”助けを求める心の具現”とも言うべき存在であり、ある意味もう一人の生駒祐樹だ。


「……えっと、久しぶり……なのかな、いちおう」

「日数的にはそんな経ってねぇけどな。……まぁでも、久しぶり」

「というか、やっぱり今は君が用意してるんだね、ごはん」

「まぁな、いちいちアレコレ指示するよりこっちのが手っ取り早いし。もうほぼ終わってるから待ってろ」

「あ、うん……」


 昨日脱衣所として使った洗面所を借り、僅かに残った眠気を飛ばす為に顔を洗って戻る。そこでテーブルに並べられていたのはスクランブルエッグらしきものだったり、味噌汁だったり、白ご飯だったり。和食洋食の区別のつけにくい、ある意味で日本的な朝ごはんだ。馴染み深いといえば馴染み深い。


「……その、どのぐらい食うのかとか分かんなかったから、多かったら残していいし足りなかったらなんか買ってくる」

「……最初に謝罪から入るとこ、生駒くんと同じだね」


 苦笑いする”彼”を余所に早速座って、いただきます。

 ご飯と味噌汁以外は一枚のプレートに載せられていて、その中で目をひくのはやはりスクランブルエッグだ。見れば小さいエビが混ざっていて、ふわふわとプリプリの食感の違いが楽しい。


 わたしの「美味しい」も忘れて箸を進める様に一応安心してくれたのか、彼も小さく挨拶して食べ始める。普段は彼ひとりで自分の作ったものを食べている訳だけど、それがどういう感覚なのか料理の出来ないわたしには分からない。でも、彼がもしそれに寂しさとかを感じているなら、これからもこうして――


「そういえば、生駒くんは?」

「まだ”寝てる”。祐樹が起きるのは朝飯食い終わってちょっとした頃だよ」

「……その”寝てる”って?」

「まんまだよ、何も考えないし、何も感じない状態。オレが騒がしくすれば別だけど、基本その必要もねぇし」

「……生駒くんと君って、根本的には同じなんじゃないっけ? なのに片方だけ起きてる、なんてことあるの?」

「オレが知るか。……ま、体が起きてても脳が寝てる、なんてのは普通なんだし、これもその延長じゃねぇかな。体は回復してても、祐樹の心はまだ充分に休めてねぇってことなんだろ、多分」

「心が、休めてない……」

「……いや、分かんねぇまま言ってんだから真に受けるなよ?」


 彼はそう言うけれど、結局それが正解なんだろう。なんたって彼はある意味では生駒くん自身な訳だし。


 それからは特に話題はなく、そのままお互い食べ終わる。彼は食べ終わった食器をキッチンに運ぼうとするわたしを止めると、自分のとわたしのを纏めて重ねて立ち上がる。

 そして流しに運ぶところまでは何事も無かったのだけれど、それを置いた途端、彼の姿が派手な音と共に消えた。慌ててキッチンに駆け付けてみると、そこには案の定、膝から崩れ落ちて流しにしがみつき、下の収納の戸にもたれかかる彼の姿があった。


「ちょ、大丈夫!?」

「……あー、大丈夫。クソ、まだ上手くいかねぇか……ここまでは良かったのになぁ……」

「え、まさか体調悪いんじゃ……」

「いや、そうじゃなくて。……どうもイマイチピンとこねぇんだよ、体の動かし方」

「あ……」


 考えもしなかった。確かに「表に出てこられるようになったのはここ最近」というようなことは言っていたけれど、まさか普通に体を動かすことすら上手くいかないほど不安定なんて。


 ややふらつきながら立ち上がった彼を支えながら、ひとつ疑問があったことに気付く。


「そういえば、なんだけど。……君って、なんて名前なの?」

「……は?」

「だから、君の呼び名。生駒くん、”あいつ”としか呼ばないから。なんて呼べばいいのかなって」

「あー、そういうことか。別にねぇよ、名前なんて。祐樹とオレで話す分にはとくべつ何か呼び名なんて必要なかったしな」

「でも、わたしが呼ぶときには不便でしょ? 何か無いの?」

「んなコトいってもなぁ……」


 わたしに支えられながらリビングに戻り、ゆっくりとソファに座りながら、彼は本当に困った様子だ。……となると。


「ねぇ、取り違えられた相手の子って、なんて名前だったの?」

「……おい、いくら何でもそれで呼ぼうとすんな」

「違うって、参考にするだけだもん。それで?」

「……七織ナナオリ ヒロ

「……んー」


 七織 尋。それが本来彼に与えられるはずだった名前。けど、取り違えられたとはいえそれは彼ではない別人の名前であって、彼の名前としてはふさわしくない。

 元の生駒くんの名前の要素を残しつつ、尋という少年とは違う意味で”彼ではない彼”の名前として、近すぎず遠すぎない名前……。


「……ナナキ、とか」

「は?」

「だから、君の名前。”七織”と”祐樹”で、ナナキ。どうかな?」

「いや雑すぎんだろ……っつか、誰も名前欲しいなんて言ってねぇだろうが」


 やっぱり、彼は嬉しそうにはしていない。

 考えすぎかもしれないけれど、彼なりの生き方というか、彼が彼として存在するための理由があって、名前を得ることはそれに反してしまうこと……なのかもしれない。


 でも、やっぱり自分の存在の証である”名前”がないのは寂しいと思うし、生駒くんは”自分”に対してそんな気遣いも、優しさも向けないだろう。だから、わたしが。


「……わたしが君に、名前をあげたい。ちゃんと、君だけの名前で呼んであげたい。こんなの押し付けだって分かってるけど……でも――」

「――だああああっ、わーかったっつの! はいはい、オレの名前はナナキな!」


 彼は諦めたのか、わたしの態度がいい加減鬱陶しかったのか、彼――ナナキはぶっきらぼうに受け入れてくれる。んー、彼らとは関係なくとも、もう少しセンスのいいというか、もっと考えた由来の名前にするべきだったか……。


「……ったく。勝手に付けといて後悔すんなっつの。気に入らねーけどこれでいいっつってんだろ。全然気に入らねーけど」

「……ごめん。それとありがと、ナナキ」

「……ったく」


 大袈裟なくらい悪態をつくナナキがおかしくて、つい小さく笑ってしまう。口ではああ言っているけれど、なんだかんだ気に入ってくれたようで安心だ。


 と、そこでナナキは何かを思い出したかのように「あっ」と声を漏らす。


「授業とっくに始まってるけど、どうすんだ?」

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