第15話 コインの裏側

「お、お邪魔しまーす……」

「どうぞ、いらっしゃいおい……はる……及川さん」


 今わたしはある意味念願叶って、いつもみたく「及川さん」と言いそうになって「春音」と呼び直そうとしたけれど、やっぱり言えなくて「及川さん」と呼んでしまったらしい生駒くん――そういえばわたしもまだちゃんと名前で呼べていない――に招かれ、やってきたのはそう、生駒くんの暮らすアパートの一室に来ているのである。来てしまっている。


 ――どーしよう。生駒くん一人暮らしだよね。で、そろそろ19時で充分夜の時間帯だよね。雨は止みそうにないし安心したせいか足も意識もなんだかフラフラだよね。それで生駒くんはそれに気付いてるみたいだし、何だったらせっせと冷蔵庫覗いて「二人分……」とか呟いてるよね。


 えっと、つまり、これは、その。


 俗に言う、”お泊り”というヤツではないでしょーか――!?!?!?


 いやまだそうと断定するには気が早い。恥ずかしながらわたしは料理なんてからきしだし、土曜日のカルボナーラ以降何も食べてないからいい加減限界をとっくに越えてる頃合いなのを見抜いてごはんを作ってくれた後、優花さんに迎えを頼んで家まで送ってくれるのかも……いやいやあの人多分車なんて持ってないよ! だったら公園から喫茶店までの道のりで車使うもん!


 それならお父さんに連絡して……あーだめだ絶対話ややこしいことになるし説明なんてできっこない! でもだからってそんな急に泊りだなんてそんな――


「及川さん」

「ひゃいっ!?」


 勝手に暴走して考え過ぎているところに話しかけられて、つい奇声を上げて大袈裟に振り返ってしまう。生駒くんも驚いたのか、両腕を縮めて胸の前で小さくしている。童顔で微妙にあどけなさが残っているせいでどうにも小動物的だ。


「えっと、ごめん。それで何の用?」

「あ、うん。しばらく食べてないみたいだし、急にしっかりしたもの食べると逆に体に悪いと思うから、おかゆにしようと思うんだけど……大丈夫かな?」

「あ、はい……大丈夫デス……」

「わかった。……と、制服乾かした方がいいよね。とりあえず一旦は浴室乾燥機使うとして、着替えは……姉さんのを貸すよ」

「あれ、優花さんってここに住んでたの?」

「いや、近くの喫茶店に住み込んでる。着替えとかは、その……姉さんが僕の生活費工面するのに引け目を感じないようにするカモフラージュで」


 あぁ、という妙な納得感がある。生駒くんも鈍い方ではないからすぐにバレることくらい分かりきっていただろうけど、それでも気を遣わずにはいられないのがあの人であり、この姉弟だ。


「ついでにお風呂入っちゃっていいよ。あ、でも湯船で寝ちゃうと危ないから、シャワーだけにしておいた方がいいと思う。タオルとかは洗濯機の上に置いておくね」

「あ、うん。……急に無理しなくてもいいからね」

「……うん」


 生駒くんはいつもこうだ。いっつもいっつも、他の人の為に無理をして。今もわたしの為に色々と気を配ろうとしている。

 でもだめだよ、そういう限界以上の”無理”が抜けてくれないと、わたしを世界一幸せにするなんて出来ないんだから。


 リビングダイニングとキッチンから玄関側に廊下を戻り、キッチンの裏側辺りにある脱衣所の扉を開ける。制服を脱ぐ前に軽くバスルームを見ると、生活感がまるでないほどに清潔に保たれている。給湯器のランプは既に点灯しているから、ここもわたしの部屋と同じで、他の水回りでお湯を使うと他のところでもお湯が出るようになる仕組みなんだろう。


 脱衣所に戻ったわたしは、生駒くんが覗きなんてする人じゃないと分かっていてもなんだか気恥ずかしくて、そそくさと服を脱いで一旦ドラム式洗濯乾燥機の中に入れる。下着までは濡れていないから、こっちは一晩くらいなら着回せる。

 言われたとおりにシャワーだけにして、ボディソープやシャンプーはこっちもどうにも変に意識してしまいそうなのでやめておいたけれど、それだけでも充分に筋肉が弛緩してくる心地よさがある。下手をするとこれだけで寝てしまいそうだ。


 と、そこで脱衣所から生駒くんの着替えとバスタオルを用意した旨の声が聞こえて意識を持ちなおす。ここで寝てしまうと最悪生駒くんが突入してくることになる。それはちょっと、かなり困る。


 すぐに上がって脱衣所に出てタオルで軽く水気を払い、用意してもらった部屋着を着る。深い青のチュニックとダークグレーのゆるいレギンスは、もともと部屋着で大きめであることを考えてもやはり大きい。どうしても袖が長すぎて指先がちょこんと出ている感じになってしまう。

 と言ってもそこに文句を言うつもりは更々無いので、タオルを頭に軽く被ったまま部屋に戻るが、そこには既にいい感じに食欲を掻き立てるいい香りが漂っている。


 そして色々な要素にドキドキしながら待っていたわたしに出されたのは、卵でとじられた「お粥」と呼ぶにはあまりにも豪華な一品。

 ぱっと見はどちらかと言うと雑炊に近いけれど、部屋の照明が暖色系なせいかそれとも空腹で視覚がどうかしてきたのか、白いご飯と黄色い卵が輝いて見えて仕方ない。だと言うのに、生駒くんは少し申し訳なさそうにしている。


「……その、僕が”僕”として料理するのは久しぶりで……ちゃんと味見はしたし、失敗したわけじゃないから大丈夫だとは思うけど、美味しくなかったらごめん……」

「とてもそんな風には見えないけど……ていうか、普段はやっぱり”彼”が作ってるんだ」

「うん。今日もやればいいのにっては言ったんだけど、この間のことで出てきにくいみたいで――あぁもう、言い訳するくらいなら出てきなようるさいなぁ」

「…………」


 唐突にわたし以外の相手と話すものだから、少しばかり面食らう。”彼”は自分たちのことを普通の多重人格とは違うと言っていたけれど、こう見るとドラマやアニメで見る多重人格そのものだ。……もしかしたら、違うのはそっちなのかもしれないけれど。


 ともかくわたしはレンゲを手に取って、限界を越えた栄養不足を訴える身体に促されるまま食前の挨拶を口にすると、一人用の湯豆腐などで使うような小鍋からご飯を掬い、口に運ぶ。


 ……うわなにコレ、ご飯なのにふわふわだ。しかもつゆが体に染み込んでくる、昆布だしだこれ! たかだか三十~四十分で作ったにしては手が込み過ぎてるんじゃないだろうか……。


「……凄い。おいしい」

「……良かった。まぁ要所要所あいつの手は借りたから、そんなに変なことになってないことくらいは分かってたんだけど。

 それでも、うん。やっぱり好きな人にそう言ってもらえると安心する」

「……ばか」


 照れ隠しに食べる手を進める。わたしを名前で呼ぶことには照れるくせに、こういうことはサラッと言うんだから分からない。いまだに面と向かって言えていないわたしが恥ずかしくなるじゃん。


 やがてお互いが食べ終えたころ、少しの気恥ずかしさを伴った幸福の温度に誘われて、しばしば封じていた眠気が訪れる。


 わたしはそれに抗おうともせず、ゆっくりと意識を沈めていき――

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